公女フェリシティの生
『シャーロット王女の死』の続編になります。そちらを読まないとわからない部分がありますのでご了承ください。
国を捨て、シャーロットという名前も捨て、愛しい人に新しい名前をもらい、魔術大国ファレルデイン帝国のアディレノン公爵家に養子入りし、公爵令嬢となったフェリシティ。
新しい人生を歩む彼女は今、公爵城の庭園にある浅い人工池の中心に立つガゼボで、養母である公爵夫人ベアトリクスとティータイムを過ごしていた。
ベアトリクスがポットに魔力を注ぐと中の水がお湯となり、それを使って紅茶が淹れられる。ポット自体が魔術具で、中の水を温めたり冷たくしたりすることができるらしい。
「フェルちゃんも魔力操作ができるようになれば使えるわよ」
興味深く観察しているフェリシティに、ベアトリクスがそう微笑んだ。
非魔術師であっても、生物は必ず魔力を持っているもの。よって魔術が使えなくとも魔力そのものを操ることは可能であり、例えば魔石の魔力が尽きた魔術具であっても、新たに魔力を注いだ分だけ使用することができるという。
(魔力操作……)
フェリシティは魔術の素質がないことが不思議なほど、尋常ではない魔力を保有していると聞かされている。魔力の流れなど感じたこともないので実感は一切ないけれど、魔力の操作ができるようになれば、魔術具を利用して――魔術をもっと身近に体験することができる。そう考えるだけでわくわくしてくる。
「奥様」
フェリシティが紅茶に視線を注いでいたところで、このガゼボに続く道を歩いてきた執事がベアトリクスに耳打ちをする。
「あらあら」
「……何かあったのですか?」
呆れを含んだ声を零すベアトリクスに尋ねると、ベアトリクスは困ったように眉尻を下げた。
「それが――」
説明しようと口を開いたベアトリクスだったけれど、ふとガゼボの外に視線を向けて僅かに眉を寄せ、口を噤む。
フェリシティも倣うようにベアトリクスの視線の先を辿ると、見たことのない少女がこちらに歩いてきているところだった。
質のいいドレスを身にまとい、侍女も連れており、歩いている姿勢や足運びから、貴族の令嬢であることが見て取れる。
「ご機嫌よう、叔母様」
「モニーク」
ガゼボに足を踏み入れた少女の挨拶にベアトリクスが口にした名前で、彼女の正体がわかった。
公爵家に養子に入ることになり、休息が必要だと勉強らしい勉強は今のところまだ始まっていないけれど、取り急ぎ頭に入れておくべき知識だけは教え込まれている。
モニーク・セヴァリー侯爵令嬢。ベアトリクスの実兄セヴァリー侯爵の娘だ。年齢は十四歳。フェリシティにとっては義理の従妹にあたることになる。
つまり、身内。
フェリシティが情報を整理していたところで、ベアトリクスが額に手を当てて息を吐く。
「貴女を招待した覚えはないし、訪問の連絡も受けていないわよ」
「申し訳ございません。叔母様たちが養子を迎えたとお聞きしたもので、ぜひご挨拶を、と思いまして」
モニークの目がフェリシティに向けられる。
彼女は男性に人気がありそうな可愛らしい顔立ちをしている。しかし――その眼差しからは、あまり好意的なものが感じられない。
「お初にお目にかかりますわ。モニーク・セヴァリーと申します」
優雅に一礼をしたモニークの所作は洗練されたもので、まるで見せつけているように感じられた。顔を上げたモニークは挑戦的な笑みを浮かべていて、なるほど、とフェリシティも立ち上がる。
彼女の意図はやはり最初に受けた印象で合っていた。
売られた喧嘩は買う。
「公爵閣下と公爵夫人に新しく家族として迎え入れていただきました、フェリシティ・アディレノンです。よろしくお願いします」
ドレスをつまみ、軸もぶらさず、フェリシティは自然に礼を取る。モニークよりも美しく、優雅に。
すると、モニークの空気が多少変化したことが伝わってきた。気に入らない、という視線をひしひしと感じる。同時に驚きも滲んでいた。
侮っていたのだろう。出自が不明の養子を。
けれどフェリシティは、少し前まで王太女として厳しい教育を受けてきたのだ。国が異なるので少しばかり礼儀作法に違いはあるけれど、それもシャーロット時代に外交のためにと学んでいる。文句の付けようもない振る舞いなど造作もない。
「それにしても、挨拶をという気持ちは理解しますが……連絡もなしに他家に押し入ってくるだなんて」
呆れを隠さずにため息を吐くと、瞬時にカッと怒りで顔を赤くしたモニークが「わたしはね」と語気を強める。
「幼い頃から公爵家にはよく出入りしているの。気軽に立ち寄ってと。貴女は知らないでしょうけれどね」
「ですが、事前の連絡は必須ですわ。お客様を迎え入れる準備というものがありますもの。お母様からも先程そのご指摘があったでしょう」
「わたしと叔母様たちの間に他人行儀なもてなしは不要よ。公爵家はわたしの第二の家も同然なのだから!」
腕を組んで胸を張ったモニークの自信たっぷりの表情に、フェリシティは「そうですか」と落ち着いた微笑みを浮かべる。
(やっぱり子供だわ)
モニークがフェリシティをよく思っていないことは確かだ。取り繕うことなく全身でそれを表している。
そして、刺々しく凄みを出そうと――フェリシティを萎縮させようとしているようだけれど、モニークが思っているほどの効果はない。
「わたくしが公爵家の一員となった以上、マナーには気を配ってほしいと公爵家から要望があったと思うのですけれど……考慮するつもりはないということですわね」
「な、なによ。貴女が養子になったからって、わたしと叔母様たちとの関係が変わるわけではないもの。当然でしょう」
フェリシティがため息交じりに告げたことで、あっさり狼狽えたモニークの口調が少し弱まる。
