3. とある将校たちの夜
はじめは、空耳だと思った。
血にまみれたこの戦地で、あんなに美しい歌声が聞こえてくるはずがなかったから。
死者の怨嗟のうめき声ならば、まだ容易に納得できたのに。
「やあ。大尉は、ネーヴァの歌声を聞くのは初めてかい?」
そう言って青年に声をかけたのは、同じ部隊の上官だった。
壮年の、軍人にしては珍しく穏やかな気質の将校だ。
「ランメルのネーヴァと、我々はそう呼んでいるよ。本名は分からない。」
「……ネーヴァとはまさか、天使か死神かという、あの?」
青年の問いかけに対して上官は、おや、と目を軽く瞠った。
「とうに廃れてしまった古語だと聞いていたけれど、よく知っていたね。」
「古典の教師が熱心だったもので。もっとも、戦場で耳にするとは思ってもみませんでしたが。」
「そうか。ホーエンツェルン家ともなると流石に違うな。私なぞは、ここに来てから初めて知った。」
壮年の上官は煙草の箱を取り出して、要るかい、と青年に尋ねた。
青年は首を横に振って辞退する。
「夜に時折、歌っているようだ。居場所が特定されないように魔術を使っているのだと思うが……、どこからともなく聞こえてくる鎮魂歌に、最初は大いに心が乱されたよ。とうとう頭がおかしくなってしまったのかと思った。」
二十年来の付き合いのやつが逝った夜だったからね。
煙草をくゆらす将校は、どこまでも穏やかな声でそう続けた。
「歌っているのが我が国の人間なのか、フロンディアスの兵士なのかは分からない。聖歌は両国共通だ。」
歌い手が魔術師ならば調べる手段が無いわけではないだろう。
そう青年は思ったが、口にはしなかった。
その程度のことを、この上官が気付いていないわけがなかったからだ。
「だから、我々はネーヴァと呼んでいる。」
日々激化する戦場において、友軍の援護は神の助けにも等しい。
かの歌い手が、神の使いであるところの天使か、それとも命を刈り取る死神であるか。
考えずに済むのなら、それにこしたことはないということなのだろう。
「君もこれから、ネーヴァの歌を聞く機会が増えるだろうね。」
その言葉の意図をつかめずに、青年は首を傾げた。
壮年の上官は、孫に対するかのような、慈愛すら感じさせる微笑みを青年に向ける。
眠れぬ夜が増えるだろうから。
その予言は見事に的中していたと、戦争が終わってからも青年はこのことを思い出すたびに、ため息を吐くのだった。