或る催眠術師の姦計について
必ずしも、五円玉に紐を結んで左右に揺らして見せる必要はない。
シンプルな動きを、短い周期で繰り返す。それだけである。
デジタル時計の明滅する点を見つめさせるだけでも良い。蛇口から滴り落ちる水の雫でも良い。
実を言うと、視覚に頼る必要すらない。
一定のリズムでなり続ける音。例えば、踏み切りの音などにも催眠効果がある。
周期は、鼓動のリズムに近ければ近いほど効果的とされている。
単調なリズムにある一定時間異常浸ると、精神が穏やかな高揚を始める。それはある種、禅にも通ずる。
俺が彼女に用いた方法は、彼女の頭を抱き締めて、俺の鼓動のリズムを聞かせること。
「目を閉じて」
なんてことはない要求。
よほどのことが無ければ突っぱねようという意志すら沸かないような、取るに足らぬ命令ではあるが、それゆえに催眠の入り口にはもってこいの要求である。
相手が目を閉じたその時、実は催眠の8割は完了していると言える。その時点での被術者は、術師の要求を聞き入れる精神状態は出来上がっているからだ。
俺は催眠術を使って、彼女を殺した。
否、殺したというのは正確ではないのかもしれない。
彼女は彼女の自宅で、自ら首を吊ったのだから。
第一発見者は俺だった。俺は彼女の死を見届けた後、そのまま2時間ほど彼女の部屋で時間を潰した。そして、たった今恋人の自殺体を発見した哀れな男を装って、警察に連絡をした。
その事件は当然というべきか、自殺として処理された。
警察がそう判断したのだから、アレは実際に自殺だったのだろうとさえ、思う。
俺は殺して、いない。彼女が勝手に、死んだ、のだ。
俺は催眠術師で、彼女はいわゆる、アイドル、というやつだった。
あるテレビの企画で共演した彼女と俺は知り合うこととなった。
アイドルというカテゴリーが俺には今ひとつ把握しきれないが、少なくともそう呼称されていたことは確かである。
俺が、彼女と関係を持つに至った経緯など、どうだって良い。
俺が、愛すべき彼女を殺すに至った理由も、全くの無価値である。
殺す? あぁ、やはり俺は自らを殺人犯と認識しているらしい。
それは今のところ俺以外の人間にとって事実ではないが、真実ではあるのだろう。
真実に価値はあるだろうか?
「日下部さんですね。日下部、久志さん」
「はい、そうですが」
「突然の訪問、申し訳ありません。麻上ミノリさんの件で、幾つかお訊きしたい点があって、来ました」
その男が俺の自宅を訪れたのは、俺が彼女を殺してから4ヶ月ほど後のことであった。
勿論、俺の中でその記憶が風化したわけではなかったが、もう完璧に自殺として片付いたものだと確信しきっていた為、虚を衝かれた形になった。
「どちら様? 警察の人じゃないですよね」
男は、どう見ても警察官には見えなかった。中途半端に伸びた髪、ヨレヨレのワイシャツに、色褪せて白っぽくなったジーンズ。
なんだか、だらしのない大学生のような風体だ。
顔立ちを見る限りでは、20台後半から30台前半だろうか。
「申し遅れました。僕は、こういうものです」
男が名刺を差し出す。
護国寺洋介という名前らしい。肩書きは、探偵。
「探偵?」
「はい」
「探偵って、なんですか?」
「御存知ありませんか?」
「いや、知らないこともないですが、今ひとつ状況が掴みきれなくて。探偵って、浮気調査とかのイメージがあって……」
「浮気調査もしますよ。依頼があって、それに見合った料金さえ頂ければ、大抵のことはいたします」
「へぇ。そうなのですか」探偵が事件解決の為に動くだなんて、何となく現実的とは思えないのだが、そんなことで議論していても仕方が無い。俺は取り敢えず頷いて置いた。
「麻上さんの自殺に関して疑問を抱いている方がいるのです。僕は、その方からの依頼を受けて調査をしております」
「あれが、自殺ではなく、殺人なのではないか、と。そういうことですね?」
「そうです」
「そして、貴方は俺が犯人かもしれないと考えている」
護国寺という男が、ミノリの名前を出した時点で、このような話になることは想像がついていた。
ミノリは自ら命を絶った。俺は殺人犯ではないのだ。何を怯える必要がある?