「まだ公爵家に不慣れなわたくしへの配慮を求めていた、ということを理解されていないのですね」
「ふ、ふん。すぐに慣れていないなんて、この先が不安ね。エセルバート様と婚約するつもりでしょうけど、その体たらくでやっていけるのかしら。エセルバート様に愛想を尽かされるのも時間の問題でしょうね!」
その言葉には、フェリシティがモニークの相手を始めたことで静観に回っていたベアトリクスがさすがに反応を示し、鋭く目を細めた。
エセルバート。このファレルデイン帝国の皇弟であり、アディレノン公爵家の跡取りであり、フェリシティの恋人でもある人。ここで彼の名前を出したということは、彼女にとって最も重要な部分だからだろう。
とにかくフェリシティをどうにかしてこの公爵家から追い出そうと必死なモニークは、ベアトリクスの雰囲気の変化に気づいていないようだ。やはり子供である。視野が狭く、己の感情のままに動いている。
「心配は無用です。エセル様はいつもわたくしへの愛や、わたくし以外と結ばれるつもりはないという気持ちを、はっきり言葉でも態度でも伝えてくださいますから」
「……今はいいかもしれないけれど、非魔術師だという貴女では、エセルバート様をお支えするのはきっと難しいわ。エセルバート様のことを思うなら身を引くべきじゃないかしら」
「エセル様のお気持ちが大事だと思いますわ。それに、わたくしたちはとても魔力の相性が良く、わたくしに触れることはエセル様にとって最大の癒しになるそうです。すでに寝室も一緒ですし、毎晩共に寝ていますもの」
「なっ……」
さらりと告げた事実に、モニークは顔を真っ赤にしてはくはくと口を動かす。子供には刺激が強かったのかもしれない。
「は、ははっ破廉恥だわ!」
「エセル様が望まれていることですから、つまりエセル様を破廉恥だと罵っているのですわね」
「そんなわけないでしょう! 恥ずかしげもなく他人にそのようなことが言える貴女の神経がおかしいと言ってるのよ!」
両頬を手で覆ったモニークは、「ま、毎晩だなんて……!」と相変わらず真っ赤な顔で震えている。
寝室を共にしているというだけで毎晩体を重ねているわけではないのだけれど、思いっきり誤解しているらしい。フェリシティはあえて誤解を解かないでおくことにした。
「恋人同士のことに他人が口を挟むものではありませんわ」
余裕を見せて諭すように告げれば、それまで羞恥心でそわそわしていたモニークの形相が怒りに満ちたものになった。
「エセルバート様は帝国始まって以来の天才と名高い魔術師なのよ? それに皇弟殿下。婚姻相手はそれ相応の能力と地位を持った、エセルバート様の助けになるような人でなければならないわ!」
「モニーク」
「エセルバート様に釣り合うために努力を重ねてきた人はたくさんいるわ! わたしだって、ずっと自分を磨いてきたの! それなのに魔術師ではない人間なんて、エセルバート様にも、アディレノン公爵家の令嬢にも相応しくないわよ!」
「――モニーク・セヴァリー」
冷たく厳しい声に、モニークがぴたりと口を噤む。そうして、「叔母様……?」と戸惑いながらベアトリクスを窺った。
「努力を重ねてきたというのなら、己の分を弁えなさい。貴女は私の親族とは言え、所詮は侯爵令嬢よ。アディレノン公爵家のこと、そして皇弟殿下のことに口を出せる立場にあるの?」
「それは……ですが叔母様――」
「事前の知らせもなく爵位が上の他家を訪問した挙句、公爵家の娘を誹ったのよ。侯爵令嬢としての誇り以前の問題で、人としての基本的なマナーや気遣いが欠如しているわ」
厳しく責め立てられると、モニークはぎゅっとドレスを握りしめて俯いた。けれどベアトリクスの態度は軟化しない。
「帰りなさい。公爵家として正式にセヴァリーに抗議させていただきます」
「……申し訳、ありません」
涙を堪えるモニークの姿を見ても、ベアトリクスは優しく声をかけない。
「お客様がお帰りよ」
ベアトリクスの言葉に執事が応え、すっかり沈黙してしまったモニークと侍女を連れていく。その姿を見送りながら、ベアトリクスはため息を吐いた。
「ごめんなさいね。あの子、小さい頃からずっとエセルバートのことが好きだから……。フェルちゃんのことを聞いて、居ても立ってもいられなくなったのね」
突然の義従妹の襲来よりもフェリシティが驚いたのは、普段温和でのほほんとしたベアトリクスのあの毅然とした態度だ。きっとモニークも驚愕したことだろう。
モニークの努力は本物だ。優秀なのは確かだと事前に聞いている。実際に目にして、今回は感情的な部分ばかりが目立っていたけれど、侯爵令嬢としての振る舞いについては基礎以上のものが窺えた。
「継承権の問題がなければ、エセル様の婚約者としてもアディレノンの養子としても、有力な候補だったのでしょうね」
フェリシティが率直な感想を述べると、ベアトリクスは目を伏せて「そうね……」と口を開く。
「あの子を養子にする、という話が出たことは確かにあるわ。お兄様のところは子供が三人いるから」
セヴァリー侯爵家は兄二人と末っ子の妹の三人兄妹。子供を一人養子に出しても跡取りに困ることはない。
「でも、公爵家は皇族の血が濃い人に継がせた方がいいということになったの。あの人……旦那様がすごくエセルバートを可愛がっていたから、自然とエセルバートが最有力候補になったわ」
公爵夫妻の間に子供はできなかった。そして公爵は、皇位継承権問題でごたごたしている時代を生きてきた一人。だからこそ殊更、似た立場に置かれてしまっているエセルバートのことが放っておけなくて、そして大切に思っているのだろう。
