第一章「出会い」……笠屋猛彦 2
2
僕と佐久那は山を降りて、住宅地に入った。
ここに入ってから自然とほどけていた佐久那の手が、不意に僕のシャツの裾を掴んで立ち止まった。
もう僕の家は文字通り目と鼻の先だ。それなのに、佐久那はお隣の前で止まってしまった。僕を佐久那が掴んだ衝撃は電柱とかの突起物に、シャツを引っ掛けたみたいな「ぐいっ」という感じだった。佐久那の特殊攻撃かと思ったくらいだ。
「どうしたんだよ、佐久那。ご飯はすぐそこだぞ?」
「い、いや……それはわかっているんだ。けど、その……あれが……」
佐久那は引きつった顔で、暗がりを指差す。
と言っても、そこはお隣さんの庭で別に何もない。しいて言えば、僕とはわりと仲のいいやつが住んでいる。
「い、いるんだ……その……」
「はぁ?」
僕は首をかしげる。と、そこに僕の匂いに気がついたのか、あいつが顔を覗けた。
わう、わうう、わう。
そいつはブロック塀と鉄格子の柵の間から鼻先だけを器用に出している。
「おお、ジョンは頭がいいな。ちゃんと僕だってわかるもんな……」
と言う僕の後ろで、佐久那は顔を引きつらせて固まっていた。というか、心持ち僕の背中を押してないか? 盾にしたい気満々じゃないか。
「あ、ううう……」
「佐久那、もしかして犬が怖いのか?」
ぶんぶんと佐久那は否定に頭を振る。それにつれて、彼女の特徴ある髪が揺れて乱れた。
わう、わう、わう!
「わわっ……」
見るからに、ジョンは警戒しているのではない。それは嬉しがっているのだ。
「くく、佐久那のその髪が、尻尾に見えるから、仲間だと思ってんじゃないかな?」
「そ、そんな事はないぞ。断じて違うと誓う! このお気に入りの髪が……そんな事はない。こ、こいつらはどこにいても私の後ろを勝手について来るんだ……だから」
長いサイド髪を両手で掴んで頭をぶんぶん振る仕草がつくる口ぶりは、何度もそういう状況になった事を語っている。
「…………人にはあってないくせに、犬にはいっぱい遭遇してるんだな」
僕は思う。街の道端なんかで暮らしている犬たちは、きっと警戒心が強い。僕の偏見かもしれないが、そういうやつらは人間にろくな目に合わされていないだろう。だから人を恐れ避ける様になる。獲物と思って攻撃してくるやつなんて滅多にいないだろう。山野を駆け巡る野犬の群れや孤高な狼なら、わからなくもないけど。
それなのに、見ただけで佐久那について来るっていうことは、佐久那に心を許しているからだ。どこか同じような雰囲気を嗅ぎ取って、近付いて来るんだ。こいつは安心だ。こいつはボクらの仲間だから、危険はないと判断しているんだ。
そしてそれは僕も同じだ。
初めて会ったくせに、数十分後にはこうして自宅に招いている。自分がわんこと同レベルだって自覚したようなものだから、悲しいけど。でも真実でもあるのだから、仕方ない。
「嫌うなよ……ジョンは佐久那のことが好きだから、そうやって鳴いてるんだよ」
「ほ、本当か?」
はっはっはっは……わうっ。
「みろ、ジョンだってそう言ってるだろ?」
「そ、そうなのか?」
わうっ!
