エピローグ
エピローグ
悪い夢を見ているみたいだった。本当に悪い夢。僕が佐久那や大岡さんや祭をいっぱい泣かしてしまう夢。
それにしても、体が重い。重力が常に働いているのはよく知っていて、わかっていることだけど、普通に暮らしていれば、そんなものを感じることはなかなかない。だけど、今はそれを肌で感じている。感じているというか、刻み込まれているみたいだ。
全身に重力を感じていて、まるでこの星にひかれているみたいだ。でも、すごくふわふわと頭がしていて、手も温かい。暗闇ですごく孤独な気がするのに、春の二度寝のようにすごくぐんにゃりした心地よさも感じてしまう。
「なんでだろう……この匂いのせいかな」
山百合のように、やわらかな匂い。それに混じって、別の香りもする。ミルクのような匂いに、桜のような匂い。
どれもがはっきりとしているけど、溶け合ってよくないものにもなっていない。全部の匂いが足りない部分を補い合って、ひとつの優しい匂いのように感じる。それに抱かれて、僕はまた少し夢を見る。
今度は夕希ちゃんの夢。
また泣いている。
でもそれは別に珍しいことじゃない。赤ちゃんの時は誰だって泣く。オムツがぬれた、お腹がすいた、抱っこして欲しい……泣く事で赤ちゃんは会話する。僕は夕希ちゃんのそれをいっぱい見てきたんだ。赤ちゃんじゃなくなっても、人は泣くことで会話する。抱きしめて欲しいって……頭をなでて欲しいって……。
でも今、僕の目の前で泣いている姿は、それのどれにも当てはまらない。
これは、僕が泣かしているんだ。
「何がそんなに悲しいの?」
僕は夕希ちゃんを前にして両手を広げて呟く。
いつだってこうすれば、夕希ちゃんは僕の腕に飛び込んできてくれた。
「……もう、ダメだよ?」
「?」
飛び込んできてくれる代わりに、小さなお口が開いて、言葉が漏れた。
「もう、大事な人を泣かしちゃダメ……」
「どうして……」
「身代わりになんてなって欲しくなかったよ……夕希たちは……笑ってて欲しかったんだ……ずっとずっと……笑ってて欲しかった」
結城ちゃんはぽつりぽつりと僕に言う。聞いた事もない悲しい声で。
「もう、大切な人を泣かしちゃダメ……」
「うん、うん約束する……だから、そんな悲しい声を聞かさないで!」
僕は必死に手を伸ばして訴える。もう一度、もう一度だけでいいから、その温かさを教えてくれた体を抱きしめたくて。
でも、手は届かない。
「猛彦……もう、やめなさい。あんたの手は、もっと必要としてる人がいるんだよ。その手を取るために、その手は使いな」
「お、ねぇちゃん……友さんも……」
お姉ちゃんの厳しい声に僕の想いは途切れる。
「夕希、おいで……行くよ」
そして夕希ちゃんは微笑んでお姉ちゃんと友さんの手を取った。僕の手は宙を泳ぐ……誰にも取られることなく、宙を泳ぐ。
また、僕はこの手を誰にも取られないのか……また、僕は誰にも必要とされないのか。
「待って、待ってよ……」
急に柔らかだった闇が濃くなり、自分の伸ばした手の先が見えない。
何もない不安から、僕は必死で手を動かして何かを探る。
手に何か触れないか……何か形があって、僕を安心させてくれる何か……何か。
「あ…………」
ふらふらと彷徨っていた手を何かが掴んだ。僕が掴んだんじゃない。この温かくて柔らかいものは、人の手だ。
誰かの手だ。
「猛彦!」
「気がついたぞ、やっほい!」
「よかった……本当に……」
三人の声が聞こえた。懐かしい声。
「う……ぐぅ……」
体を起こそうとしたのに、起きられなかった。夢の続きのように重力にひかれて、からだから土の上に根っこでも生えてるのかと思った。
「まだ、動くんじゃない。あと五分待て。そうすれば日常レベルに回復する」
「まったく、目の前で奇跡を見ることになるとはな」
僕は言葉の意味がわからない。
「覚えてないの?」
「な、にをだろう……」
普通に話しているつもりなのに、声が途切れてしまう。僕はどうしてこんなところに寝転がって、佐久那に抱かれてて、手を握られているんだ……周りには大岡さんと祭もいる……だけど、あいつ……デリッドがいない。
「そう、か……僕はあの時、欠片の……前に出て……」
そして撃たれたんだ。佐久那の大事なものを守りたいと言い聞かせて……本心を嘘で固めて……だから、お姉ちゃんにも夕希ちゃんにも怒られてしまった。
いや、叱ってくれたのか……こうして手を握ってくれている、佐久那や傍にいてくれる二人の大切さをないがしろにしようとした僕を叱ってくれたんだ。
自然と触れている手に力がこもる。
僕の失ってはいけない手は、これだったんだ……もう、取り戻しようのない後ろにあるものじゃなくて、今こうして握っている手だったんだ。
「さて、後は二人にまかせるとしよう。私は行かなければならない」
「はぁ? いきなり何いいだすんだ。行くってどこに行くんだよ」
それは僕も聞きたい。この手をまた離せと佐久那は言うのか?