「もしモニークを我が家の養子にしたら、モニークと結婚させてエセルバートにアディレノンを継がせる、なんて話に繋がるのは目に見えていたから……。エセルバートには好きな人を奥さんにしてほしかったのもあって、あの子の養子の話は立ち消えになったわ」
アディレノン公爵家は先先代の皇帝の弟の血筋であり、アディレノン公爵本人も実力のある名高い魔術師。養子を迎えるとなればその条件は厳しいものだったということは、容易に考えが及ぶ。
そんな中、アディレノン公爵が正式に後継者にエセルバートを指名したことが公表されたのは数年前。その公表により、公爵家の養子とするならエセルバートの婚姻相手になることがほぼ確定された。
しかし、エセルバートの婚約については噂ばかりが広がるだけでついぞ動きはなく、エセルバートは数多の令嬢から言い寄られても靡く気配がなかったという。そうしてようやく選ばれたのが、知らぬ間にエセルバートと想いを通じ合わせた、出自も不明の非魔術師であるフェリシティ。モニークとしては納得がいかないのも当然だろう。
エセルバートは魔術師としての能力に重点が置かれてしまう魔術大国特有の後継者争いへの懸念から、非魔術師の伴侶を求めている。モニークがその条件を知ったのは一年ほど前のことだったそうだ。それまで必死に魔術師としての腕を磨き、侯爵令嬢としても己を磨き、エセルバートに相応しくあろうと奮励していただろうに、大きな衝撃を受けたことは想像にかたくない。
どう足掻いてもモニークがエセルバートと結ばれる未来はないけれど、だからこそ他の者があっさり婚約者の座に収まることが受け入れられない、という心理なのかもしれない。
エセルバートの伴侶は優秀な魔術師であるべき。そう信じたいのだろう。魔術師同士の婚姻を推奨している国なので、その考え方は自然だ。
「生まれた時からあの子だけでなく甥たちのことを見てきたし……子供ができなかった私にとって、あの子たちは実の子供のような存在なの。特にモニークはエセルバートに追いつこうと本当に必死で……だから、どうしても甘くなってしまうわ」
「甘く、ですか」
今回の対応は十分、理性的で厳しいものだったように思う。
「あれは確実にあの子の態度が悪かったもの。悪いことをしたのならしっかり叱らないと」
「それはそうですわね」
甘やかすだけでは人はだめになってしまう。そうなった人を、フェリシティは知っている。
「あの子を娘のように思ってはいるけれど、フェルちゃんのことだって本当の娘みたいに大事よ。それに、エセルバートが望んだのは貴女との婚姻で、貴女も応えてくれた。貴女たち二人がお互いに結ばれることを望んでいるのだから、貴女が言っていたように他者が口を挟むものではないわ」
柔らかく笑みを浮かべたベアトリクスに、フェリシティは「ありがとうございます」と笑った。
図書館でゆったりとソファーに腰掛けて本を読んでいたフェリシティは、「フェル」と声をかけられて顔を上げた。
「エセル様」
少し外に出ていたためモニークとの遭遇はなかったエセルバートだ。本を閉じて座面に置いたフェリシティの隣に、彼はモニークのことを聞いたと伝えて座る。
「すまない。可能な限り不自由のない生活を提供すると約束したのに、不快な思いをさせただろう」
「いえ。エセル様の隣に立つとなるとこの程度の問題は多々あるだろうと想定しておりました。魔術師であること以前に、エセル様はモテる要素がとても多いですからね」
透き通るような銀髪に青紫の綺麗な瞳、整った顔立ち、均整のとれた体つき。その容姿を筆頭に、実力や地位、権力、財力と、人から好意が向けられる要素は多い。
同時にそれは、妬み嫉みなどの悪意が向けられる要素も並大抵ではないことを意味するけれど。
「それに、彼女の気持ちも理解できます。努力が実らない悔しさや虚しさはよく知っていますから」
エセルバートに少しでも良く思われようと、周りからも不釣り合いだと馬鹿にされないよう、彼女はずっと精進してきたはずだ。実際に結果は出ているのだろうけれど、一番重要な――エセルバートの気持ちは、動かせていない。どれほど悔しい思いを抱えていることか。
「どこかの王女に比べれば可愛いものですわ。彼女は話が通じるようですし、正面から堂々と向かってくるところはむしろ好印象です」
「好印象なのか……?」
「ええ。陰でこそこそ仕組まれるよりわかりやすいですし、撃退が楽なので」
「……なるほど」
モニークは今、現実を受け入れたくなくて必死に足掻いているのだ。
「好きなタイプの人間ではありませんが、嫌悪感はそれほど込み上げてきません。この家での生活で心に余裕があるのかもしれませんわね」
アディレノン公爵家での生活は穏やかだ。一途に想ってくれる恋人がいて、優しく愛情をくれる家族がいて、親しみを込めて慕ってくれる使用人たちがいて、これまで知ることのなかった幸せというものを噛み締めさせてくれる。
「まあさすがに、エセル様と交際していた方に直接自慢されることがあれば多少は不快感を覚えるとは思いますが……」
フェリシティが呟くと意外そうに目を瞬かせたエセルバートは、口元を片手で隠して視線を逸らす。その耳は少し赤みを帯びていた。
「過去に交際経験はない」
「恋人ではなくとも、割り切ったお付き合いをしていた方はいらっしゃるのでは?」
「……」
さーっと、無言のエセルバートの肌から赤みが引いていく。一瞬での変わりようにフェリシティは微笑を零した。
「過去のことですもの、責めるつもりはありません。ただ、少しの嫉妬くらいは許容してください」
こちらを見ようとしない愛しい人の手の上に自身の手を置けば、ようやく青紫の瞳がフェリシティを映す。どこか不安や気まずさに揺れているその目をまっすぐ見つめた。
