第一章「出会い」……笠屋猛彦 1
第一章「出会い」……笠屋猛彦
1
僕が生きてきたのはきっと地獄だ。
そんな僕が学校に行かなくなって、もう随分になると思う。でも、それがどうしたと言うんだろう。僕なんかひとりいなくても、学校はなくならないし、宿題だって減りはしない。世界の存在よりも自分のパーソナリティを重んじる、みたいな考え方に似ていなくもない。僕のこれは世間一般から言えば、根本的に間違っている。
だって、僕のはただの諦めだから。もう、何もないって悲観して全てに絶望しきって、さらに何もない事を達観してしまったほどの諦めなんだ。
「……こうやって、夏が年々長くなっていく異常気象だって、僕にはまるで関係ない。世界は僕を置き去りにしたままでもまわるし、時を止めることなんてない。僕がどんなにあがいたって、世界に小さなひびさえ与えられない。世界ってのは随分、強固だよなぁ」
ここには僕のことを心配してくれる人もいない。
だから僕は、夜だというのに近所の山にひとり登っている。
僕にとっては、とても大切な思い出があるこの秘密の場所で毎日毎日、夜空を見ている。
だって今の僕には、そんな日課を遂げる事ぐらいしか、存在している意味がないから。
「存在意義。そんなの、一年前に消えちゃったよ……お姉ちゃんや友さん、夕希ちゃんが死んだ日から……」
一年前、僕は姉家族を交通事故でいっぺんに亡くした。姉の千夏、義兄の友哉、姪の夕希ちゃん……姉家族と過ごした六年間の夢のような時間は、本当に夢になって、もう二度とかえらない。
それは哀しいなんて言葉を通り越した喪失感だ。その気持ちをきちんとした言葉に出来るくらいなら、僕は学校にも行かず、バカみたいに星なんて見ていないだろう。
「おばあちゃんが言ってたな……人は死んだら星になるって……勝手だよ……だったら今頃、夜空は暗闇なんてないくらい、星ばっかりじゃないか……」
本当、僕の狭い視野なら完璧に光に覆われるだろう。全く、都合のいい話だ。
そんな気まぐれなファンタジーを信じる気はさらさらないけど、この世界は何も入っていないガラス瓶のように空っぽで、そんなものでも信じないと、僕は命を繋ぎとめて置けない。例え繋ぎとめておくだけの理由も意味も、必要もないとしても……例えそれが、生まれ出る前に僕の命を「もうやめておけ」と母に語った人の言葉でも……。
「親なんていてもいなくても同じ……また“お金を運んでくる人”に戻っただけだ……でもそれだっていつまで続くか……」
十四歳も離れたお姉ちゃんが生まれた時は、どうだったか知らないけれど、僕が五歳になる頃には僕の目にもはっきりと、自分の家が壊れている事に気付いていた。僕の非はそう気付いていたのに、そこから抜け出そうとも、救おうと努力する事もしなかったことだ。でも子どもだった僕はその方法というやつを知らなかったし、日々の生活で当たり前になった感覚は酷く鈍っていき、自分の家が常軌から逸している事実をぼやけさせてしまった。
要するについ最近まで、自分の家がおかしいなんて改めて認める余地すらなかったんだ。
それに認めたとしても、結局は何もできずに終っていただろう。
僕の家内は父方の祖父母の借金が元で、めちゃくちゃだった。
父は兄弟が九人もいるのに、強がって自分の家族を省みず、ひとりで祖父母の借金の全てを返すことを独断で決めた。
それは大家族の中で祖父母に見捨てられがちだった父の最後の賭けで、唯一残された道だったのだろう。それを成し遂げる事で自分の存在を認めてほしい一心だったのだろう。食い扶持が多いというだけの理由で、ひとり家族から捨てられ、よそに出されてなお、そこでも捨てられて、冷たい家へと帰って来るしかなかった父が見た夕焼けが、どんな色だったかだけは、想像して許せるものなんだ……その気持ちだけよくわかるし、唯一弁護できる事だ。
でも、それを逃げ道にした父に、僕たち家族の崩壊原因の一端ができあがった。一言の相談もされず不信になり、それをいつまでも不和の原因として恨み続けている母はもちろん……きっと、そんな中で新しく生まれてしまった僕にも……。
