プロローグ
綺麗な夜空が見えた。
それは掲げる僕の手の向こうで、たくさんの星を抱いて、本当に綺麗だった。
けれど、さっきから時々、それを遮るように、何かが僕の顔に振ってくる。
ぼたぼたとぽたぽたと、ひとつを追いまたひとつと、粘度の高い液体が振ってくる。よくある夏の汗みたいに、べたべたしているけど、もっと違うものだ。
「……なんだろう、これ?」
僕は普通に喋っているはずなのに、それだけ発するのが精一杯で、咳き込んでしまう。
「……ああ、そうか……」
鉄分をたっぷりと含んだ息を吐き出して、やっとわかった。
これは僕が流している血なんだ。
どうしてこんな事になったのだろうと考えるけれど、心がそんな無駄な事はやめろと囁いた。
「……し、ぬのか……僕は……」
そんな風に思ったとき、なぜか今までの全てが、ふっと軽くなった気がした。それがいいじゃないかと、僕の全てが囁くようにまた呟く。
「……ひこ……たけ……」
見るもの全てがそう肯定したように、全てから目を背けようとしていた僕に……僕の手の向こうに、ぼんやりと顔が浮かんできた。
「……ああ、お姉ちゃん……それに夕希ちゃん……か」
二人の顔が交互に僕に迫ってくるようだった。大切で、僕に生きている意味を与えていてくれた人たち。
そして、とうにいなくなってしまった人たち。僕を置いて、消えてしまった人たち。僕を見放した人たち。
「……そ、うだ……僕は……ずっとこうなりたかったんだ……」
交通事故で、姉夫婦が夕希ちゃん共々死んでしまったあの日から、僕の時間は止まったままだった。
そして、ずっとなぜ僕なんかが生きていて、姉たちが死ななければいけないのかと考えていた。誰にも必要とされなかった、愛される事のなかった命なんて、と。
「……僕はあの時、身代わりに……死にたかったんだ……それで悲しい事から逃げられるから……もう、家にいるだけで、内臓を内から口に向けて、搾り出されるような感覚に苦しむ事もないから……」
そう思うと、また心が軽くなった。
僕は英雄的死を望んでいた。なんの意味も持たないこの命も、そんな失い方をすれば、少しは尊くなれる気がしたんだ。それは決して叶わないものだと思っていた。でも、今僕はそれを叶えた。
だから、目の前に見えるお姉ちゃんも、夕希ちゃんも、僕を迎えに来てくれたんだと思っていた。
やっとこの地から足を離すことの出来る僕の魂を、綺麗な場所に連れ立ってくれるのだと信じていた。
「…………」
でも、どこか違う。
違うんだ。
この顔は閉じかける僕の目を、無理やり細い指でこじ開けようとしているような……それでいて流れ落ちる血を悔いているような……とにかく何かを必死で訴え続けているんだ。
「……ひこ……たけひこ……」
僕の名前を呼ぶ彼女。それはお姉ちゃんにも夕希ちゃんにも見える。
でもやっぱり違うんだ。
「……そうだよ……彼女は……僕の……」
声はなかなか口を出て行かない。でも僕は喉元で出口を求めて暴れる言葉の続きを、言わなければいけない気がする。
「……呼べ、私を……呼べ……」
やっと叫んでいるその顔が、泣いているとわかった。ぼろぼろと大粒の涙が振ってきて、僕の顔にかかる。生暖かいそれは、口元から溢れ出る血と交じり合って流れ、地面に吸い取られていく。
「……僕は……知っている……君を……お姉ちゃんじゃない、夕希ちゃんでもない……君は……」
「猛彦、猛彦……そうだ、私は……私の名を呼んでくれ……」
必死な訴えなのに、僕はそれよりも彼女の、長い羽みたいな髪の毛が撫でる頬が、くすぐったい。綺麗な毛先を僕の血で汚してしまって、悪い気がする。
「…………」
僕は流れる涙を包むように、空をまさぐっていた手を、彼女の顔に置いた。そうすると、彼女は僕の手をぎゅっと握った。
「……ほら、温かいだろう? 柔らかいだろう? これもみんな猛彦が教えてくれた事なんだぞ……猛彦……」
「……さ……く……な」
僕は必死で声を絞り出す。
でもかすれた声は、なかなか届かないみたいだ。
「……さ……く……な……」
「猛彦、そうだ。呼べ、私の名を呼べ! 生きる事と同じように、私の名を呼んでくれ!」
また痛いぐらいに、重なった手に力が込められる。
「……佐久那……佐久那……佐久那……」
僕はやけになって何回も呼んだ。
「そうだ、私は佐久那……佐久那だ……お前の佐久那だ! 叫べ、もっと叫んでくれ! 私の名を、この大気の底から真空まで運べ! 私を、私を呼べ!」
そうだよ……どうして思い出せなかったんだ? 彼女は佐久那。お姉ちゃんでも夕希ちゃんでもない。
僕の大切な人…………
佐久那だ。