とぼけると、逆に白々しくなるだけである。
「どうして、そう思います?」護国寺は僅かに首を傾げて訊いた。
「俺が殺人の可能性についてアッサリ言及したとき、貴方は意外そうな表情を見せた。それで充分では?」
俺がまっとうな殺人犯(矛盾する表現だが)ならば、殺人の可能性について、まずはしらばっくれるのが普通である。
「なるほど。否定はいたしません。その方が、下手にオブラートに包まずに済む分、話し易い」
「上がりますか?」俺は室内を手で示す。
「はい。そうさせて貰えると助かります」
俺が護国寺を部屋に上げる気になったのには、幾つかの理由がある。
1つは、殺人事件に関する話など、人聞きの良いものではないからだ。催眠術師という職業柄、奇異の目で見られることには慣れているが、しかし殺人犯の疑いを含んだ目で見られるのは不愉快だ。噂が広まれば、仕事にも影響が出ることだろう。
2つ、少なくとも、護国寺に対して調査を依頼した人物は、少なくともミノリを良く知る者だろう。俺とミノリの関係は、最早公然の事実。依頼人が殺人事件を疑っている以上、俺の存在が全く念頭に無いとは思えない。疑惑の芽は摘んでおくに越したことはない。俺は、この護国寺を上手く説き伏せることで、俺に対する疑惑もほぼ無くなるだろうと踏んだ。
3つ、護国寺を家に上げることで、彼の持つ俺への疑惑の度合いを測ることが出来る。護国寺が俺のことを殺人犯だと100パーセントの確信をもっているのならば、奴は俺の部屋でくつろぐことは出来ない。誰しも、殺人犯と一緒の空間にいれば「殺されるのではないか?」という懸念は消しきれないだろう。自分を殺しても何の利益が無いということを頭では理解していても、だ。催眠術師は、人の心を弄る以上、微妙な精神状態の変化には敏感なのだ。
「大したものが無くて、すみませんね。事前に連絡を頂ければ、それなりのものを用意したのですが」
相手に対して露骨な敵意を見せてはいけない、かといって、必要以上に愛想良くしてもならない。飽くまでも自然に振舞わなければならない。
俺は護国寺の前にコーヒーの入ったマグカップを置く。砂糖はスティックタイプの物は常備していたが、敢えて、シュガーポットにスプーンを添えて出した。こうすることで、毒物の混入に対する懸念を促すのだ。
砂糖はおろか、コーヒーに口をつけることさえしなければ、恐らく、かなりの割合で俺を殺人犯だと確信しているのだろう。
俺は砂糖を入れずにコーヒーを飲む。
それを見届けてから、護国寺は「いただきます」と呟き、自分のコーヒーに口をつけた。俺同様、砂糖は入れていない。
護国寺は熱いコーヒーを一気に半分ほど飲み、受け皿にカップを戻した。
そのカチャリという音が合図だったかのように、口を開き、
「僕は麻上ミノリさんを殺したのは貴方だと思っています。方法は、催眠術による、自殺誘導」
「知っていますか、護国寺さん。催眠術で、自殺をさせることの難しさを」
「はい、ある程度は存じています。予備知識が皆無では、日下部さんに対して失礼に当たりますものね」
「催眠術は、魔法じゃないのです。被術者の持つ、一部の認識を一時的に歪めることしか出来ない。自殺する意思の無い人間に対して、『自殺をしたくて仕方が無くなる』というような暗示は、効かないのです」
「では、麻上さんには、自殺願望が無かったと仰るのですね? では、なぜ彼女は自殺をしたのでしょう」
護国寺がジャブのような質問を飛ばしてくる。俺の発言の隙を突いたつもりだろうが、その攻撃は予想していた。
「いえ、そうは言いません。ミノリにはそれなりの自殺願望があった。彼女はアイドルとしての行き詰まりを感じていた」
「アッサリと吐露してしまうのですね」
「だからと言って、俺に彼女を殺す理由も無いですね。彼女には自殺願望はあった。だからこそ、事件は殺人ではなく自殺である。これが自然な帰結ではないですか?」