彼らにとって姉以来、久々に訪れた僕という二回目の子育ては、もう飽きてしまっていたもので、加えてどうでもいいものだったらしい。
きっと僕が生まれた理由ってのも、くだらないくらいの、どうしようもない気まぐれな偶然だったに違いない。
そんな幼い頃の事で僕が覚えていることのひとつが誕生日だ。
五歳の誕生日にみんなで食事した事をいつだったか話したら、そんなもの知らないし覚えていないと言われた。それは飲みかけのシェイクが入った紙コップを、走行中の車から何の罪悪感もなく投げ捨てる人間みたいな口ぶりだった。
そして僕の想い出は、アスファルトに残った季節のフレーバーをぶちまけ、次々と後続車に轢かれるぺたんこの紙コップと同じだった。それを口にすることが、どれだけ勇気が必要だったかも知らずに……。
その時に、僕の心は終ってしまったのだ。
簡単だけど、僕の心はそれだけで、壊れたと思う。本当に簡単だ。子どもの心を壊す事なんて、本当に簡単だ。
だから、たった五年で僕は、僕という存在を確定させられ、その後に続く日々で知ったのだろう。
僕はどうでもいいものだという事を。
「その証拠に、よく考えてみたらあの時、みんながどんな顔をしてたかなんて、覚えてないな……レストランにまで出かけたっていうのに。きっと笑ってはいなかっただろうけど……例え僕が、その前を通るたびに、このことを懐かしく思い出していたって関係ないんだな……」
家庭の不和はどんな些細な事でも、容易に子どもの心なんて壊してしまう。誰も意識していないほどのこと、誰しもの目に異常に映る事、そんな違いこそ些細な事で、違いはない。それを与えられるのが、そもそも小さな心なのだから許容量なんて、たかが知れているのだから。
そんな不幸ばかりが重なって、僕の家族は全ての人が違う方向を向いてしまったのだ。
「借金は返せた……生活は維持している……けど、家族の心まではどうにもならなかった……望んで築いたはずの自分の家族より、とうに捨てられちゃったそっちをとってしまったんだから仕方ないよな……その寂しさ、人に与えてしまった悲しみは、いつか必ず自分を襲うって知らないのか?」
この事例を小さい事とかどうとか感じるのは僕以外の仕事だ。丸投げだけど、他者にゆだねるしかない。だって、僕にとってはどんな最小も最大も、結局は最大苦のものでしかないから。
だからそれ以上詳しい、学者さんやワイドショウが好みそうな原因なんて知らなくてもいい。
今こうして目を閉じては浮かんでくるあの頃の、あの人たちの姿を思い出せば察しはつく。「クスクス」なんて擬音が似合う感じの面白い思い出じゃないけど。
「……僕を殺してやるというような目で睨む父と、僕の話を聴いてくれなくて、全てから目を背けるように、眉間に手をかざして俯く母……よくお姉ちゃんも僕も今まで大した問題を起こさなかったな……不思議なもんだ」
言ってみるが、僕はその意味を知っている。
こういう場合、人がとる防衛手段として、まだ何かに逃げて、例え他人に迷惑をかけても、自分のおかれている状況を知らしめる事の出来るやつは幸せなんだ。辛いぞと声を上げられる人間は……それだけで、まだ自分が助かる術を知っていて、それを実行できている。そして、それがもっとも判断しやすくて、わかりやすい救難信号だって、本能的に知っている。
「……自分がどんなに愚かかも知らずに、か……いや、僕だってそいつらと自分を違うんだって言いくるめる事で、まだ大丈夫だって、言い聞かせて逃げてるだけなんだろうな……」
本当に苦しくて、誰かが助けなければならない存在は別にいる。それさえも出来ず、ただ部屋の隅を見つめている奴や、自分を殺す事で全ての解放を願ったりしている奴らのことだ。もちろん、そんな奴らの声なき声に気付くエスパーは、いるのかいないのかわからない。断言できないのは、少なくとも僕が出会ったことがないからだ。でもいて欲しいとは切に願う。これだって僕の身勝手な願望だけどね……だって彼らエスパーに気付いてくれと全てを丸投げにしてしまうのは、酷な事だろう?