こんなにもわかりやすく過去の己の行動に罪悪感を感じているということは、それほど彼がフェリシティを想っているということ。フェリシティが知らない頃の彼のことを考えると複雑な心境になってしまうけれど、そこに囚われていたって過去が変わるわけではない。
今、彼の瞳に映っているのはフェリシティだ。今後もその状態が変わらないのであれば、それでいい。
ただ少しだけ、不満が渦巻くのは仕方がないのである。――それが、誰かを好きになるということなのだろうから。
「最近気づいたのですけれど、わたくしは存外、欲深いようです」
目を丸めて驚きを見せたエセルバートは、口元を覆っていた手を離し、フェリシティの頬を撫でる。顔を近づけ、熱を宿した眼差しはフェリシティだけを捉えていた。
「これだけは理解していてほしいのだが、君以外に特別な感情を抱いたことはない。君に出会う前は、私の興味は基本的に魔術が大部分を占めていたからな」
フェリシティが重ねていた手は、指を絡めて繋がれた。手の甲に硬い指の皮膚の感触がする。男性らしい骨張った手は相変わらず大きい。
「私がこんなにも触れたいと思い、共にあることを希うのは、後にも先にも君にだけだ」
「それはとても嬉しいことを聞きましたわ」
艶然とフェリシティが微笑むとエセルバートも目を細め、顔を寄せた。
◇◇◇
それからというもの、モニークの襲来は何度かあった。
「今国内で研究が進められているのは浮遊の魔術よ。現在の術式では魔力消費がとても激しくて改良が進められているけれど、ただ浮かせるだけでなく思う通りに左右上下斜めへと空中で移動を可能にするにはあらゆる術式が必要で、術式を省略するのは難しいの。回路を崩さずにそのままの効果を維持しつつ魔力の削減をいかに可能とするか……このように高度な魔術の話、貴女は付き合えないでしょう? わたしは教授の研究室に出入りしていて研究にも少し参加しているわ!」
「さすがセヴァリー侯爵令嬢、すごいですわね」
魔術師としての知識をひけらかして格の違いを見せつけようとしたモニークを褒め称えると、彼女は照れくさそうに頬を赤くして「ま、まあ? わたしの優秀さが理解できたようね!」と気分が良さそうに笑って帰っていき。
「叔母様はわたしが物心つく前からとてもわたしを可愛がってくださっているの。義叔父様だってわたしの魔術をいつも褒めてくださるわ。ずっと公爵家に通っていて、わたしたちにはたくさんの思い出があるの。ぽっと出の貴女には手に入れられない強い絆があるのよ! わたしは叔母様の血縁者だもの。叔母様の趣味は観劇とお菓子作りで、紅茶を淹れる腕だってとても素晴らしいわ。義叔父様はエセルバート様と魔術の研究をするのがお好きで、エセルバート様に魔術を指導したのだって義叔父様なのよ。わたしも一緒にそういうことを経験してきたわ!」
「とても仲がよろしいのですね、羨ましいです」
公爵夫妻との思い出やいかに自分が可愛がられていたかで自慢してきたモニークに素直な感想を告げると、彼女は嬉しそうに「と、当然よ。わたしは家族なんだから」と胸を張って帰っていき。
「エセルバート様は魔術の研究の邪魔をされることが本当にお嫌いで、研究室にはブランドン様でさえも気軽に足を踏み入れられないほどなのよ。研究室にいらっしゃらない時でも頭の中で魔術式を色々と組み直したりしていて、集中していることに気づかずに自分を売り込もうと話しかけたとあるご令嬢は怒りを買って、二度とエセルバート様の視界に入らないよう命じられたそうよ。貴女もそういう気遣いなんてできずにきっとすぐに追い出されるわ!」
「ご忠告ありがとうございます」
長い付き合いであるエセルバートに関する知識で煽ろうと出てきたモニークに感謝の言葉を返すと、彼女は出鼻をくじかれて「す、素直に聞き入れるのはいいことだわ」と戸惑いつつ帰っていった。
フェリシティがモニークの事前連絡ありに切り替わった襲来をどことなく楽しんでいる節があるので、公爵家の者たちは見守りに徹している。公爵夫妻とエセルバートがモニークの公爵家への立ち入りを禁止しようかと提案したけれど、フェリシティが断った。
フェリシティにとっては、フェリシティが出会う前のこの家のこと、エセルバートのことが聞ける機会なのだ。苦な時間ではないので、襲来を受けるたびにわざわざ茶会の席を用意して義従妹をもてなし、嬉々として相手をしている。
モニークの襲来について、どのような会話をしたかは侍女たちを通してエセルバートの耳に入る。けれど、フェリシティからも直接、必ずエセルバートに報告している。それは大体食事の席であったり、夜の寝室であったりする。
今日はモニークの襲来が早い時間だったので、エセルバートの自室――研究室として使われている部屋のテーブルセットで二人で過ごす休憩時間を設け、報告もしていた。ソファーに近い距離で二人で並んで腰掛けている。
「素直で可愛らしい方ですわね」
「そうか……?」
本日の報告を受けたエセルバートは、フェリシティの締めくくりの言葉に怪訝そうに首を捻った。素直という部分ではなく可愛らしいというところに納得していないようだ。
「愚直で面白いです」
「それは褒めてるのか?」
「褒めていますわ」
侯爵令嬢として、そして想い人の隣に立つに相応しくあるために、並々ならぬ努力を積み重ねてきたという自負があるからこその矜持。けれど、それでも想い人を振り向かせることはできないと心の底では気づいているからこその不安ややるせなさ。
モニークはまだ、夢を見ている子供なのだ。もうすぐ十五歳になるという年齢ゆえの未熟な心に従うがまま行動している。
