御志のネジ式簪
挿絵の画像を作成する際には、「Ainova AI」を使用させて頂きました。
この白庭登美江、華族であらせる生駒様の御屋敷に、執事を務める父の紹介で御奉公させて頂き三ヶ月と相成りました。
御仕着せのメイド服も、段々と板に付き始めたという具合でしょうか。
三ヶ月と申しましたが、これはあくまで書類上での御話。
大学での勉学との掛け持ちである以上、学期中の御奉公には時間的な限界が生じてしまうのが、何とももどかしい限りで御座いますね。
そんな新参者の私では御座いますが、本日は勿体無くも、奥方様の御買い物の御伴を仰せつかりました。
−大恩有る奥方様の御為にも、御役目を立派に果たしたい。
そう意気込みながら御一緒させて頂いた自家用車の後部座席の座り具合は、実に心地良い緊張感に満ちた物で御座いましたよ。
「登美江さんは確か、堺の御生まれで御座いましたね?」
「仰る通りで御座います、奥方様。この白庭登美江、生まれも育ちも生粋の堺っ子で御座います。」
自家用車から運転手さんのエスコートで降車された奥方様は、私の返答に満足そうに微笑まれたのです。
「そう…其れは良う御座いました。」
そうしてパチリと音を立てて折り畳まれた京扇子を、奥方様はクルリと小粋な仕草で持ち替えられたのでした。
「然らば登美江さん、此方の初瀬屋へいらした事も御座いますわね。」
「勿論で御座います、奥方様。幼少の頃より父母に連れられた、思い出深い百貨店で御座います。」
京扇子の要で優雅に指し示された先を一瞥した私は、軽い一礼で返答させて頂きました。
私と奥方様の眼前に堂々と聳える地上七階建てのビルディングこそ、此度の目的地である初瀬屋百貨店なので御座います。
世界初のターミナルデパートとして上本町で産声を上げた初瀬屋は、開業十年を間近に控えた大正二十四年に堺市堺区戎島町へ移転して以来、地元の老舗百貨店として堺の人々に親しまれておりますね。
そうした伝統ある老舗百貨店の例に漏れず、この初瀬屋の外観もまた、趣深い歴史的な美しさを備えているのでした。
玄関扉や街灯を始めとする金属製の部材にはアール・デコ調の幾何学模様が装飾され、ゴシック様式が用いられた白亜の外観は、さながら西欧の城郭を思わせる荘厳で重厚な趣に満ちているのです。
古き良き近代建築様式が用いられた歴史ある建造物には、今日の画一的な商業ビルには無い気品が感じられて、ただ眺めているだけでも充実した心持ちになってしまいます。
そうしたレトロモダンな建造物は、それに相応しい気品ある御方の背景となる事で、より一層に輝きを増すので御座いますね。
「まあ、其れは心強い事。登美江さんに御伴を御願い申し上げて、本当に良う御座いましたわ。」
音もなく広げられた京扇子で口元を覆いになり、白亜の壁面を背に忍び笑いをなさる奥方様。
其の嫋やかな所作たるや、青い紫陽花柄の御着物の仕立ての良さや細面の白い美貌の輝かしさと相まって、得も言われぬ優美な気品に満ちていらっしゃるのです。
かくも御美しく気品高い奥方様の御伴を仰せ付かる事が出来た私は、奉公人冥利に尽きる果報者で御座いますね。
奥方様に先程申し上げました通り、この初瀬屋は私と致しましても思い出深い百貨店で御座います。
物心ついて間もない幼少時には、屋上遊園地の観覧車に乗るのが来店時の最大の楽しみで御座いましたよ。
こうして半歩下がって奥方様の御伴をさせて頂きながら店内を眺めておりますと、子供時代の懐かしくも楽しい思い出が蘇って来るようで御座いますね。
然しながら只今の私は、奥方であらせる真弓様の付き人で御座います。
その本分を決して忘れぬよう、身も心も引き締めねばなりませんね。
とは申しましたのですが…
「あらまぁ…御覧下さいませ、登美江さん。彼方の博多織の八寸名古屋帯を…」
小紋や帯を始めとする着物売り場の商品を食い入るように御覧になっている奥方様の、何と溌剌とした御姿でしょうか。
十代の少女を思わせる若々しくも楽しげな御様子を眺めておりますと、私の心もまた、浮き浮きと弾んで仕舞うのでした。
「生成りに桜色が用いられていて、見るからに涼しげで御座いますね。奥方様が御召しになっている絽の紫陽花柄とも、相性が良さそうで御座いますよ。」
「まあ…登美江さんったら、御上手です事。」
そうして口元を袖でソッと覆い隠して御笑いになる御姿の、何と淑やかで御美しい事でしょう。
こうした何気無い所作の美しさは、常日頃より和服を御召しの奥方様だからこそ為し得る業で御座いますね。
奥方様が和服を普段使いされるようになったのは、当代の御館様であらせる生駒竜太郎様との御見合いデートが切っ掛けであるそうです。
執事を務める父の話によりますと、御見合いデートに臨まれた竜太郎様は、奥方様の和服姿が大層御気に召されたそうで御座います。
そして其の事に御気を良くされた奥方様が、「和服を美しく着こなす大和撫子であろう」と御決意なされて今日に至るのだとか。