そして僕はといえば、後者の仲間だ。
いや、そう言い切ってしまうのは、失礼かもしれない。
僕はそんな人たちの亜種だろう。
僕は何もしない事で、僕でいられる人。
はっきり言って、一番性質の悪いグループに属する。
まぁ、僕の場合は親に何を言った所で、彼らはそんな僕を怒るだけで、何もしてはくれない。どんなに声を上げても気付いてくれない。というより、わかっていても面倒だから放置しているフシだってうかがえる。
それは結局、僕の存在を認めていない事と同じだ。
結果、出来上がった僕は何もしない人。
「……でも、そんな僕らにも奇跡は起こる。あの時は神様だっているって、信じられたのに……」
それは人の理だとか、世界に対してみれば、全く取るに足りない、当たり前の事だろう。
それは姉の結婚と、出産だった。
それは両親を少し変化させ、僕自身も少し変えてくれた。でもそれはほんの少しだけだ。それこそゲームCDの微小な、プレイに支障ありません、ただし買い取り額三百円引きみたいな傷程度の小さな変化だった。
だけどそれは、辛くて仕方なかった日々さえも忘れられる匂いがした。
それは後ろ向きでしかなかった僕が、自ら進んで前を向いた、とても大きな出来事に繋がっていったんだ。
「夕希ちゃん……」
初めて抱かせてもらった時の事は、今でも鮮明に憶えている。
僕はまだ小学五年生だった。その腕でも、たかだか三キロ前後の物は重くも何ともない。いつも背負っているランドセルよりずっと軽い。学期終わりの、体操服にお道具箱に、笛に上履きにと、それらをフル装備したもののほうが、明らかに重い。
けれど、人は……命は違った。
三千二百二十五グラムの命は、とてつもなく重かった。小さな体と、頼りなく鉛筆みたいな首が支える、ころころした頭。気を抜いたら、ぽろりと取れてしまうかと心配になった。
たった五分抱いていただけなのに、僕の腕は次の日、命の重さを照明するように筋肉痛でピクリとも動かなかった。
「命の重みを知ったからって、必要ない存在である僕の価値が今更のように変わるわけじゃなかったけど、僕は……夕希ちゃんだけは僕と同じ孤独な想いをさせちゃいけないって思えたんだ……」
それを人にかっこよく言わせれば、偽善的で吐き気のする代替品行為だとかいうのだろう。だとしても、そんな事は関係ない。僕はとにかく必死で夕希ちゃんと係わった。
そんな僕に反して、僕の父は次第に夕希ちゃんへの関心を失っていき、初孫を可愛がる祖父になる事もなく、自分勝手に壊れていった。孫娘をかわいがらない祖父なんてのは、きっと世界で稀なんじゃないだろうか? それこそ奇異なくらいに。
それでも僕は違う。
姉の新居が近く、産後すぐに働き始めたこともあって、夕希ちゃんはほとんど僕の家で育った。だから僕は友達とも遊ばず、いつも夕希ちゃんの傍にいた。ひとりにしないよう、いつも笑えるようにと努力した……それなのに、努力なんて報われなかった。きっと、世界は天才の努力しか認めてくれないんだ。そりゃそうだ。数多いる凡人の努力までいちいち認めてたら、世界が立ち行かなくなる。そんな事、認めたくないけど……。
「でもたった六年……たった……」
星を掴むように掲げていた手に、ぎゅっと力を込める。それはもう抱けない重さを知っているのか、やけに空しかった。
「それでも、こんな事ばかりしているのは、星でも見て、銀河の大きさを知れば、人の命が些細なものだと感じるからかな? 夕希ちゃんの六年や……僕の十七年なんて……僕の知ってる地獄なんて……」
僕にはこんな風に考えて、自分を一応に納得させるしか方法というやつがないんだ。
「誰にもわからない……一光年……九兆四千六百億キロ先の真実なんて誰もが知るはずがないように、僕は僕のことがわからない……僕の本当が……僕のここにいる意味が……誰も僕を振り返らないように、誰も僕の声を聞かないように……」
僕は掲げていた手を草むらに投げ出した。そのかさりという音に混じって、がさがさと尖った草を掻き分けて、何かが僕に近付いてくる気配がした。野犬や動物の類ではない。規則的に草を踏み固めている感じだ。
「……こんなところに人がいると思ったら、やはりこの星の一般的なヒトとは違うみたいだな。お前の本当というのはわからないが、その九兆四千六百億キロ先のことなら、少し教えてやるぞ……」
僕の傍で止まった足音が、そう発した。
僕はこの秘密の場所に、人が来る事には驚くほど冷静でいられた。これはそういうものなんだ。いつか大切なものは。あっさりとなくなってしまうということ。例えここが夕希ちゃんを初めて連れてきた場所でもだ。
そして尊大な喋り方の声が、細くて高い女の子のものでも驚かない。
「ふむ……どうしてだろうな……ここに着いて七年、人となど係わろうとも思わなかったのに……やはりお前が普通ではないからか?