可愛らしいと思うのと同時に、羨ましい。
「君はそれほどモニークを警戒していないようだが、一人で彼女に会ったり、彼女に紹介された者に会ったりすることはないように気をつけてほしい」
真剣な色を帯びた声で告げられ、フェリシティはエセルバートを見上げた。
「もちろん一人での行動はするつもりはないですけれど……何かあるのですか?」
「モニークが最近親しくしている子爵家の令嬢がいるんだが、どうもその子爵家が不審な動きをしているようでな」
「継承権関連のことですか?」
「恐らくは。子爵家は表向きは中立派を維持しているが、当主が私を皇帝にしようと企む過激派と接触しているという話がある」
それはまた不穏な話だ。
「モニークを利用して、何か計略を立てているかもしれない」
「彼女はそういうことは嫌いそうに見えますが」
「協力するつもりはなく利用されるだけという可能性が高いんだ。君が感じたように、彼女はまだ幼く素直すぎる面があるからな」
◇◇◇
一週間後、またもモニークの襲来を受けていたフェリシティは、今日も今日とてモニークをもてなしていた。
今回のお茶会はテラスで行われている。
フェリシティが淹れた紅茶を飲むと、モニークはその味にほぅ、と和んだ後、ハッとして少し顔を赤くし、「まあまあね」と評価を下すのが毎度の流れだ。ベアトリクスからモニークの好みは聞いているので、紅茶選びに文句のつけようはないはずである。もちろん淹れ方にも。
「髪がイヤリングに引っかかってますわよ」
フェリシティも紅茶に口をつけていると、フェリシティの髪を見たモニークが仕方がないわね、と言わんばかりに立ち上がった。
フェリシティに歩み寄り、絡まりを解いてくれるようで「失礼しますわ」と髪に触れる。すると次の瞬間、衝撃が走ったかのように瞠目した。
「さ、サラッサラ……」
どうやらフェリシティの髪の触り心地に多大な衝撃を受けたようだ。その気持ちはよくわかる。
「まあ、ありがとうございます。侍女たちが入念に手入れをしてくれているんです」
「どこのオイルを使っているの? 叔母様のお気に入りの化粧品メーカーかしら。あのメーカーは化粧品もさることながらヘアケア製品の品質も他所では真似ができなくて、似せることも難しいらしいのよね。特別な原材料を使っていることから流通量が少なくなかなか入手できなくて、社交界でも常にご令嬢やご夫人方の話題の中心――はっ」
熱く語っている途中で我に返ったモニークは、「こほん」とわざとらしい咳払いをする。
「な、なんでもないわ。忘れなさい。敵に塩を送ってもらうほど落ちぶれてはいないもの。わたしだって髪やお肌のお手入れは念入りにしていて自慢なんだから」
「ふふ、ええ。見ているだけで努力が窺えますわ」
外見には特に気を遣っているのだろう。愛しい人の気を引きたいとあれば。
「解けましたわ」
気を取り直してイヤリングから髪を解いてくれたモニークは、何か気になったのかフェリシティの首を見ている。
「あら、虫刺されかしら……」
首にある――襟で隠れ切っていない、赤い跡。白い肌には目立つそれを、フェリシティは少し気恥ずかしそうに手で隠す。
「ええ、そうです。虫刺され、虫刺されですわ」
その反応になんだか違和感を抱いて、モニークは少し考え――思い至ってしまった。
それは虫刺されではなく、愛情の証だとか、独占欲の証だとか、俗にそう称されているものなのだと。
フェリシティの首にその跡をつけたのが誰かなど、深く考えずとも明白だ。一人しかいない。
「違うわね。……虫刺されじゃ、ないわ」
モニークが気づいたことに気づいたフェリシティは視線を伏せる。
「困った方ですわよね。おかげで最近は肌をなるべく見せないドレスを着るしかなくて……」
モニークは己の中に激しくどす黒い感情が瞬時に広がったのがわかった。
目の前にいるのは、ずっと憧れ、慕い、追いかけ続けてきた人の心を奪った恋人。急に現れた他人なのに――こんなにも、彼に愛されている。
モニークは、一度たりとも異性として意識してもらったことがないのに。それどころか、あまり興味すら持たれていないのに。
エセルバートは魔術以外への興味が希薄だ。皇帝夫妻やその子供たち、アディレノン公爵夫妻のことは家族という認識を持ち、特別な存在だということが周りにも伝わってくるけれど――モニークは、ベアトリクスの姪だから、ある程度面倒を見てもらえただけ。
それはあくまで義務感のようなもので、決して彼自身がモニークに興味を抱いているわけではない。魔術の腕を磨いても、外見をどれほど整えても、彼の気は引けなかった。
だから、突然現れた、魔術師ではないどころか出自も不明の恋人など、認められるはずもなかった。
『それなら――公爵令嬢を追い出せば、モニーク様にもきっとチャンスが巡ってくるんじゃないかしら』
モニークの頭に友人の声が思い浮かんだ。熱心に相談にのってくれる友人だ。
『私は皇弟殿下の妻にはモニーク様が相応しいと思いますわ』
『それに、出自も明確ではないなんて怪しくはありませんか? きっと財産や権力目当てで皇弟殿下に近づいたに決まってますわ。ちょっとつついたら本性を現すでしょう』
『――皇弟殿下も公爵夫妻も、騙されているのですわ。モニーク様がお助けしないと』
騙されているかなんてわからない。その可能性が高いとは思っているけれど、とにかく今の段階で確かなのは、エセルバートは本当に、フェリシティを愛しているということ。
モニークではなく、フェリシティが選ばれたということ。
嫉妬が膨れ上がる。醜い激情に呼応するように、体内の魔力も暴れ出し、周囲に風が吹き荒れ――モニークはハッとした。
(まずいわ、抑えないと……暴走してしまう……!)