「自分の星に戻らなければな。任務は……失敗していないらしい」
「どういう意味? 欠片はそこで壊れちゃってるわよ」
大岡さんは僕に見えるように指差して言う。
「あぁ、どうやら、私の声からパスコードを勝手に習得して、起動したらしい。デリッドに壊される前に、データを母船へ転送したらしい。任務が失敗していれば急ぐ事もなかったのだが、データを母星まで持ち帰えらなければならなくなった。残念だが、それは一刻を争うことなんだ」
佐久那は行ってしまうと自分で言っておいて、僕の手を離そうとしなかった。それよりも、もっと強く握る感触が伝わってくる。
本当に、素直じゃないな……でも、それは僕だって同じだ。
「そうか……なら仕方ないな……」
「ああ、だから猛彦を頼む……すまないな、猛彦……お前の命を救うためとはいえ、ナノマシンを注入してしまった……その作用が今後どう出てくるかは、まだわからない」
佐久那は急にしゅんとして、僕の頬に片手を置いた。あの日のように白く細い指が僕の頬をなでる。
「ああ、大丈夫だ。ボクたちがついてるからな……お前は安心して行って来い」
「なんだ、私がいなくなることが嬉しそうに聞こえるぞ」
珍しく佐久那が冗談ぽいことを言う。それには祭も同じく驚いたみたいだ。
「あははははは。そ、そんなこと思ってねぇぞ、安心しろ。ボクは意外と正々堂々やるタイプだからな。危険なのはむしろ、よしののほうだな」
「し、失礼ねっ。私だって正々堂々やるわよ!」
「どうだかなぁ~~」
僕は楽しそうな佐久那の顔をみて、安心する。時々思っていた。佐久那は本当に哂うことが出来るのだろうかと……僕のように、笑い方を忘れてしまっているんじゃないかと。
僕は佐久那と出会って、笑う事を思い出して、そして変わっていけるきっかけをもらった。みんなに教えてもらって、過去よりも、今手にあるこの柔らかい手を大切にしなきゃいけない事も学んだ。
佐久那のこと……僕の取り越し苦労だったみたいだ。
だって、佐久那はこんなにも笑っているんだから。
「さて、行くとしよう……」
「う……もう、行くの?」
僕の声に、佐久那は僕を見つめる。また佐久那の銀河の瞳に僕の姿が映った。
あの日ほど酷くはないけれど、すごく寂しそうな顔をしているなと、自分でも笑いたくなった。
「心配するな」
「そうだそうだ。もう、帰ってこないってわけじゃないだろう?」
「…………」
「ちょ、帰ってこられないの?」
「……そんなはずはない」
「な、なんだよ……じゃあ無駄にタメとかつくんなよ。ビビるだろうが。さっきの沈黙の間に変わった猛彦の顔がすごかったぞ」
祭はネタのように笑うけど、僕はそんな顔を一瞬の間にしていたのか。
「よ、と……もう、大丈夫みたいだよ」
僕は佐久那の手を離さないまま、体を起こす。さっきまでの重力に縛られているような感覚はもうすっかりなくなっていた。
「そうか……ならば、行くことにしよう」
「本当に帰って来るんだよな?」
「心配性な奴だな。安心しろ……私はお前と既に約束を交わしているのだからな」
佐久那は優しく僕を見つめてから、真空のある方向へ視線を移した。
「ここで出逢ったとき、私に手を差し伸べてくれただろう……この星で、その行為に特別な意味がないことは知っている。だけど、私の星では違う」