私から話しかけるなど……」
彼女の言っている事はよくわからない。僕とは色々なものが噛み合っていないみたいだ。初対面で、随分失礼な事も言われているような気がする。
でも、そんな事もどうでもいい。
僕が驚いているのは……僕が凝視しているのは、僕を立ったまま覗き込んでいる、彼女のスカートからパンツが見えていることでもない。
その顔だ。
「……夕希ちゃん? いや……お姉ちゃん?」
彼女は僕の知る二人の顔をそこに重ね、思い出させるような面持ちだったんだ。
だから思わず頭の中に、マンガでしかありえないようなトンデモ設定が浮かんでしまう。
そんなバカみたいな違和感とありえないほど愛しい感慨が交互に生まれて、僕の感情をぐっちゃぐちゃにかき混ぜる。
「そんなはずがっ!」
「ふきゃ!」
僕が驚きに任せて勢いよく跳ね起きたせいで、彼女はその場に尻餅をついてしまった。
随分、悲鳴は可愛かった。
「……い、いきなりなやつだな……」
「えっ、ごめん」
僕は何ヶ月ぶりかにまともに口を開き、素直に謝ってから、転んだままでいる彼女の横に改めて座った。
僕は自分でも、どうして自然に隣になど座ったのかがわからない。
だけど、彼女の姿は僕を吸い寄せるような力があるんだ。夕希ちゃんの傍を片時も離れたくなかった想い。それは、僕の意志でもあったし、夕希ちゃんが笑顔をくれて、僕を必要としてくれているのが肌でわかったからだ。
確かに姿は似ている。だけどその正体はまるでかわらない。でも、僕は懐かしさに惹かれてしまった。人……夕希ちゃんをこの腕に抱く懐かしい温かさを感じてしまったんだ……ただ、似ているという理由だけど……。
そんな想いを僕にさせた彼女は、むくれ顔のままで上体だけを起こして、肩口についた夜露をはらった。
「それで、さっき言ってたことって?」
「ん……ああ、一光年先のことだな……教えてやろう……まぁ、全てではないがな」
話を聞くという体勢でも、僕は必要以上にじっと彼女の顔を見つめてしまう。なかなかここまでいくと、「傾聴」なんて言葉でも片付かないレベルかもしれない。でも、どうしても二人のことを思い出してしまうんだから仕方ない。それに、だからこんなにも自然に話し続けているんだとも思う。
よく見ると、確かに違う人なのにと心がひりひりと痛む。
「あの星まで、ここからどのくらい距離があるかわかるか?」
彼女は大きく光っている星を指差して尋ねてくるけれど、僕は星については全く詳しくない。北極星だって、よくわからないぐらいだ。見ているのは好きなくせに、理科のテストも、星の動きなんていう分野はヤバイくらいに悪かった。だから首を横に振った。
「……なんだ、難しい事は知らないんだな……なら少しわかりやすくしてやる」
彼女はあきれた顔のまま、ふたたび星を指差す。僕はその姿が世界史の教科書に載っていた白いギリシア彫刻のように思えてしまった。
「どれでもいい。ここから見える星たち、あの輝きはとうの昔のものだ。それこそ中には、この星が生まれる遥か前のものもある」
僕はへぇ……というあまり関心のないような感嘆でこたえる。
でも、彼女はそんな事を気にしない様に続ける。でも眉の端がぴくっと動いた気もするので、本当のところはわからない。
「だが、この星でいう今、ここで光っているあの星ぼしのほとんどが、もうそこへ存在していない……そしてそれさえなくなり、暗闇に月だけが光る夜空になる前に、この星も消える」
彼女は怖いだろう? と、付け足したそうに、僕の顔を覗いている。なんだか、いかにも意地悪な顔という形容がぴったりだ。