返事の声を上げてから、ジョンはふさふさの尻尾をグルグルしながら小屋に帰っていった。
「ふぅ……そう言うなら、猛彦のことを信じてみるか……」
佐久那はそう言いつつも、塀から出来るだけ離れ鋭角的に移動して、そそくさと僕の家に向かった。
そういえば、夕希ちゃんも僕と同じくジョンとは仲良しだった。佐久那みたいにどこかおどおどしたようでなく、正面から抱きついたり、頭を撫でてやっていた。
「……ふふ……」
だから今の佐久那が僕には可笑しかった。
「む、猛彦またそれか……その笑い方はやめた方がいいぞ……何かバカにされているようだ」
むっとした佐久那はその場から走り出し、僕より先に、ここか! と自宅の玄関ドアに手をかけた。
だが、開けたところで佐久那の手が止まった。
「……なんだこれは?」
佐久那は納得いかないように、顎に指先を当てている。
「……どうしたの? 入りなよ」
「だが……どうしてこんなに真っ暗なんだ? 猛彦が出かけているのなら、誰か待っているんじゃないのか?」
「う~ん、そういうもんでもないだろ」
こんな時間まで、誰かが帰りを待って起きているはずがない。父は仕事か遊びか、帰宅しているのかすらわからないが、母は少なくとも僕を待っているような人間ではない。僕が受験の時でさえ放任していたくらいだ。今の時点では僕の価値など、その時よりも低下しているのだから、当然だろう。
「まぁいいじゃん……それより、食べるものを探してくるから、僕の部屋に行っててよ。二階だからさ。生きた部屋は僕のしかないから、すぐわかるよ」
本当の意味で生きているかどうかは、疑問だけどね。
「……んん、ああ。わかった」
佐久那は何かをちらっと振り返ってから、階段の方へ歩いていった。
「さて、夕食の残りがあるかな……」
僕は佐久那が、何に振り返ったのかも気に留めないで、好き嫌いとかはあるのかなと、のん気に考えていた。
少しはいいものがあるだろうと思っていたけれど、夕食の残りでいえば期待外れだった。
その代わりに、生めんタイプのラーメンが冷蔵庫にあったので、それに適当な具をのせ、僕は部屋に急いだ。
特に見られてまずいものはないはず……だけど、佐久那をひとりにしておくのが不安だった。自然と階段を昇る足が速くなる。
何せ、勝手知らずの宇宙人なんだ。常人では気付かないあそこだって、気に留めてしまうかもしれない。
「おまたせ……」
「ああ……」
“けんもほろろ”というのは、きっとこういうことなのだろう。僕が持ってきた、あったか出来立てラーメンにも反応せず、佐久那はマンガを読んでいた。
「あの、ラーメンだから早く食べないと駄目なんだぞ」
「そ、そうなのか? いや、これは興味深くてな……私の星にも同じようなものがあるが、この地域の文化を上手く融合させた素晴らしいものだ。それにキャラクターが極上だ。この絵柄も、高尚な私の美的感覚を激しく揺さぶるぞ、ふむむ」
佐久那はやっとマンガの単行本を置いて、僕のほうを向いた。あんな風にわざと小難しく言っているけど、本当はただ面白かったに決まってる。佐久那の場合、尊大な感じはするけれど、使っている言葉自体は難解なものじゃないから、わかりやすいんだよな。
それにしても、素直じゃない。僕はそういうのを強がりとか言うんだぞと教えてやりたかった。
「ほう、これがラーメンか……知った時から美味しそうだと感じていたが、こうして目の前にすると、また格別だな」
佐久那はだらしなく、よだれでもたらしそうにして、箸を掴むといきなり麺をかき込んだ。僕はちょっとむっとする。最初は一口のスープ賞味が作り手へのマナーだろう? 今度、みっちり教授してあげよう。
「うん、うまいぞ猛彦!」
佐久那の感想第一声は、すごく豪快だった。
にしても、こちらもすごく豪快な握り箸だ。
この星に来て七年だとか言っていたけど、お箸の文化圏で暮らしていなかったのか、必要としなかったのか、それともただ知らないだけなのか……僕はまた夕希ちゃんの事を思い出してしまう。
「佐久那、箸は使った事あるの?」
「ん? これか……初めてに等しいな……どこか無作法なのか?」
「いや、なんというか……」