なんとか心を落ち着かせようとするものの、一向に収まる気配はない。むしろ魔力が溢れ出していく。
魔力は感情の昂りで暴走することがある。特に、技術が拙く感情の抑制が利かない幼い子供が多い。体内の魔力の循環が乱れ、体外に魔力が溢れ、溢れた魔力は何かしらの現象を起こす。その現象は魔力の性質によって異なり、風属性の魔術に向いているモニークの魔力は、嵐のような突風を生み出すのだ。
周囲の風が激しくなり、テーブルや椅子をも吹き飛ばしていく。それを視界の端に捉え、モニークは顔を上げた。
フェリシティが、すぐ近くにいる。
怪我をさせてしまった、と思ったのだ。非魔術師であるフェリシティに、この中で突風や突風により宙を舞う物から身を守るすべなどないから。
誰かに怪我を負わせてしまったかもしれないという恐怖と申し訳なさ、魔力の制御ができない不甲斐なさに目を潤ませていたモニークだったけれど、フェリシティの姿を視界に映すと目を丸めた。半球状の薄い光の膜がフェリシティを覆い、モニークの魔力から守っていたからだ。
これは間違いなく魔術の反応である。それも、恐らく術者の意思とは関係なく、危険が迫ったことを検知して自動で発動する高度な術式が組まれているようだ。
「どうして……貴女、魔術師ではないはずじゃ……」
「護身用に色々と魔術具を持たされていますので」
そう告げられ、モニークの視線がフェリシティの髪飾りに向けられた。イヤリング、ネックレスと、宝飾品を確認していく。
「タンザナイト……」
一通り確認して、ぽつりと小さく呟いた。
これらが誰からの贈り物か理解できたのだ。今の今まで気にしないように努めていたのに。
「……して」
「モニーク様」
「……どうして、どうしてよ! どうしてわたしじゃないの!? ずっと、近くで……ずっと追いかけ続けてきたのに……っ!」
泣き叫んでも、フェリシティは冷静にこちらを見据えている。その怯まない姿がモニークの怒りに拍車をかけた。
魔術師ではないのに、魔力暴走の影響下でまったく恐怖を感じていない。その強さが腹立たしくて、この歳になって魔力暴走を起こしている自分が情けなかった。
「――もういいだろう」
聞き慣れた声が突然割り込んできて、モニークは驚愕した。
「エセル様」
「エセルバート様……」
フェリシティの隣に、いつの間にかエセルバートが寄り添っていた。その目がモニークを射抜いており、モニークは怖くなった。失望された、と。
モニークが震えていると、エセルバートは僅かに目を細める。
「ひとまず眠れ。話は落ち着いてからだ」
「な、に……」
モニークは突然眠気に襲われ、意識を手放した。
数時間後、モニークは公爵邸の客室のベッドの上で目を覚ました。フェリシティはベッドの傍らに置かれた椅子に腰掛け、フルーツの皮をナイフで剥いている。
「どうして貴女がここにいるのよ」
魔力暴走の後ということで気まずいのか、モニークは顔を背けて刺々しい言葉を吐くものの、勢いがあまりなく弱々しかった。フェリシティは手を止めることなく手際良く作業を進める。
「看病ですわ」
「メイドに任せればいいじゃない。貴女、わたしのせいで怪我までしそうになったのに……」
「魔術でわたくしに傷がつくことは基本的にありませんし、あれはモニーク様が意図したことではありませんので」
そう言われたモニークが恐る恐るフェリシティの隣を見上げる。そこにはエセルバートが立っていて、フェリシティの手元に視線を落としていた。
「上手いな。怪我はするなよ」
「ええ」
他にも、部屋の中には公爵夫妻やブランドン、侍女の姿がある。
「セヴァリー侯爵家には知らせを送ったから、お兄様がもうすぐ来ると思うわ」
ベアトリクスが告げると、モニークは「そうですか……」と俯いた。そんなモニークのそばに、フェリシティは皮を剥き終えてカットしたフルーツを載せた皿を置く。
「どうぞ」
「……」
「食べないのですか? 梨がお好きなんでしょう?」
「……食欲がないわ」
拒否するモニークの口に、フェリシティは梨を突っ込んだ。
「むぐっ……ふぁ、ふぁいよ!?」
「魔力暴走の後は疲労感で体がおつらいと聞きます。食べないと回復しませんわ」
フェリシティが淡々とそう言うと、モニークは慌てて梨を咀嚼して飲み込んだ。
「だからって急に口に入れないでよ! びっくりするし危ないじゃない!」
「では仕返しということで、甘んじて受け入れてください」
「! ……なんなのよ」
そっぽを向いたモニークにフェリシティが笑っていると、エセルバートの手が伸びてフェリシティの手首を掴んだ。不満そうな顔で恋人を見下ろしている。
「私はされたことないぞ、それ」
「では今度してあげますので、今は大人しくしていてください」
フェリシティによって手が離されてやはり不満げなエセルバートだったけれど、特に文句を言うでもなく従っていた。
そして突然、エセルバートの目がモニークに向けられる。
「モニーク」
エセルバートの冷たい声でびくりと肩を揺らしたモニークは、ベッドのシーツをぎゅっと握った。
「ま、魔力暴走に巻き込んで彼女を危険に晒してしまったことは謝罪いたしますわ。テラスの惨状も酷いことでしょう。そちらも謝罪いたします。けれど、わたしの考えは変わりません。エセルバート様には血筋が確かな魔術師の伴侶が相応しいです。継承権問題を懸念されるのでしたら、早々に継承権を放棄すれば良いのですわ」
「私が貴女に惹かれることはない。そう何度も言っているはずだ」
「先のことなどわかりませんもの。わたしはまだ十四歳ですが、これから成長してエセルバート様好みの女性になれるよう努力します! 胸だって彼女より大きくなります!」
「……」
顔を赤くしながらも必死に訴えるモニークの口から飛び出た単語は誰しもが想定外で、暫しの沈黙が流れた。
「……そういう問題ではないだろう」
「エセルバート様は彼女の容姿と体に惑わされたのでしょう!」
「まど……」
「違うというのですか!?」
「……見た目が好みなのは否定しないが……」
「でしたら! わたしもきりっとした美人になってみせますわ! スタイルだって成長の余地があります!」
「ああうん、そうだな……」
なんかもうめんどくさい、という空気がエセルバートから垂れ流される。フェリシティはため息を吐いた。
「モニーク様」
呼べば、モニークの視線がフェリシティに向けられる。
「努力が報われないのはつらいですわよね」
「……貴女に何がわかるのよ。出自も不明なのに公爵家の令嬢の座に収まって、エセルバート様との婚約まで決まっているくせにっ」
そう訴えるモニークに、フェリシティは目を細めた。
「――好きな人の気持ちを踏み躙ってまで結ばれて、貴女はそれで満足? 結婚さえできればそれでいいの?」
「っ……」
「自分を愛してくれない人に愛を求め続ける人生を送って、それで幸せ?」
問われたモニークは言葉を詰まらせた。フェリシティは止まらない。
「仮にわたくしとエセル様の仲を引き裂いて貴女が婚約者になったとして、エセル様にとって貴女は恋人を奪った憎い相手となるのよ。そのまま結婚して、いつかは貴女に愛情が向くとでも? 妻として尊重されると、大事にされると、本気でそんな妄想を膨らませているの?」