「……そうか、そうなんだ……」
けれど僕は、彼女の期待を見事に裏切ってそう返した。だってそれは僕の素直な、本心からの感想だった。こんな時は冗談でも交えて返すのが会話のTPOなんだろうけど、そんな余裕はなかった。
僕は気付いた。星がなくなるということは居場所がなくなるということだ。
でも今の僕には、生きていて居ていい場所なんかない。だから遠い未来に訪れる喪失の瞬間を想像しても、何ともない。
(だって意味もなく漂うように命を繋ぎとめているだけの今が、僕には十分怖いことなんんだから……)
僕はこの娘に気付かれないように、心の中でそっと呟いた。
「……お前はやはりおかしな奴だな……名前は何というんだ?」
そんな僕には首も傾げず、自己紹介を求められた。
「僕は猛彦、笠屋猛彦。で、君は?」
今度は少し首を傾げてから彼女は呟く。
「……そうだな、佐久那というのが一番いいだろう。この星の言語形態は種類が多くてな、なかなかいい表現がなかったが、この地域の言葉はぴったりだ」
「へぇ、佐久那か……」
それはまるで、どこか僕の知らない別の場所からやってきたような口ぶりだった。それに名前も神話で聞いたようなものだった。
「…………」
「ん? どうしたんだ。やけに神妙だが」
顔は夕希ちゃんに似ているのに、瞳の色が栗色じゃないし、染めた風でないさらさらと風に泳ぐ髪もキンイロだし……僕の想像通りストレンジャーだとしたら、やけに日本語が流暢だ。
「いや……君はどこから来たの?」
佐久那は何をバカな事を言っているという顔をしている。そして、呆れたようにまた星空を指差した。
「……あそこからだ……あの銀河を渡って、私は旅してきた」
「はっ?」
それはどういう意味なんだろう。もしかしてだけど、いや最大限の仮定を有効にしてだけど、自分が宇宙人だなんて、トンデモな事を言いたいのか? もしそうでも、一足飛びでそこを想像できる僕もたいしたトンデモかもしれないけど。
「なんだ……信じられないという顔だな。じゃあ何で私は、お前の言う九兆六千四百億キロ先の真実を知っているのだ? まあ、私の言った事を確かめる術はないがな……信じる信じないは猛彦にゆだねられるわけだ」
現実的じゃないことなのに、自信たっぷりで、不満があるなら何なりと異義でも唱えてみろと水色の瞳が語っている。
だけど僕には異議を唱えることは出来なかった。とても嘘をついて、僕をからかっているようには見えない。それに人を故意に騙してやろうとするような言葉なら僕が気付かないはずがない。
それに、そんなトンデモ話をすんなりと受け入れる事の方が、今の僕にとっては現実的だ。絶望しきった何の価値もない世界なんかより、佐久那の言葉はよっぽど信憑性があるし、希望めいたものがちらついている。そう考えるともう佐久那を信じるしか道がない気がしてくる。
それに佐久那の姿を見てしまっている僕に、その口から出る言葉を信じないなんて事は出来ない……その姿はあの二人にあまりにも似すぎているから。
「いや、信じるよ。僕はバカだけど、宇宙人はいないなんて考えるほど、傲慢じゃないつもりだから。そうか、銀河を渡ってきたのか……ようこそって本当は言いたいけれど、どうしてこんな所に来たんだ?」
僕は佐久那のほうを見ずに言う。
「……私は、自分の星を救うために来た。この星に着いた“銀河の欠片”を回収するために来たんだ」
「銀河の欠片?」
僕はさすがに目を丸くして、佐久那の顔を見る。何だ? なんて言ったんだ?
