8. とある少年兵の晴れ舞台(上)
「晴れたなぁ。」
その日は快晴だった。
雲ひとつない、澄み切った青い空。
遠くにそびえ立つ山脈も、やはりまた青く、神聖な美しさをまとっていた。
「山なんて、孤児院にいた頃は見たこともなかったっけ。」
ルネはふと、入隊して間もない頃のことを思い出した。
かつて自分が暮らしていた王都近郊の都市グランドールは、どこもかしこも人で溢れかえっており、人の手が入っていない雄大な自然風景などとは無縁の場所だった。
このランメルに派遣された最初の日、ルネは見慣れない景色に目を丸くしたものだ。
「それを聞いてマノンが笑って、僕はむくれてた。除隊したら家に遊びに来いよ、野兎の捕まえ方を教えてやるからって言ってくれたのは、確かエベルだったよね。」
優しい口調で紡がれるその言葉に、答える者はいない。
「お喋りが過ぎると怒られるかな。でも、標的が出てくるまで暇なんだ。今は誰もいないからきっと大丈夫だよ。」
ルネは視線を遠くに向けたまま、そっと胸元のペンダントに手をやった。
友人の一人が遺したペンダントは、太陽の光を反射して輝いている。
「故郷の歌を教えてくれるって言ってたのにね。いつまで経っても僕のレパートリーは増えないままだ。昨日歌った歌だって、そろそろ皆、聞き飽きたんじゃない?」
その瞳に映っているのは、フロンディアス軍の陣地後方――「第四会議室」。
土の下で静かに眠っている、ルネのかけがえのない友人たち。
琥珀色の瞳が、柔らかく、そして悲しげに細められた。
――今日、ルネはこの戦場から姿を消す。
記憶によれば、あと一時間ほどで標的が戦場に姿を見せる。
それまでの空白の時間は、彼らに別れを告げるため、ルネに許された最後の時間だった。
冒険譚が好きだったのは、ユーラ。
あの遠くに見える山々を越えた先にある景色を、いつかこの目で見たいと熱っぽく語っていた。
軍隊に来る前は工房に弟子入りしていたというテオ。
俺が一人前の職人になったら、ユーラの冒険のための道具を揃えてやるよと笑っていた、面倒見の良い少年だった。
(……ああ、最後に思い出すのはそんなことばかりだ。)
この大地には、彼らの流した血が染み込んでいて。
この空は、在りし日の彼らの姿を記憶の鏡のごとく映し出す。
(でも。この戦場とも今日でお別れだ。)
自分の身を包んでいる真新しいローブも、これきり着ることはないだろう。
フロンディアス軍魔術師としてのルネは、今日、ここで死ぬ。
青を映した瞳が、ゆっくりと閉じられる。
神を信じていないルネの祈りが、一体どこへ届くのか、知る由もない。
それでも、願わずにはいられなかった。
――どうか、ここで全てを安らかに眠らせてください。
――全てを置いていくことを、許してください。
「……いや。」
そこで、銀髪の魔術師はかぶりを振って苦笑した。
「許さなくていいや。」
立ち上がった拍子に、喪服の色のローブが揺れる。
開かれた瞳は来るべき戦場を見据えており、もう空の青さを映し出してはいなかった。
(さて、そろそろ来るはずだけど。)
F-429地点。
記憶によれば、両軍の一般兵が交戦している地点とはやや離れたこの場所で、ルネと敵軍魔術師は対峙することになっていた。
あのとき自分の命を奪った死神が、今度はルネを戦場から連れ出してくれる救いの使者であるというのだから、どうにも不思議な心地がする。
そしてほどなくして。
ルネは一人の青年の姿を捉えた。
(……間違いない。)
知らず知らず、ルネの琥珀色の瞳が獰猛に細められる。
(奴だ。)
――瞬間。
ルネは遠慮なく、最大火力の魔術攻撃をぶっ放した。
煙が薄れ視界が徐々に明瞭になってゆく中、カーレトリアの軍服を着たその青年は、さして動じた様子もなく悠然と立っていた。
(この程度で無効化される相手ではないのは知っていたが、いやはや。)
ルネとしても記憶の通りに放っただけの挨拶であり、どちらかと言えば自軍フロンディアスに対するパフォーマンスではあったのだが。
それでも、こうも軽くいなされると気が滅入る。
(幻覚魔術に気を取られて守りがおろそかになったら、普通に殺られるな。)
小細工しながら、どうにか「死亡予定地」まで持ちこたえなければならない。
相手の攻撃傾向を把握している分、多少は有利に進められるとはいえ、それが困難な企てであることに変わりはなかった。
しかし。
(やってみせるさ。もとより、選択肢は他にないんだ。)
黒いローブをひるがえし、ルネは次の攻撃に向けて術式を構築し始める。
――そして次の攻撃が繰り出される、ほんの一瞬の前に。
二人の魔術師の視界を隔てていた煙が、完全に晴れた。