「……でも、もしかしたら――」
「現実を見なさい、モニーク・セヴァリー。エセル様はそのように寛大な方ではないわ。ちゃんと貴女を大切にしてくれる方を探す方が幸せへの第一歩だと思うけれど? 貴女は可愛らしいし伸び代もあるのだから、案外すぐにいい人ができるんじゃないかしら」
フェリシティは笑顔でも、優しい表情をしているわけでもない。けれど声はどこまでも穏やかで、真剣だ。
「――何より、わたくしはエセル様の元を離れるつもりはないし、エセル様だってわたくしを手放すことはないわよ。付き合いが長いなら、心惹かれたものへの彼の執着がどういうものか、よく承知しているでしょう」
最後まで告げると、モニークの目に涙が浮かび、表情が歪む。
「……でも、だって……わたし、ひっく、……ずっと……っぅ、うわあああん!!」
泣き声が部屋に響き渡った。
まだ体力も回復していなかったのだろう。モニークが泣き疲れて眠ってしまったので、一度解散となった。
その後、侯爵夫妻がこちらに到着し、色々と今回のことを話してモニークを引き取ってもらった。
フェリシティは現在、エセルバートと部屋でくつろいでいる。
思い出しているのは、初めてモニークと対面した日のことだ。
『少し違和感はあるのよねぇ。確かにモニークはまだ精神的に未成熟だから感情的な面はあるのだけれど、いくらエセルバート絡みのこととはいえ、ここまで好き勝手な行動を起こすほど愚かな子ではないはずだし……』
あの日の夜、ベアトリクスはそんなことを言っていた。公爵も同様の意見だった。
『協力するつもりはなく利用されるだけという可能性が高いんだ。君が感じたように、彼女はまだ幼く素直すぎる面があるからな』
そして、エセルバートはそんな懸念を示していた。
その違和感と懸念は、結論から言うと的中していた。
エセルバートを皇帝にという意見を支持する過激派と接触があったという子爵。その娘から、モニークは幸運のお守りとしてポプリをプレゼントされていたらしい。それが実は精神を不安定にさせる作用がある違法薬物だったようで、モニークはその影響で感情的な言動を抑えられなかったようだ。
薬物をモニークに渡して中毒症状を引き起こしただけでは、侯爵令嬢への傷害罪は立証されるけれど、フェリシティに害を及ぼそうとしたことに関しては言い逃れをされる可能性が存在した。だからもう少し様子を見るべきではないかとエセルバートと公爵は悩んでいたようだ。
様子を見るということはつまり、薬物による症状が悪化し、モニーク本人にも周囲にも負担がかかる。このままモニークの行動を制限しなければ、――現時点でモニークに目の敵にされているフェリシティに負担が偏ることは目に見えていた。
その情報をエセルバートから共有された三日前、フェリシティは自ら提案した。だったら言い逃れも許されない状況をさっさと作って終わらせましょう、と。
実際にフェリシティが危険な状況に陥ったという結果があれば、皇弟との婚約内定が公表されている公爵令嬢――準皇族となるフェリシティを危険に晒したとして、確実に罪を重くできる。精神的に不安定な状態なら、少し煽るだけでモニークが魔力暴走を起こすのではないかと考えたのだ。
エセルバート、公爵夫妻、ブランドンを含め、公爵家の者たちには反対された。みんなフェリシティの身を案じてくれてのことだった。
しかし、天才魔術師や公爵家の人間がいて、最高級の魔術具まであるのだ。怪我の心配は杞憂でしかなくみんなを信頼しているとフェリシティが伝え、更に――。
『モニーク様は自分がエセル様に比較的近しい人間だと理解していますわよね。それなのに周囲の人間への警戒を怠ってこの体たらくなのですから、今後のためにも多少は過激な方法でお灸を据えるのも一つの手ではないでしょうか』
そのような個人的な意見も添えると、渋々受け入れてくれた。
そうして数時間前の襲来で、とにかくモニークを煽る作戦を実行したのだ。
もちろん近くにエセルバートやブランドンを始め、公爵夫妻、公爵家の優秀な騎士たちも待機しており、フェリシティも魔術具を身につけていたため、怪我の心配は欠片もなかったのである。
煽るとまあ、モニークは予想通りに暴走を起こした。それほどの効果を与える薬物を子爵令嬢がモニークに渡したこと、フェリシティに実際に危険が及んだことが立証されたわけだ。
「あえて泳がせて事が起こるのを傍観していたという責任が我々にはありますわよね、エセル様」
「もちろん、モニークも被害者だ。後で謝罪はする」
「提案したのはわたくしですので、謝罪をしなければいけないのはわたくしもですわ」
侯爵と夫人への謝罪はすでに終えている。
今回の一件は公爵家側があえて引き起こしたこと。すべての責任をモニークと侯爵家に押し付けるなんてことはしない。
「しかし……君はやはり彼女を嫌っていないんだな。この作戦を提案してきた時はかなり彼女にご立腹なんだと思っていたが」
「彼女には成長の余地がありますから。わたくしのように自暴自棄にならないことを願うばかりですわね」
かつての自分――『シャーロット』が最期に成した行為は、決して褒められたことではない。後悔はしていないけれど、あのように堕ちて、すべてを恨んで、誰もが罪悪感に苛まれないような人間ではない。
堕ちるところまで堕ちる前に、モニークは気づけた。
いや、性格的に、底の見えない穴にまで堕ちるような人ではなかったのかもしれない。
「わたくしやどこかの王女とは性質が根幹から異なりますもの。あまり心配する必要もないでしょう」
◇◇◇
モニークにポプリを贈った子爵令嬢とその家の者は投獄されたそうだ。子爵は令嬢を皇后にして権力を手に入れようと目論んでおり、天才的魔術師であるエセルバートを皇帝にしようとする過激派と手を組んだという。
急に現れた障害であるフェリシティと、エセルバートの婚約者候補として一番の有力候補と外部では目されていたモニークの二人をまとめて排除するつもりで、ポプリを装った違法薬物まで使い、モニークを焚きつけたらしい。
セヴァリー侯爵の娘への危害、そしてアディレノン公爵の娘――皇弟の婚約者にも内定しているフェリシティをも害そうとした罪は、決して軽くはない。
モニークに対しては厳重注意という形で収束した。違法な薬物による影響が強く出たために魔力暴走を起こしたこと、本人にフェリシティに危害を加えようという意図がなかったことから、それが妥当だと判断された。
過激派も一部捕まえることができたとかで、ひとまずこの一件は事が起こった後は驚くほど速やかに解決した――のだけれど。フェリシティにとって非常に不可解な別の問題が生じてしまった。
「――お姉様……!」
「え」
違法薬物の影響も完全になくなり、改めて謝罪をしたいということで公爵家を訪れたモニークから、フェリシティはとってもキラキラとした眼差しを向けられていた。
「この度は本当に申し訳ございませんでした! 薬物の影響を受けていたとはいえあのような失態、侯爵令嬢としてあってはならないことでしたわ。それでお姉様にご迷惑をおかけしてしまうだなんて……! 猛省しております!」
(どういう状況?)