「そうだ、銀河の欠片だ。それは星の生態系を模写する生態レコーダの事だ。それで私の星を、この星に倣ってテラフォーミングする」
また聞きなれない単語が出てくる。
「それって、何? 言い忘れてたけど、僕は無知な上に学校にも行ってないんだ」
「なんだ、さっきはバカでも傲慢でもないと言ったくせに。なら教えてやろう……私の星は、私が生まれた時にはすでに、このように美しい星ではなかった。過去から続く過ちに犯されて、星はずっと死にかけたままだった。そして私の世代になって、死への秒読みが明確になった」
僕はごくりと喉がなった。さっき、自分の星がなくなるという話を聞いても、大した感情は浮かんでこなかった。
けれど今は、語る佐久那の目が僕にそうさせた。
それは夕希ちゃんが泣き出す一歩手前の目と同じだったからだ。さすがにこれには勝てない。これは僕へと真に迫るものを与える。
「星の死を回避するために、一番安直な方法として……と言っても決して楽な道ではないが、テラフォーミング、すなわち人が住める環境に惑星を丸ごと改造する事がきまったのだ。だがすでに私の星にも、姉妹たる星にもそのサンプリングをするための情報さえ残されていなかった……だから私は、銀河の辺境でありながら、理想郷と噂されるここへやってきたのだ。まぁ、私だけがここへ派遣されたわけではないがな。銀河の各所にサンプルを求めて私の仲間が散らばっている。私はその一人というわけだ……」
佐久那は熱く語ってくれた。
けれど、その一言一言にさっきあった佐久那の言葉や仕草を、夕希ちゃんに重ねる背徳的な行為の安らぎがしぼみ心も揺らいでいく。
「……ここは佐久那が言うような理想郷じゃないよ……きっとどこにでもある悲しい現実しか転がっていない、何でもない星だよ」
それが僕の持っている現実だった。どれくらいの距離を渡ってきたかもわからない、そんな旅人にかける言葉じゃない。冷たく凍えている、返ってくることも期待しないただ投げつけるような言葉だった。旅人に必要なものは、いつもパンと温かいスープと優しい言葉だって、本にだって書いてあったとわかっている。
わかっていても、僕はそうとしか言えなかった。今の僕にはそうとしか言えなかった。
「そうかもしれん……いやここに住んでいる猛彦がいうのだから、それこそが本当なのだろう。でも、それでも私には違って見える。この緑や青の原色にうめられた息づく星が、そうとは思えない。ここからは永遠に見える宇宙のほうこそ、嫌味なほどあっさりとしていて、よっぽどつまらない現実しか転がっていないと思うぞ……」
佐久那は複雑な笑みを灯して、遠くの山を見る。月が照らす頬のラインが、まるで泣いているように見えた。
「しかし、私たちが出会って、こうして話していることも、くだらない現実なのだろうかな? 猛彦……ならば、お前はどうして私と出会ったのだろう?」
佐久那は言いながら、僕のほうを向いた。
その目は潤んでいるようにも見えた。わざわざ彼方から旅してきて、聞いたのが僕の冷めた言葉なら、泣きたくもなるだろう。
でも、佐久那の顔は夕希ちゃんにそっくりで、僕の心のどこかが呟くんだ。放っておけないだろうとニヤニヤ笑いながら、何かが囁くんだ。くすみかけた想いが、また浮かんでくるんだ。お前までもがこの目を前にして無視を決め込んで、頑なに目を瞑っていていいのかと、問いかけてくる。
どんなにか僕は辛い。でも、この目を見るときだけ、僕はまともになれるんだ。この目は僕に使命と安らぎと居場所を与えてくれる。
この目を前にする時が、僕が僕になれる瞬間なんだ。
「んっしょっと」
僕はすっくと、佐久那の横から立ち上がる。
「わかったよ、その欠片とかいうのを一緒に探そう」
僕は濡れた水色の瞳を見て、続ける。
「きっとこれが僕の今与えられた役目で、佐久那と出会った理由なんだ……そう思うし、そう解釈する……」
「……おい、猛彦。そんな事を簡単に言っていいのか? はっきり言ってこの辺りだという、その目星をつけるのに私は七年も彷徨ったのだぞ? これから一体どのくらいの時間を要するかわからないぞ……それでもか?」
佐久那は僕の提案に、驚きを交えて答える。
でも僕は自然と笑って返した。
「ひとりで七年なら、二人で三年半ってこともあるだろう? それに僕には時間がたっぷりあるんだ」
僕はまだ座っている佐久那に手を差し出す。
「えっ! た、猛彦! 何を考えているんだっ!」
佐久那は変なところに敏感みたいだ。やけにビックリマークが多い。
宇宙人だからか? この星の常識なんて知らないからか?