「そうですね。そうかもしれない。そうだと良いでしょうね、日下部さんにとっては」
護国寺はそう言って微笑み、カップのコーヒーを一口含む。
少し、カチンと来た。少し皮肉を言ってやることにする。
「護国寺さんは、ミノリは殺されたのだという結論を望んでいるわけですよね。自殺として片付いた事件の、裏を暴くだなんて、探偵冥利に尽きるというヤツでしょう」
「ええ、その通りです。殺人事件として納得の行く形で終わることが出来れば、依頼人も満足するし、僕の株も上がりますからね」
皮肉が通じない。俺は内心舌打ちした。論理的策略がどうというよりも、単純に悔しい。
「俺は先ほど、ミノリには自殺願望があったと言いました。しかしね、大抵の場合、人間誰しもある程度の自己嫌悪を抱えて生きているはずです。俺もそうだし、護国寺さんも思い当たる点がないわけではないでしょう」
「そうですね。僕も、昔の恥ずかしい記憶を思い出して、居ても立ってもいられなくなる事があります」
「自殺願望なんて、それほど珍しいものでもない。日本人の半数以上が抱えているものだと思います。が、それは飽くまでも、願望なのです。願望があるからといって、それを実行する人間は殆ど居ない。そういうレベルのものなのです。そして、その程度の願望を、催眠術で歪めた所で、まず自殺には至らない。これは俺以外の催眠術師に尋ねた所で、同じ答えが帰ってくることでしょう」
「そうですか。日下部さんがそう仰るのならば、きっとそうなのでしょう。その点は信じます」
「それは、俺の疑惑は晴れたと言うことですか?」
護国寺は、残りのコーヒーを飲み干す。
深く息を吐き、そして俺の目を見て、言った。
「いいえ」
護国寺は両手で球を握るような形を作りながら話す。
「例えばですよ。被術者に対して林檎を見せて、『これは梨である』という暗示は、容易なものですか?」
どうやらその球形は、林檎、もしくは梨を表しているらしい。
「暗示の効く効かないは個人差がありますが、その程度のものならば、比較的簡単な部類に入ります。必須条件は一つ、被術者が林檎も梨も知っていること」
「そうですか。では、切り立った崖の縁に立たせて『飛び降りることはこの上なく楽しいことである』、などという暗示はどうでしょう?」
「それは……、難しいですね。そういう、露骨に命を脅かす行為は、本能で避けようとするはずですから、暗示も効きにくい。余程の技量と、条件が揃わないと、成功しないでしょう」
「では、その前者と後者の暗示を踏まえた上で話を進めましょう。『首吊り自殺をしたくなる』という暗示は、比較的後者に近いものですよね」
「ええ。そのタイプの暗示は、効きにくいはずです。俺も、試したことがないんで正確なところは知りませんが」
俺は最後のフレーズを心持強調する。深い意味があるわけではない。誘導尋問には引っかからないぞ、という牽制である。
「じゃあ、包丁を見せて『これはカッターナイフである』という暗示は、前者と後者、どちらに属しますか?」
「それだと、前者ですね」
これは質問の体を取っているが、実際のところ質問ではないのだろう。護国寺は俺の答えを待つまでも無く、自分の考えを確かに持っているに違いない。俺がここで嘘をついたところで、護国寺の持つ疑惑を強めるだけ。つまり、少々癪だが、護国寺の作ったこの流れに従う以外にないわけだ。
「同じく包丁を見せて、『これで自らの首を傷つけることは楽しいことである』という暗示、これはどうでしょう」
「そうなると後者です」
「では、包丁を見せて、『これはバナナである』という暗示はどうでしょう?」
「……それだと、前者寄りではあります。が、包丁とバナナはあまりにもかけ離れたものですから、多少は難しくなります」
「でも、例えば自殺を促すほどには、難しくないでしょう?」
「そうですね。それなりの技量のある催眠術師ならば、困難ではない」