困惑するしかなく、フェリシティの頭には次々とはてなが浮かぶ。
「どうやら懐かれたらしいな」
「え?」
なにがどうしてそうなったのか、フェリシティの困惑は増すばかりである。しかしエセルバートは妙に強い色香を纏い、フェリシティの腰を抱き寄せた。
「私以外に愛嬌を振りまいて心を奪うとは、油断も隙もないな。そんなに妬いてほしいのか?」
「愛嬌を振りまいた覚えはまったくないのですけれど……」
エセルバートもその場にいたのだからそんなことは知っているはずなのに、からかっているのがその愉快な気分を滲ませた目とわざとらしい口調から伝わってくる。
しかし色気漂うエセルバートには見向きもせず、モニークはフェリシティを見つめたまま口を開いた。
「エセルバート様のことはきっぱり諦めますわ。わたしはとても可愛くて魔術の腕も確かで、そのうえ侯爵令嬢なのですもの。叶わない初恋に拘って捕まえることのできる殿方を何人も逃すのは愚行ですものね! このわたしに靡かない男を追いかけるなんて時間の無駄だとようやく気づきましたの! お姉様のおかげです!」
「嬉しいがなぜか釈然としない言われようだな……」
「相手がお姉様なら誰だって負けを認めざるを得ませんわ。こんなにも美人でスタイルも良くて嫌がらせばかりしていた私にまで心を砕いてくださる慈悲深い方、そうそうおりませんもの! 悔しさはありますけれど、エセルバート様の女性を見る目は確かだということですわね!」
「慈悲深い……?」
エセルバートがなんとも言えない微妙な顔になり、フェリシティは過大評価に首を傾げる。そんなフェリシティの腕に抱きついたモニークは、エセルバートにキッと鋭い眼差しを送った。
「エセルバート様! お姉様を悲しませたら絶対に許しませんからね! その時はわたしがお姉様を幸せにします!」
「その心配は不要だし、私の婚約者にくっつくな」
「まあ。まだ婚約者ではないではありませんか。独り占めは許しませんわよ」
「面倒な執着癖がフェルに向いているだけでまったく矯正されていないな……」
エセルバートがうんざりした様子でいることなど気にもせず、モニークはフェリシティを見つめていた。フェリシティは相変わらず、今まで感じたことのない類いの戸惑いが増していくだけだ。
「とりあえず、『お姉様』はやめてくれませんか。その呼ばれ方はあまり好きではないので」
「ではフェリシティ様と……! 私に丁寧な口調は不要ですのでぜひともお気軽に接してくださいませ!」
キラキラと期待度が増した純粋な眼差しに、フェリシティはたじろぐのだった。
その日の夜。フェリシティはベッドの上で悶々と考えていた。
(どうしてこうなったのかしら)
心の底から疑問である。
「――フェル」
湯浴みを終えたエセルバートがやって来て、フェリシティの隣に座った。
「まだモニークのことを考えているのか?」
「どうしても理解不能で……」
「あれは理解しようとしなくていい思考だろう」
理解するのは難しいとはわかっているけれど、本当に不思議すぎてなかなか頭から離れないのだ。
「モニークが我が国の優秀な魔術師であることは事実であり、君と年齢が近い侯爵令嬢でもあるから、君にとって頼れる身内となるのは確かだ。あの様子だと、頼みごとでもすれば全力で応えてくれるだろう。程よく相手をしてやるのがちょうどいいんじゃないか?」
「程よく……」
そのあたりの加減はあまり自信がない。仕事であれば難なく対応できるだろうけれど、プライベートにおいて身内に程よく接するという距離感は経験がないのだ。
エセルバートや公爵夫妻、公爵家の使用人たちは、フェリシティの不慣れを理解しており、引き際というものをきちんと見極めている。けれどモニークは見るからに押しが強そうだ。
また思考の海に沈みそうになっていると、横から伸びてきた手に顎を捕らえられ、優しくエセルバートの方を向かされる。すぐに美しい顔が近づけられ、唇が重なった。
フェリシティが目を丸めてぱちぱちと瞬きをすること二回。その後、触れるだけで離れたエセルバートは目を細める。
「ベッドの上だ。そろそろ私に構え」
「……仕方のない人ですわね」
フェリシティが笑みを浮かべながらエセルバートの首に腕を回すと、エセルバートはまた距離を詰めるのだった。
今後、今回以上の厄介ごとが降りかかることもあるかもしれない。エセルバートとフェリシティの婚姻を喜ばない人間はこの国にかなり存在するのだ。
それでもフェリシティは、絶対に離れるつもりはない。
(わたくしは、貴方の隣で生きていくと決めたから)
誰にもこの場所を渡さないし、奪わせない。
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