全てが間違っているようにも思うけど、道具の使い方としては、何も間違っていないとも思う。現に佐久那はちゃんと食べている。それも非常に美味そうに、ガツガツ。
「これはさ、こうして使うといいんだよ……」
僕は、はやる佐久那の指から箸を取り上げて、持ち方を示した。
「なるほど。今度からはそうして使おう」
頷いた佐久那は僕から箸を奪い返すと、また豪快に握り箸をスープに浮かぶ半熟ゆで卵に突き刺した。
「…………はぁ」
僕はまあいいかと諦めた。人は変わる時には、劇的な変化や進化を見せたりするし、逆に変わらないものは一生、どんな事件があったって、変わらない。本人が変わろうと意識しないと、どんなものだって動きはしない。
それを学んだのは両親の僕への対応や、夕希ちゃんが成長していく様を見てきたからだ。
そして今、遥か宇宙から来た佐久那が見せてくれる、僕の感覚に馴染んでいくという事は、夕希ちゃんのそれと同じだ。
だから思い出してしまう。僕にとってそれは哀しいものであるはずなんだ。もう二度と見られないものだから。
それでも、こんなに心がきゅっとなる理由はまだよくわからない。
「…………」
「なんだ? 私の顔に何かつているのか?」
「……大きなナルトが……」
「ナルト? それは美味しいのか」
美味しいけどと、言うつもりでどんぶりを覗いた。でも、説明する前に佐久那はすでに食べてしまっていた。
それに顔についてるなんてのは、嘘なんだ。自分でもわかっているくせに、佐久那は聞き返してきた。そいつが優しさなんだか思いやりなんだか、処世術なんだかノリツッコミなんだか、ただのイジワルなんだかはわからない。
「……ぐるぐるの模様がついた、かまぼこみたいなやつだよ。かまぼこってわかる? でも、佐久那はもう食べちゃってるし……」
「ああ、あの魚類の練り物か……私の星にも似たものがあったぞ……何にしても、この星ほどの味ではなかったが……そうそう手の出ない高級品だったのにな」
悪戯じみた事をしてみたり、急に郷愁を口にしてみたり、佐久那は忙しい。それに故郷のものより美味しいなんて思うのは、ただ単に、空腹というスパイスが結構効いてるだけなんじゃないか? もしくは観光地の料理だとか、海水浴のカップラーメンみたいな効果だろう。
僕がこんな風に考え事をしている間にも、佐久那はごくごくと喉を鳴らしてスープまでも飲み干して、どんぶりを置いてしまった。
その姿を見て、僕は胸がきゅっとなる原因に気付いた。もちろん夕希ちゃんやお姉ちゃんに似ているというのもある。
でも、それだけじゃない。
僕は佐久那を見ていると、心が休まるんだ。
なんだかんだで、豪快で高慢な態度や話し方、そのくせ犬が苦手。
なのになんだろう、ほっとして普通に息を吐けるんだ。
心臓が変にうねるような鼓動を打つ事もなく。
地震でもないのに、体が沈み込むような感覚に陥る事もなく。
スクラップ工場のプレス機に体を潰される夢にうなされる事もなく。
本当の呼吸をしている気分になれるんだ。
吸って吐いて、吸って吐いて、深呼吸。
全ての呼吸が深呼吸の効果を生み出して、脳に送られる酸素全てが、深い森のそれのような気さえする。
それはもう、随分前に忘れていた事だ。
だから僕の体が思い出せないで、ドキドキしてしまうんだ。不随意で動く心臓すら忘れていた事だから。
僕の事を嫌っていない自然な態度に……胸が締め付けられるんだ。
「佐久那、おいしかった?」
「ああ……さっき言ったじゃないか。猛彦は一分前の事が記憶できていないのか?」
そうかもしれないなと思った。そんな記憶はきっと嬉しさや安心からしたら、たとえ佐久那が言ったことだとしても、たいした事じゃないから。
「また、これくらいだったら、財政難の我が家でもご馳走してあげられるよ……」
「ほ、本当か? それは助かるぞ」
佐久那の目が輝く。真っ直ぐで何のためらいもなく、誰もが背けてきた僕の眼を覗き込む。夕希ちゃんが僕を見て微笑んでくれたように……。
鏡をまじまじと見ることも稀な僕が、佐久那の水鏡の目に映った僕自身を見た。それはもしかしたら、本当の僕なのかもしれない。くすんで曇った自分の目じゃなく、他人を通してのみ知る事が出来る、本当の自分。
気がついたら、僕はじっと佐久那の顔を見つめていた。