「そうですか。では、その時点で包丁は被術者にとって、包丁ではなくバナナとなりますよね。その『バナナ』を、被術者に、食べさせることは可能でしょうか?」
「怪我した時点で、『何かがおかしい』と気付くはずですね。深い催眠中ならば、夢を見ているようなもので、多少の不自然は見過ごされますが、それでも激しい痛みのような明確な違和感を与えると、流石に暗示は解けてしまいます」
「逆に言うと、怪我さえ避けることが出来れば、口まで運ばせることが可能?」
「そうだと思います」
「日下部さんには、それが出来ますか?」
「さぁ、どうでしょう」
「出来るのですね」
「恐らくは、ね」
「そうですか」
護国寺は首を曲げ、天を仰いだ。
「そうですか」もう一度呟いた。
俺も、ずっと座りっぱなしで少し腰が痛くなったので、立ち上がってコーヒーカップを片付けることにする。
2つのカップを流し台に置いたところで、護国寺が後ろで呟いた。
「例えば天井にぶら下がった紐。その先には輪がついている。
そこで暗示を掛ける『これはネックレスだよ、ハニー、君へのプレゼントなんだ』。しかしその輪は彼女の背よりも高い位置にあった。
『届かないわ。ダーリン』『じゃあ、そこにある椅子を使えばいいよ、ハニー』。
それは冷静に考えればおかしな事態ではあるが、催眠中の彼女はその違和感を脳内で補正してしまう。
『届いたわ、ダーリン』『ハニー。首にかけて御覧、きっと似合うから』『どうかしら、ダーリン』『凄く似合うよ。僕の元へ、飛び降りておいで、可愛い、ハニー』『愛しているわ、ダーリン』。
彼女は椅子から飛び降り、恋人に抱きつこうとする。突如締まる首。漸く気付く。これは異常だと。
しかし、時、既に、遅し」
俺は護国寺に背を向けたまま、カップを水ですすぐ。
男女の台詞の部分では、必要以上にわざとらしいフレーズを、抑揚の無い声で淡々と喋る。
やる気のない学芸会みたいで滑稽であったが、俺は笑わなかった。
否。笑えなかった。
護国寺の一人芝居は、多少の違いこそあれど、概ね、あの時の俺の行動と重なるからだ。
いかに優れた探偵と言えど、言語的思考だけであそこまで具体的に事実を言い当てることが出来るとは、思えなかった。
俺は確信した。
こいつは、何かしらの物的証拠を……掴んでいる?
具体的には、どのようなものだろう?
例えば、ミノリの家から俺の指紋や毛髪が出ること、それは何も不自然では無いのだ。
俺とミノリは恋人同士だった。指紋が出ないほうが不自然である。
唯一気をつけたのは、彼女を縊り殺した、……否、彼女が首を吊った、あのビニル紐だ。あのビニル紐にだけは、指紋を残さぬように注意を払った。アレから俺の指紋が検出されることは有り得ない。
では……、では、どんな証拠を掴んでいるというのか。
あるいは、証拠なんて何もありゃしない。先ほど疲労した一人芝居は、まったくの当てずっぽうで、俺の行動と重なったのは単なる偶然、……なのだろう、か。
「日下部さん、どうしましたか? 先ほどから、水が出しっぱなしですよ? 例えて言うならば、『自分が捕まるはずが無いと信じきっていた殺人犯が突然自らの犯行を言い当てられた』みたいな、そんな放心状態じゃありませんか」
「護国寺さん」日下部久志は「あんた、」麻上ミノリを「なんの根拠があって、俺が」殺した「犯人であると確信している」のだろうか?「のですか?」
落ち着け、
大丈夫、
何を恐れる。
俺は
殺人犯ではない、
ミノリの、
死は、
自殺だ。
だってそうだろう、
警察ですら、
そう結論付けたのだから、
それが一番、
妥当な事実な筈で、
こんな、
得体の知れない探偵風情が、
真実に辿り着けるわけが、
ない……、
「根拠ですか。そうですね、それを説明しないと、日下部さんも納得していただけないことでしょう」
下らないブラフを。
証拠など、