こうして日常的に御召しになっている事もあり、和服や和小物に対する奥方様の御興味や御関心は並々ならぬ物で御座います。
此度の御来店でも、発表された新柄呉服の実物確認や、懐紙入れや帯揚げを始めとする小物類の物色という具合に、殆どの時間を着物売り場で費やされたのでした。
然しながら、御買い物に費やされた時間が如何に長くても、実際に購入された商品の品数や金額がそれに比例するとは限りません。
御着物も帯も、今回は御見送り。
漸く御買い上げと相成りましたのが、小物関連のコーナーだったのです。
「御免なさいね、登美江さん。私の趣味に御付き合い頂いて。オマケに此処まで長々と品定めをしておきながら、結局買い求めたのは小さな根付が唯一つ…さぞや拍子抜けされている事でしょうね…」
気品ある細面の美貌に苦笑を浮かべながら、奥方様は掌上の根付を示されたのです。
奥方様の御言葉とは裏腹に、蛙を象った木製の根付には精巧な彫刻が施されており、熟練した職人の確かな技術が伺えるのでした。
「いえいえ、奥方様…此方の根付も、精緻を極めた素晴らしい拵えでは御座いませんか。」
言葉の上では「小さな根付」と仰ったものの、それが奥方様の本意で無い事は明白で御座いました。
実際にお買い求められた蛙の型彫根付になさるか、或いは紫陽花の彫られた饅頭根付になさるか。
二つの根付を御比較される奥方様の御姿には、御自身の信奉する芸術への真摯な姿勢が感じられたのです。
「其れに商品を丹念に吟味される御様子を見るにつけ、和服や和小物に対する奥方様の深い愛情と情熱を感じずには居られません。きっと型彫根付の蛙も、奥方様の物となれた事を誇りに思っている事でしょう。」
そして根付の蛙に託した敬意と思慕の念こそ、嘘偽りの無い私自身の本心で御座います。
「ホホホ…そう仰って頂けると、私も悪い気は致しませんわね。ところで、登美江さん?貴女の御誕生日は確か…二月八日だったかしら?」
「はい!仰る通りで御座います、奥方様!」
私の返答を御聞きになった奥方様は、先程御会計を済ませたばかりの小物コーナーへ引き返され、ある一角へ立ち寄られたのです。
其処は県内の工房の出展ブースで、色やデザインも様々な蜻蛉玉が展示販売されていたのでした。
「登美江さんを初瀬屋へ御連れした日に此方を御見掛けしたのも、何かの縁で御座いますわね…」
やがて一粒の蜻蛉玉と簪パーツを御買い求めになった奥方様は、慣れた手付きで簪パーツの上部を取り外され、其処に蜻蛉玉を組み込まれたのです。
「季節や気分に応じて蜻蛉玉を取り替えられる点が、ネジ式簪の良い所で御座いましてよ。」
誇らしげに差し出された奥方様の掌には、先の蜻蛉玉が組み込まれたネジ式の簪が鎮座していたのでした。
濃いワインレッドの表面に花の模様があしらわれた、何とも上品で美しい蜻蛉玉で御座いましたよ。
「奥方様、この模様は白牡丹でしょうか?ワインレッドの表面に良く映えておりますね…」
「あらあら、登美江さんったら御冗談を…これは白牡丹ではなくて芍薬、御色もバーガンディで御座いますわ。」
そう仰る奥方様の微笑は、何とも得意気な物で御座いましたね。
「いずれも登美江さんの御誕生日である、二月八日の誕生花と誕生色。此方の蜻蛉玉は、登美江さんが御持ちになるべきでしてよ。」
「奥方様…」
まさかプレゼントを頂けるとは夢にも思わず、この時の私は簪と奥方様の御顔とを交互に見比べる事位しか出来なかったのです。
「登美江さんの私への御気持ちは、私自身も重々承知しておりますわ。私にとりましても登美江さんは、家族ぐるみの大切な御方。大切な御方にプレゼントを御贈りするのは、此方が頂く時よりも喜ばしい物ですのね。」
「奥方様…!」
些か照れ臭そうな微笑も、微かに紅潮した頬を和服の袖で隠そうとされる所作も、何と上品で御美しいのでしょうか。
同性である私から見ても、御美しくて愛おしい真弓様。
そんな真弓様を奥方として御迎えする事が出来た御館様が、実に羨ましい限りで御座いますよ。
然しながら、奥方様からの御志は簪だけでは無かったようで御座います。
「今月末には大魚夜市が開催されますが、其の時にも登美江さんに御伴を御願いしようかしら。」
「大浜公園の夜市で御座いますか、奥方様?」
毎年七月三十一日に開催される大魚夜市は、毎年十月中旬開催の堺まつりと同様、堺を象徴する御祭で御座います。
魚市や競り以外にも、ステージ企画や花火大会も開催されるので、夏の思い出作りに最適で御座いますね。
「私の娘時代の御古を御貸し致しますから、浴衣の事は心配御無用でしてよ。それに御髪も私が結って差し上げますから、その簪を御付けになって下さるかしら?」
「勿論で御座います、奥方様!この登美江、是非とも喜んで!」
大魚夜市への御誘いなど、この登美江には望外の僥倖で御座いましたよ。
奥方様と御一緒の夜市が、今から待ち遠しい限りで御座いますね。