「佐久那、行くトコがないなら、ここにいてもいいよ……雨露を凌ぐのも大変なんだろ?」
「いいのか? 猛彦の両親は了解するのか? その、この星の一般的な事項ではなかなか計れない事だろう、それは。血縁者に見立てる程度の刷り込み技術ならなくはないが……了解もなくそれをしてしまうのは気がひけてな……」
「別にいいと思うよ……佐久那の好きにすればいいよ……たぶん……あの人たちにとって、そんな事はどうでもいいことだろうから。誰が誰だろうと、もう関係ないんだと思うし。佐久那なら、あの人たちもそんなに怒りはしないさ」
口は勝手に動く。脳は記憶を使って憎しみや後悔を作る。それは空気を伝って言葉になる。それらは自律運動のように、不随筋のように、ご主人のあずかり知らぬ行動をちぐはぐにやってのける。けれど、目だけは佐久那の瞳から離せなかった。
ひょっとしたら、僕はその鏡の前で泣いているんじゃないかとさえ思えてしまう。
本当の自分と出会って感動しているのかもしれない。初めて本当の自分を見たから……。
「なぁ猛彦、私の顔を凝視する事について、一つ聞きたいのだが……」
「えっ?」
僕は佐久那の顔が少し陰ったように見えた。それこそ、凝視に凝視を重ねて、さらに意識を凝縮していないと、気付かない程度のかげりだ。
「う、うん……」
「さっき、ここへ上がってくる前に、下の部屋で見たのだが、あれはこの星の宗教的祭壇だな?」
「ああ、そうか……家のは仏壇じゃないけど……」
「いや、種類とか宗派、それは大した問題じゃない……私が聞きたいのは、その上に飾られていた写真の事だ……」
「……うん」
佐久那は自分の顔から目を離さない僕を見据えるように、ごくりと喉を鳴らした。
「驚いたぞ……どうしてこの星に私の写真などがあるのかと。まぁ、よく見れば違うのだが」
「そうか、似てるだろ? だから僕も初めて佐久那に会った時、驚いたんだ」
「あれは、誰なんだ?」
佐久那の目は真剣だった。もちろんそこには悲しみなどはない。どうしてだと言う、純粋な疑問からの興奮があるだけだ。
それは仕方がない。だって、佐久那は何も知らないんだから。僕はヒトの知的好奇心を迫害するつもりもなければ、否定もしない。そりゃ普通に考えれば自分とそっくりな写真が飾ってあったら、気になるだろう。興味を示さない方がどうかしている。そういう意味で佐久那の反応は至極まっとうなのだ。
「うん……僕のお姉ちゃんと、姪の夕希ちゃんだよ」
「そうか、猛彦の肉親か……ふふ、面白いな。銀河の果てにも、自分に似た者がいるとは……今度あわせてくれるか?」
本当に無邪気な願いだ。純粋すぎるぐらいに純粋で、だからひどく罪じみていて、締め付けられる願いだ。まるで瞳を潤ませて抱っこをねだる夕希ちゃんと同じ。
「いや、会えないんだ……もう二度と……」
「何?」
と、言った所で、佐久那の表情が一変した。無邪気だった笑顔が歪んでいき、後悔を濃くしてしまう。眉間にシワを寄せる事は、佐久那には似合わないなと素直に思った。
「……私はバカだな……なんてバカなんだ……宗教的祭壇に掲げられるものといえば、遺影に決まっていると、なぜ気付けないんだ……私は…………私はバカだ、猛彦……」
自分の愚かさを何に向けたらいいのかわからないと、僕から目を背けて佐久那は俯く。
「佐久那が気に病むことじゃないよ。これは誰にだって曲げられないものだろ?」
本当にそう思う。どちらかと言えば、佐久那に会えた僕はまだ救われたほうだ。
「それとも、この星まで旅できちゃう佐久那の星の科学力は、それも変えちゃうのか?」
佐久那の沈んだ顔を見たくなかった僕は、口からでまかせのように言ってしまう。
「……確かにクローン技術を使えば、そっくりの人間は生まれる……だが、それはそっくりなだけで、“その人”じゃない。クローンとして生まれても、その人物は一つの新たなる個なんだ。結局、死は死として受け入れるしかないんだ……」
僕は成る程なと思った。まだ身近にクローンなんてものが、ごろごろしていない僕と違って、佐久那のそれには経験から来るような説得力がある。
「……そうだな……でも、こうして家に閉じこもって学校にも行ってない僕は、まだその死ってやつを受け入れられないんだろうな……」