佐久那が僕から手を剥がして天を指差した。そのすぐ後に僕らの頭上に、二階建てのビルくらいある物体が姿を現した。
「うわ、なんだこれ!」
「じょ、常識的な物体じゃないわね」
「ああ、私の宇宙船だ……話がそれたな……私の星で、手を差し伸べることは、求婚の行為だ。そして、その手を取ることはそれを受け入れたことになる」
「なななななな、なんだって!」
「ま、祭ちゃん、落ち着きなさい」
「ばっか、お前だって声が震えてるっていうの! くぅ、ハジメテがフリンか、ハードルたけぇ!」
二人の動揺はもっともだけど、意味が少しわからない。でも、少し冷静を装ってみると、僕と佐久那は夫婦とかになってしまうのか?
「そういうわけで、大事な存在を置いたままにして帰ってこないなどはありえないのだ。そうそ、二人とも安心しろ」
「な、なにがだ?」
「私の星は、重婚も認められている。なかなかにないことだが、いいだろう。私が足りない分は、二人もたくさん猛彦を愛してやってくれ……まぁ私の愛だけで十分だと、猛彦には言わせてみたいものだがな……」
佐久那は微笑みを残したままで、僕から一歩二歩と遠ざかっていく。
「佐久那……」
僕は今見送ることしかできない。
でも、その変わり始めた姿を見れば、安心できる。ちゃんと安心できる。佐久那は帰ってくると信じられる。
「猛彦、また会おう……私たちの時がはじまったこの場所で……」
「ばっか、今度はボクたちの一緒だっての!」
「そ、そうだけど、今は黙ってなさい」
二人のやり取りに僕が少し笑うと、佐久那の微笑みがはっきりとした笑みに変わった。
マンガを読んだって、いつもむっつりしたままで、聞けば面白いというのに、笑い声を聞いたことがなかった……その佐久那が笑っている。
微笑でもなくて、ちゃんと笑っている。
そして、きっと僕も笑えている。
心の底から笑えている。
目の前に迫った一時の別れを惜しむよりも、また巡り来る再会の時を心待ちにして、笑っていられる。
これがきっと愛する強さなんだ。夕希ちゃんに教えてもらったものは、今、佐久那を前にしてやっと花開いたんだ……これから、僕はもっと変わっていける。色んな人に、たくさんのものをもらって、変わっていける。
だから、今は笑おう。
佐久那が笑っていることに応えよう。
「うん……また、会おう……ここからはじめよう……」
僕が一歩踏み出すと、佐久那も一歩を返してくれた。
ふたりの距離が等しく縮まり、二人ともが手を伸ばせば届く距離になった。
「一度目は偶然に……二度目は私から……三度目は願いを込めて」
「四度目は暗闇の中で僕が求めた……」
「そして五度目は、二人の約束を込めるとしよう……ふたり同じ心で」
「うん……」
二人同時に手が動く。
そして僕の指先に佐久那の指先が触れた。温かく柔らかい感触を求めるように、しっかりと手をつないだ。
「また、会おう」
「うん、またね」
言葉のお尻を追うように、繋がれていた手が離れ、佐久那は宇宙船の真下へと溶けていく。
でも発した僕らの声は自然と重なる。同じ想いを託した言葉が、はっきりと重なっていく。
重なって、混ざり合って、ひとつになる。
そしてやがて溶けていく。
『銀河の欠片が降る夜に……ここで、また』
(了)