「何って、差し出された手を取るのは当たり前だろう?」
僕は夕希ちゃんにしか言った事がない言葉を伝えた。それは誰とでも手が繋げる、そんな人になってもらいたくて、僕が夕希ちゃんにいつも言っていた事だった。
まごついている佐久那に、僕がにやけてしまうのは仕方ない。佐久那はいちいち仕草とかが、夕希ちゃんそっくりなんだ。
「……そ、そうなのか……? ここではそういうものなんだな?」
佐久那は恐る恐るという感じで、手を伸ばす。尊大な物言いのくせに、ひどくおどおどしている。
それに今気付いた。僕らの言葉を使い慣れていないから尊大な話し方なんじゃなく、佐久那はいつだってこんな話し方なんだ。
尊大な話し方が、佐久那のデフォルトなんだ。
「……くく……」
だから余計におかしくて、僕は我慢できずに笑ってしまった。
でも佐久那はまだ迷っているみたいで、寸での所で、手が重ならず宙を泳ぐ。
「よっと……」
呆れた僕は、夕希ちゃんにしてきたみたいに、そっとその手を両手で包んだ。
「ええっ!」
手が重なったその瞬間、佐久那はびくりと跳ねて、地面から飛び上がった。
瞬間、やわらかい山百合のような匂いがしたあと僕の目の前に、佐久那の顔が現れた。
女の子の驚き顔を、こんなに間近で感じるのは初めてだった。白い翼のように広がった上着の長い後ろ襟と、それに重なるように垂れる、金の翼のような髪が、僕に近付いてくる。
だから僕は少しボーっとしてしまっていた。
「どうしたんだ猛彦? 変だぞ」
言われて我に返るけれど、自分だってつないだままの手を、ちらちら盗み見るようにしている。声だって無理に繕っていて、震えているじゃないか。強がっているのがバレバレだ。
「はは……まぁヘンかもしれないな……それで、佐久那はどこに住んでいるの?」
「住む……というか、定住先はないな。夜は適当に人気のない所で明かすことにしている」
佐久那はそういう事が、まるで当たり前だと言いたいぐらいだったのだろう。僕と出会ったのが不思議だと言っていたように、佐久那は本当に、人との係わりを絶って生きてきたんだ。
(それは今の僕も同じか……)
と思ってみるけれど、きっと佐久那のそれは、僕のものとはレベルが違う。
佐久那がその孤独を苦しみ悲しんでいたかはわからない。でもそれが身に迫るほどの苦しさや悲しみだったことはわかるつもりでいる。
目の前にいる少女が、夕希ちゃんやお姉ちゃんに似ているからなのか……佐久那には変な親近感がはじめからある。だから、僕と同じような苦しみも悲しみも味わって欲しくないんだ。だから放っておけない……いや、ただ単にかわいいからか……まぁ、今はそんなことどっちだっていい。
そんな理由がはっきりとわかる方が、きっと気持ち悪いんだ。目の前にいる人を助ける理由を考えている方が、きっとずっと気持ち悪い。
さくさくと草を鳴らして歩きだした中、僕は佐久那のつないだままの手に、力を込めた。
「佐久那、行くとこないならさ。家においでよ……」
特にいやらしい感情はない……はずだ。けれど僕は送り狼の常套句なんかを、マンガみたいに言っていた。
「……それは助かるな。雨露を凌ぐのもそうそう楽ではないし」
逡巡というか少しぐらいは考えるのかなと思った僕を無視して、佐久那はそう答えた。
手をつなぐ事にあんなに抵抗していたのに、こんな事にはあっさりと答えてしまう。
やっぱり宇宙人って変だ。でも僕の常識では測れないところがまた面白い。尊大喋りがデフォのくせに。