あるはずが、
ないのだ。
「麻上ミノリさんの御自宅は……、ストーカに盗撮されていたのですよ」
「……盗撮だって?」
「はい。彼女の恋人であった日下部さんにこんなことをいうのも、なんなのですが、彼女は人気のあるアイドルでしたからね。ストーカの一人や二人、いてもおかしくないと思いませんか? 彼女から、そういう悩みを打ち明けられたことは、ありませんでしたか?」
確かに聞かされたことがあった。熱狂的過ぎて、気味の悪いファンの話。
だが俺は、精々、ディープな内容のファンレターを送りつけてくる程度だろうと、高を括っていたのだ。
「小型カメラは、麻上さんの自宅のテレビのスピーカーの中に仕掛けられおりました。巧妙に仕掛けてあって、電源をテレビと共有している為、バッテリー切れの心配もありません。カメラの映像は、無線で飛ばされ、そのストーカの自宅のモニターで受像できるようになっている」
「見ていたのか……? ずっと……」
「彼がいつものようにソレを受像した時、モニターに写っていたのは、貴方の胸に顔を埋める麻上さんと、彼女の頭を抱き締めて耳元でなにやら囁いている貴方でした。
その時の彼の心境は彼にしか分かりませんが、恐らく嫉妬と羨望で高揚し、モニターに釘付けになったことでしょう。
貴方が暫く彼女の耳に囁き続けると、彼女は徐々に脱力するように、グッタリとなったらしいです。
ストーカの彼も、テレビに出演経験のある貴方の事は知っていましたから、ああこれは催眠術を掛けているのだなと想像がついた。
グッタリした彼女を貴方はソファに寝かせると、何処に用意してあったのか、ビニル製の紐をカーテンレールに掛けたそうですね。
そして彼女を起こす。目を醒ました彼女は、どこか虚ろな表情をしていたらしいです。
そして、貴方は彼女に向かってなにやら話します。彼のセットしたカメラでは、飽くまでも映像だけしか受信できないので、具体的に貴方が何を言ったのかは分からなかったそうです。
だけれども、貴方の言葉に従うようにして、彼女は首を吊った。一部始終、彼は見ていた。
しかしながら、彼としてもこの記録を警察に持ち込むわけには行きませんでした。
彼自身の盗撮行為が露呈することになりますからね。
かといって、このまま自分の裡に仕舞い込んでおくことも出来なかったのでしょう。
彼は、彼女の近しい方、この方が依頼人なので具体的に名前は出せませんがAさんとしておきましょう、Aさんに手紙という形で情報を与えました。無論、匿名で。
Aさんは、半信半疑でした。麻上さんが自殺すること、それもまた有り得ることだと考えていたからです。
しかし、日下部という男に、何かしらの胡散臭さを感じるのも事実。怒らないで下さいね。これ、Aさんの話ですから。
ただ、匿名の密告があったからという程度では、警察は取り合ってはくれません。ましてや、既に自殺として片付いている事件ですからね。警察も済んだ事件を蒸し返すことは嫌う。
そんなわけで、僕の元に依頼が転がり込んだのです。
僕はここへ来る前に、警察に一つ質問をして来ました。一応、警察関係者に知人がいるものでね、そいつを通せば、僕如き一介の探偵の言葉でも、全くの無視はされない。
僕がお願いした事は、麻上さんが首を吊った紐の上部、カーテンレール側の結び目付近から、彼女以外の指紋は出なかったか? ということです。
俺の指紋が出るはずは無い、という顔をしていますね。その通り、貴方の指紋は出ていない。
そして、彼女の指紋も。
おかしいと思いませんか? 彼女は手袋をして死んでいるわけではない。現に、首を通す輪の部分には、彼女のものとされている指紋が沢山検出されています。しかし、カーテンレールの結び目付近からは、誰の指紋も出てきていない。では、誰が結んだのか。
少なくとも、彼女が結んだのであれば、指紋を隠す必要なんて、ありませんよね。