それが学校にも行く気にならない理由の大半だと、僕はとうに知っている。
でも口に出したのは初めてだった。
「ならば、行く事はない。人にとってそれは受け入れ難いことの一つだ。ゆっくり考えればいい……とは言えこれは私の身勝手な見解だがな。猛彦にとっていい解決策かどうかはわからん」
佐久那は厳しかった顔を緩め、大きな水色の瞳で僕を見つめてくれた。
「……うん。本当に僕の理由ってのがそれだけならね……」
「まだ違うものがあるのか……というより、本当はその残りのほうが大きいのか?」
見透かしたように佐久那は言う。でも、それはそんなに難しい事じゃないだろう。僕の顔は、この話になると明らかに強張るからだ。
父に名を呼ばれるときのように、ちりちりと脳の神経が焼けるように疼いて、意識がぼぅっと、隙間風にさらされた蝋燭のように揺らぐ。
そんな状態で話すものだから、これまでこの話を聴いてくれた人は、ほとんどいない。
中学の時の担任は、話の頭で「あなたの話は暗い」と切り捨てた。でもそれを恨んだりはしていない。ああ、そんなもんだよなと一つ落胆して、すぐに納得した。
言うべきとか、言っても許される友達なんていない。もし、そういうものを相談できる存在こそが友達だと言うのなら、僕に友達はひとりもいない。
そういう解釈をして、納得してみても心に溜まる苦しさが和らぐわけじゃなかった。不幸や苦しみがいつかぐるっと転化して、幸せにならないように、苦しみは苦しみとして、不幸は不幸として、心に積もっていくだけだ。
「猛彦…………」
黙りこくってしまった僕の肩を叩いて佐久那が呼ぶ。
視線が合った佐久那の瞳の中に、また僕が映った。
ああガタガタぶるぶる震えてて、何てみっともない顔なんだ。不細工に拍車がかかってるよ。僕がいつも人に対する時、こんな顔をしていたならば、誰もが避けることは責められないなとも思う。
でも佐久那は違うみたいだった。そんな僕に臆する事もない。
蛍光灯の光にも、きらきらと星を瞬かせている、その瞳に映る僕の何と矮小な事か。きっとこれが、銀河を眺めてきた瞳なんだ。
「……僕はさ、お姉ちゃんと十四歳も歳がはなれてるんだ。別にそれは、そんなに珍しい事じゃないと思う。でも、それは偶然の事で、僕は特に望まれて生まれたんじゃない」
悪魔に誘われた様に吐き出されていた言葉は、だんだんと力を失って、ついには唇を開くのが億劫にさえなってくる。それでも次々と言葉が出てしまうのは、佐久那が僕を見ていてくれるから。初めての存在はとても新鮮だし、僕は誰かに優しくされたり、誰かが向かい合ってくれることに慣れていない。だから、すぐに信じてしまう。この僕に向き合ってくれているという事実だけで、疑うことを忘れる。その人が何か思惑を巡らせているなんて、とても考えられない。
慣れていない、経験したことがない事には警戒心を働かせる余地なんてないんだ。
「よく勘違いだとか言われるけれど、そうじゃないんだ。僕は、はっきりと父にも母にもそう言われたことがある。そして、おばあちゃんにも……いらない子だったって。もう産むのなんてやめろって言われた存在なんだ」
動かなくなる前に、口は新たな言葉を吐く。そうできるのは、佐久那が僕を見て、話から目を背けようとしないからだ。誰もがしたようにではなく。銀河の瞳はより一層に僕を包む。
「父も母も僕に望んでいるのは、見栄と体裁っていう外見だけ。今の状況だって、恥かしいのは、あんたじゃないなんて言われたよ。あの人たちが欲しいのは、僕がこれから作るお金という現実だけ……結局僕は、あの人たちが老後を生きるための道具なんだ……僕が生まれたのは、自分たちが殺人者として生きていく勇気がなかった、クソみたいな代価なんだ……」
きっと僕は支離滅裂で、何のつながりもないことをつらつらと、ぼそぼそと喋っていると思う。自分の言いたい事をただ連ねて、聞いている人の事を考えず憎しみをぶつける。
僕の今の言葉は、何の装飾もない人きり包丁と同じだ。
「あの人たちは、お金以外で人間の価値を判断できないんだ。その証拠に僕が何をしたって、褒めてくれた事なんてない。記憶にないんだ、あの人たちの楽しそうな顔が……僕を見る目はいつも産むんじゃなかったという後悔ばかりで……」