「くくく……」
「なんだ猛彦、その笑い方はあまり心地いいものではないぞ」
佐久那はかわいらしい顔をゆがめて、僕を見返す。でも僕は笑いがこらえられない。
佐久那に驚かされたり、仕草を面白いと思うことは、夕希ちゃんが成長していく中で、昨日できなかったことを、今日やってのけてしまう。そんな時の感覚に似ているんだ。そういうのは単純な驚きとだけは形容できない。
それに出会う自分までもが、新しい何かを得ていくように新鮮な気持ちと発見を楽しんでしまう。夕希ちゃんが手を差し伸べて、笑っているときのように、心が躍れ踊れとワクワクしているようなんだ。
夕希ちゃんが手を差し伸べて、遊ぼうと笑っているようなんだ。
「じゃあ、早く行こうか。お腹とかもへってるだろう?」
「ああ、そうだな」
その顔は、久し振りに「食べ物」を食べると語っていた。
(…………)
あえて僕は、今まで佐久那が何を食べていたかを聞かなかった。もちろん興味はあったけれど、聞かないほうがいいと判断した。
気の利いた携帯宇宙食とかならいいが、僕はあまり鮮血散り飛ぶ野生じみた話は得意ではない。佐久那が蛇だのネズミだのに、頭からかじりついている様は想像したくなかった。
「まぁ、家の料理の味はどうだかわからないけれど、お腹はふくれると思うよ」
僕は特に何も考えず、おどけながら佐久那にそう言った。
「どうしてだ? 母親が作る食事というのは、至高の味ではないのか……私の星ではそういうことが一般的だったぞ。それとも猛彦には母親がいないのか?」
「いや違うけど……そうか……」
言いかけて僕は口をつぐむ。もちろん佐久那の意見はこの星でも、もっともなものだろう。母親から生まれるとか、育てる親がいるとかいう文化のうえでは全宇宙共通のことのはずだ。
(いやそれも僕の狭い見解での解釈だけどね)
でもそれが当てはまらない事もある。僕は家族揃っての食事というのを、ほとんど経験した事がない。それに母は口癖のように、食事の支度を厄介がっていた。そこに食べる人を思う気持ちは感じられなかった。
(だから、僕は美味しいと思ったことがない……食事はただ腹ペコを紛らわすものだと思ってたし、今でも思うことが多い……)
それはただ単に、僕のせいなのかもしれない。本当はあのご飯にもちゃんと味があって、噛めば噛むほど美味しいという幸福を、心に運んでくるものなのかもしれない。
でもそれは、僕にとって誰と食べることで味わえるものなのだろう。少なくとも父や母じゃない。
「こっちだよ、佐久那」
「だが、そちらには人が通いなれた道らしきものはないぞ。ここへ来た時も私はこちらの道を通った」
佐久那は不思議そうに、僕が指す獣道を眺める。
(もしかしたら、佐久那となら……)
僕は何に期待しているのだろう。佐久那となら、夕希ちゃんと食べた食事を思いだせるとでも考えているんだろうか。
僕はそんな考えを振り払うように、佐久那の手を引く。
「こっちはさ、秘密の近道なんだよ」
「そうか……なら急ごう。恥かしい話だが、私はお腹がへっている。猛彦の言葉でまともな食事の事を思い出してしまって、大変な事になっているんだ」
僕はその大変な事を必死にこらえている佐久那の顔に、思わず吹き出してしまった。腹ペコキャラも定着か? これから酷使するお腹を母性丸出しでさすっている姿は神々しいぞ。
佐久那は僕の考察にむっとしたみたいだけど、僕は構わず獣道をやけにあったかい手を引いて歩いた。