哲学者は繰り返し新しく始める
最近、哲学書を読むのが楽しい。しかし、哲学書を読むのが楽しくなるまで、かなりの時間がかかったので、他人にはあまり進められない遊びという事になるだろう。
「哲学は一体、何の役に立つんですか?」と問う人がいる。そういう人は、自分の立っている観念的立場というのがわからない。自分が狭い世界に生きていて、哲学というものをも、狭い世界の一部に当てはめようとしている、というのがわからない。
哲学はそのような、常識的な観念的立場を打ち崩す。そうして世界を新しい光で見つめ直させてくれる。
そのように見た世界の相貌は、簡単には他人には語れない。世界は学校のテストではない。テストの答えはカンニングできても、真理はカンニングできない。人々は、自分が一体何を問うているのかを知らない。
哲学者は世界を新たな光で照らし直す。しかし、その見方が唯一のものではない。
最近、わかってきた事だが、哲学というのは、言葉では語れないある物に近づいていこうとするものだ。ある物とは、「世界」であったり、「私」であったりするのだが、もちろん、それも言葉=概念でしかない。
哲学は、言葉では語れない物に言葉で近づこうとする。言葉は自己矛盾に晒されていく。最高度に美しい哲学的言辞は、最も矛盾に満ちた言葉だ。そこで、言葉は自己の意味を廃棄する。言葉を辿って、哲学者は山の頂上にたどり着く。そうして、最後の極点として、山頂から飛び降りる。言葉は意味を失う。
哲学は、ダンスや、波、あるいは泉の如きものであり、哲学が指し示す答えが哲学の本体なのではない。哲学が真理を追う身振りが、哲学そのものなのだ。
だから、身振り、振る舞い、リズム、つまりは音楽的なものに対する不感症的な人物は哲学を理解できない。哲学そのものが一つの音楽であり、リズムであり、メロディである。真実はその先にあって、永遠にたどり着く事はない。
メルロ・ポンティは「哲学者は繰り返し新しく始める」と言っている。哲学者が常に「今ここ」から新しく始められるのは、哲学がその源泉としているものが、言葉では指し示せないものだからだ。言葉では決してたどり着かないものだからだ。その源泉を誰も占有する事はできない。その源泉を誰も枯れさせる事はできない。だから、哲学者は繰り返し、新しく始める。いや、始められる。
だから、どれほどアカデミックな人々が、あるいは哲学オタクが、自分の頭で考えようとする人間を脅かそうと気にする事はない。彼らは哲学を知らないから、哲学を一枚の表のようなものに変えて納得しようとする。「ノエマーノエシス」とか「言語ゲーム」とか「絶対精神」とか。そういう概念の中に哲学の答えを求めようとする。
「答えはもう出ているのだから、お前には場所はない。もう真理を採掘する為のどんな場所も残っていない」
哲学がわからず、哲学が生み出す廃棄物だけを集める人々はこんな風に言う。そうなのかもしれない。哲学は、もう用済み、科学に場所を取られて、居場所がないのかもしれない。あるいは過去に天才達が散々に考えて、全てのマス目を埋めてしまったので、もう我々にはどんな場所もないのかもしれない。
しかし、そんな風に物事は進まない。歴史を見ても、そうだろう。全てがどん詰まりに思えて、もう一歩も進めないと思った瞬間、新しい光が急に前方から現れてくる。
ベルクソンは自分が哲学的発見をした時を、「言葉による解決を諦めた日」と呼んでいた。言葉は真理を占有できない。真理は、様々な形で世界に現象しており、哲学者の言葉から常に溢れ落ちるものである。哲学は世界に網を投げかけ、本体を捉えようとするが、それはいつも網からスルリと抜け出す。
哲学者はいつも、繰り返し新しく始める。この事実は、「哲学は進歩したのか?」という問いに対する答えにもなるだろう。哲学は、空間的な、線形の進歩という形を取らない。デカルトの思考態勢を考えてみればそれがわかるはずだ。デカルトは「全て」を疑ったのだ。既に確定的な事実を認証して、自分の思考を積み上げたわけではない。
デカルトのように一から自分で考える事は、デカルトの思考を否定する事になるかもしれない。しかし、哲学者の伝統…即ち「自分の頭で一から考える」という伝統を引き継ぐものとなる。
哲学というのはそういうものだ。哲学者は、繰り返し新しく始める。また、始めなければならない。哲学を教義と化し、哲学を狭い大学組織や教科書の中に閉じ込めようとする賢い人々がいる一方で、哲学を低俗化し、大衆の欲求に合致させようとする人々もいる。今は、社会の低劣化に伴い、両者は一つになってきているようだ。彼らは哲学を商品として売り出す営業マンだ。彼らは哲学から最も遠い所にいる。
哲学は何よりも「自分の頭で一から考える」という所にある。それだけ、と言えば、それだけだ。そこに先人の教えの厚みが加わって、何らかの形になっていく。それをどれだけやっても、何も得られなければ、何も失う事もない。ただそれは、固有のリズム、メロディを奏でて走っていく。そうして、それをうっとりと聴く事ができる耳を持つ者も、この世界には、どんな偶然かはわからないが、たまたま少数しかいなかったという事にすぎないのだ。