勝手な力が指をクの字からコの字に変え、手を強く握らせると、ぶるぶると震えさせる。
止まらない震えはぶるぶると、僕の脳の奥の方、前頭葉だか側頭葉だか、よくわからない部分まで響く。ゆるやかだった揺れがだんだんと振動を収束させ、小刻みに素早く断続的なものに変わっていく。
このままじゃ、僕の脳はその振動イコール恐怖から逃れるため、自己防衛という名の「停止」を行ってしまう。
そう考えていた。
だから、その手の上を跳ねたものが、汗なのか涙なのかは瞬時にわからなかった。
でも、わかった。
やけに熱いそれは僕のものじゃなかったからだ。自分のものなら、きっと気付いていなかった。
「猛彦…………」
涙の匂いがする顔が近付き、白い手が僕の頬に触れた。表面は冷たいのに、奥底にあるあたたかさが直接感じられる。そしてそのまま、胸に迎えられてしまった。ふかふかした優しい匂いと確かな温もりが伝わってくる。気持ちよすぎて心地よくて収まりまでよくて、怖くなったくらいだ。
「佐久那……?」
僕はちょっと戸惑ってしまった。佐久那がいきなり何をしたのかよくわからなかったからだ。もちろん行為としては理解しているけれど、その意味というか真意がわからなかった。
それはまるで記憶の中に経験がなかったことだったから、咄嗟に感情の反芻が出来なかった。だからどうしていいかわからなくって、ただ寄りかかってしまった。
「……辛かったんだな。誰にも認められない闇、望まれない存在と思う孤独な心……命を汚され続けた時間……そのどれもが、尊く愛されるためのものだったのに……」
ぐぐっと頭を両手でつかまれたまま操作されると、僕の顔の正面に佐久那の顔が現れた。
僕にくれた涙に濡れる佐久那に、こんな事を聞いてもいいのかと、一瞬の戸惑いがあった。でも悪魔の誘いに乗るような根性なしの口先は、あっさりと口を割った。
「こんな風にして、こんな僕にしてしまった両親を、佐久那も憎んだりする?」
でも佐久那は、こんなつまらない質問にも顔をしかめたりはしない。むしろ微笑んだなんて形容があてはまるような気もした。
「そうだな。こういう話は私の星にもあるはずだ。でも、親を恨むのはその子にだけ許されたものじゃないのか? 子に親を選ぶ事は出来ないが、親には一応の選択が出来るのだからな……いや、これは私の個人的な考えだ。クローン技術による、先天性遺伝子病の治療も一考に含んでいない……一方だけを過信して、大局を逸したとても極端な……な。それでも猛彦のための答えになるか?」
そうかもしれないと思った。どんなに悪いとわかっていても、他人というか実害を被っていない者に、お前の両親が憎いと言われると、どこか違うと思ってしまう。親を憎む自分の心とは別の部分が、また別のざわめきをつれてくる。それはとてもやっかいで、やってくるだけで気が狂いそうになるような、一言で片付けるなら「葛藤」としか言いようがない。
それはどんなに、心に拭えない憎しみがあってもだ。必ず葛藤を産む……子どもがそう思う事は、まるで遺伝子に組み込まれている呪いのようだって思う。いいや、最後のリミッターとか、そんな風に呼ぶのがいいのかもしれない。
だから……いや、それこそだからなのか……ニュースで流れる親子間の悲惨な事件でさえ、僕は冷静に見て、あいつらはすごいのかもしれないなと思っていた。そして憧れさえした。
だってあいつらは、この忌まわしき呪いから解放され、自らを解放し進化した奴らだとも思ったから。僕のなれない僕になったやつらだと思っていたから。
「そうだな……佐久那の言うとおりだよ……でも、この気持ちはどうすればなくなるんだろう……親なんて殺してしまえばよかった……僕を愛さなかった人たち全てを殺してしまえばよかった……そうすれば僕は変われたかもしれない……僕は呪いを断ち切れたかもしれない……僕は……僕も……誰かに必要とされていたら……」
「猛彦!」
目を逸らそうとした僕に、佐久那は声を上げる。僕を掴んだままの佐久那の手に、一瞬通ったすごい力に、僕は頭蓋がきしりと軋んだ気さえした。