警察も、そのことに不自然さを感じてはいましたが、しかし結局は自殺で片がついた。
そして、一度片がついてしまったら、その答えは、なかなか覆らない。なかなか、ね」
「紐の件だけでは、不完全じゃないか。俺が彼女を殺したという、決定的な証拠には、ならない」
額から汗が流れるのが分かる。最早、悪足掻きだった。
「実はね、証拠は、これだけではないのですよ」椅子から立ち上がって、護国寺は腕を組んだ。「ストーカの彼がね、映像をビデオに納めていたとしたらどうでしょう。……っふふ、けしからんことですね」
「最悪だなぁ、おい」俺はとうとう噴き出した。「そんなの、アリですか」
「彼にとっては、覗き見行為はこの上ない娯楽だった。彼にしか見ることの出来ない光景。貴重な映像の貴重なシーンを記録に残したいと考えるのは、寧ろ自然と言えるのではないでしょうか?」
「なるほど……。無様ですね」
「貴方の行為が『殺人』として扱われるのか、それは僕には分かりません。ただ、少なくとも偽証罪と自殺幇助、これは確かですね。まあ、そこから先は僕のテリトリーではない」
「ストーカは、ミノリがテレビを買った電器屋の店員だな? だって、隠しカメラはテレビの中に仕掛けられていたのだろう? 電源を共有? そんなの、留守中に忍び込んで、チョコチョコっと設置できる仕掛けじゃないだろう? 最低な野郎だな。早くそのストーカ野郎を逮捕したほうが良い」
「それは、貴方の罪とはまた別の問題ですが、まあご名答と言っておきましょう……。あの、一応訊きますが、貴方、どうして彼女を殺したのですか?」
「殺した理由か? そうだなぁ。理由は一つじゃないさ。色々な原因が絡まりあって、一つの結果が生まれる。その原因の一つに、『催眠術で人を殺せるか、試してみたかった』というのがあるが、その原因がなかったところで、同じ結果が生まれたかもしれない。今となっては、どうとも言えない。確かなのは、俺が彼女を殺したということだけだ」
護国寺は口を噤んだ。若干、憐憫の含まれた微笑を見せると、内ポケットから細長い機械を取り出した。
「小型マイクと送信機。今の発言、録音させていただきましたよ」
「何?」
「ストーカの彼ね、ビデオなんて、撮って無いんですよ。いえ、盗撮を始めたことは録画していたそうですが、何しろ量が膨大になりますからね。録画行為はすぐに止めてしまって、リアルタイムで眺めることに没頭し始めた」
「記録が、無い? じゃあ、証拠は……」
「証拠は、たった今、頂きました。ここでの会話は、電波で飛ばされて、僕の事務所のパソコンに録音されています」
「そんなの盗聴みたいなもんじゃないか。どいつもこいつも、モラルがないな」
「すみませんね。探偵って、決してクリーンな仕事じゃないもんで。正直、賭けでしたよ。最後の最後まで、貴方が『自分はやっていない』と言い切っていれば、証拠を押さえることも出来なかったわけですから」
「俺は、まんまと引っ掛かったわけか」
「そうですね。まあ、実のところ、この音声データに、証拠として決定的な力があるのかどうかはませんけどね。あとは警察が動いてくれることでしょう。僕の仕事はここまでです」
「こんな間抜けな話が他にあるかと思うよ」
「嘘をついて、申し訳ありませんでした」
俺は大笑いした。
証拠なんて無かった。
そうなのだ。考えてみれば、当然ではないか。
明確な証拠があり、護国寺の依頼人とやらがそれを手にしているのならば、そもそも護国寺が動く必要も無い。そのまま警察へ持ち込めば良いのだから。匿名の密告人がいたという程度では、過去の事件に対して警察はアクションを起こさないかもしれないが、証拠品としてビデオがあるなら話は別な筈なのだ。
すべては、俺の言質をとるための段取りだった。それだけの為に、護国寺は訪れた。
かくして、言葉で幻惑し、人を殺した男が、言葉で幻惑され、破滅したわけである。