「もう違う……もう違うだろう? 猛彦は私を手伝うといってくれた。そして私はそれを頼りにしている……私に必要とされるだけじゃ、足りないか? いや、足りないのだろう。でも、でも猛彦にとって私は必要ない者なのか? 必要ない者の感謝など言葉など、腹の足しにはならないか? 猛彦の心の一部にはしてくれないか?」
佐久那……佐久那は何てことを言うのだろう。
違う。
違うに決まっている。
そんな大切なものを必要ないなんて誰かに思うって事は、自分と同じ人間を作ってしまうということだ。そんな事を思えるもんか。
まして佐久那が言う事だぞ? それを今信じられない事は、きっと夕希ちゃんさえ裏切る事だ。
そしてこれは僕に残った最後のチャンスかもしれないんだ。きっと逃しちゃいけない。目を閉じてやり過ごしちゃいけない。掴もうとしなきゃいけない。こいつは凡人の僕でも報われるかもしれない、最後の努力なんだ。
どんなに天文学的低確率だろうと結局、宝くじは買った奴にしか当たらないシステムだ。
これはそれと同じことだ。
騙されるかもしれない。一時の同情でしかないかもしれない。いずれ佐久那も僕を見限って捨ててしまうかもしれない。本当は出逢ったときから僕の事を嫌っていて、今もイヤイヤこんな事を言っているだけかもしれない。自分が傷つかないために、僕に優しく言っているだけかもしれない。
何も迎えない間から、僕の思考はマイナスに染まっていく。
それでも手を伸ばさないといけないんだ。
手を伸ばすように、言葉を伝えなきゃいけない。佐久那に伝えるんだ。佐久那には伝えなくてはいけないんだ。
「いいや、きっと十分だよ……十分すぎるぐらい十分だよ、佐久那は……」
それに、佐久那に言われると、夕希ちゃんに抱っこをねだられているみたいで、否定できるわけもない。僕はあの心地よさを知ってしまっているんだから。
でも。
それでも、壊れた心が簡単に治るわけじゃない。僕だけじゃない、これは誰しもに言えること。
大切な鍋が割れました。金属なので幸いです。熱で溶かして、また鋳型に流し込みましょう。それで元通りです。
本当にそうか? 違うだろう? その元ナベの鉄には使用する事で、すでにたくさんの不純物が含まれているはずだ。そしてその小さな欠片が、「元通り」を拒む。だって、不純物だろうと、そこに存在していることを、訴えたいに決まっているから。心の場合、そいつは記憶とか言うのだろう。
そんな物にしたって、未来から来たネコ型メイドロボットがエプロンドレスのポケットから取り出す、素敵アイテム以外には、修復不可能だ。もちろん、佐久那の技術力ならあるいは可能かもしれないけど。
ただ、銀河の瞳を持つ、宇宙からやってきた女の子ってのは、そういう方向性のキッカケには十分だ。
逆に言えば、ここまで壊れてしまった心は、こんな事でも起きなければ、そのキッカケさえつかめない。
人の脳は残念ながらパソコンのハードディスクみたいに、ぶっ壊せば都合よく中身が消えて、そのあとまっさらで真っ白な新ドライブと付け替えれば……なんて風にはいかない。いって欲しいけど、決していかない。
でもきっと佐久那は、そんな僕の記憶に上書きを促してくれる。
それは佐久那が、悠久とも思える宇宙を孤独に渡ってきた存在かもしれないからだろうか。僕と同じあの暗い闇の苦しみを知っているかもしれないからか?
でもそれは今考えなくてもいいことだ。
きっとこれからが、答えをくれる。
「見つけような……銀河の欠片……」
「ああ、期待しているぞ、猛彦……」
僕の顔をつかんだまま、佐久那はニッと笑った。今気付いたけど、佐久那にはかわいい八重歯がある。(僕はこれをキバって呼ぶことにした)
学校にはまだ行けない。
僕の夏休みはまだまだ終らない。
でも、明日から僕は家を出る事が多くなるだろう。
たとえ、佐久那の涙や心や言葉が同情でも、今は構わない。
僕を見て、瞳に僕を映して、必要としていると伝えてくれる事実があれば……それでいい。他のものなんて十全、邪魔だ。
その、はずだ……あの人たちとは違うんだ。
佐久那は違うんだ…………
佐久那は僕を見てくれた…………
佐久那は僕を見てくれたんだ。
だから、僕も佐久那を見て歩こう……
佐久那と一緒に同じものを見て歩く。
そう、決めた。