悪役令嬢の婚約者が映す世界
設定が甘めな部分があるとは思いますがご容赦ください。
『ほら、お兄ちゃんの瞳にわたしを映して。ね?お兄ちゃんのなかにちゃんとわたしはいるわ』
あれ、おかしいな。と私が気付いたのは5歳の時である。
私は転生者だ。
前世では中学生の時に死んだ。詳しいことは覚えてない。けれどここがとある乙女ゲームの世界で、私がとある公爵令息の婚約者であるレイチェル・フリージアで、いずれ出会うヒロインとの恋に落ちた婚約者から婚約破棄されることだけは理解した。
その婚約者についてだが、金色と青色の瞳をしたオッドアイの持ち主ということしか情報がない。
逆に言えば、それ以外のことは覚えていない。
例えば、婚約者同士の仲はどうだったか、婚約破棄された後に私はどうなるのか、そもそもレイチェル・フリージアはどんな性格だったのか。
必要な情報がないことに自分が転生者であることに気付いた時は動揺したが、なるようになるしかないという楽観的な考えから、まあ一応死刑はさすがにないだろうから身分剥奪の可能性を一番悪い結果かなと考えて貴族の教育としての傍ら密かに平民として生活もできるように勉強を始めた。
そして、その婚約者に会ったのは私が7歳の時である。
3つ歳上のお兄様のご友人として来るらしい。それが私と彼との顔合わせを兼ねているのだと、父親の話を聞きながら考えていた。
武官として古くから国に仕えている我が伯爵家と始まりは王族の血筋の公爵家ではいかにも政略結婚に相応しい。この時、なるほどこの二人は政略結婚だったのね、と理解したのである。
客間でご友人が来るのをお兄様と待っていた際に、お兄様から真剣な表情で注意された。
「彼は同い年でね、珍しいオッドアイの持ち主なんだ。だからその・・・幼い頃から周りの人間に好奇心の目で見られることが多くて、謂れの無い謗りを受けたこともあるんだ。レイがそんなことをするとは思わないけれど、どうかあまり話題にはしないでくれ」
「わかったわ」
なるほど。オッドアイと知って私はとても楽しみにしていたけれど、生まれた時から良くも悪くも注目されてきた子供にとっては辟易する以外の何物でもないだろう。
彼の前ではなるべく気を付けよう。
妹の素直な返事にほっと安堵したように顔を緩めたお兄様は、トントンと叩かれた扉にどうぞと立ち上がった。私も同じく立ち上がる。
入ってきたのはお父様とウィステリア公爵とその息子であるカインハルト。
美しい柔らかな金髪に日の光でキラキラ輝く金色と青色の瞳。
きれい。なんだこの人間は。さすが乙女ゲームの世界。
しかし、お兄様に言われた手前見とれるわけにはいかない。
あちらからの自己紹介を聞きながら不自然にならない様に彼の、カインハルトの様子を探る。
まだ10歳で子供らしさが残っていてもおかしくはないのに、すでにこの世を締観したような感じを漂わせている。お兄様のご友人であるらしいが、あまり仲の良い素振りも見せない。
そんなこんなで子供たちで遊んでおいで、と父親たちに庭園に放り出されてしまった。
私はお兄様と手を繋いでおり、その右にカインハルト様が並んでいる。お兄様は庭園についてお話されているが、カインハルト様はあまり興味がないのか時折頷くだけだ。
それにしても、綺麗だなー。
先程は室内だったが、今は太陽の下だ。
オッドアイはまるで宝石のように煌めいている。というか、宝石を埋め込んだみたいだ。
「あ!」
思わず声を上げてしまった。
「レイチェル?どうしたんだい?」
お兄様が不思議そうに問い掛ける。
カインハルト様を1度見て、これ大丈夫だっけ?と思いながらおずおずと指を指す。
自慢じゃないが、フリージア伯爵家の庭園は様々な花が咲き誇っていて年中何かを楽しめる。
そして今はその季節ということで、ウィステリア・・・藤の花が咲いていた。昨日はまだ蕾だったから、今日には咲いているのかなと心に残っていたのだ。
「ウィステリアが綺麗に咲いていますわ」
「ああ、本当だ。ということは、今のウィステリア公爵領では所々で咲き誇っているだろうね。レイチェルは知ってるかい?ウィステリアの花言葉には」
「歓迎、という意味があるのでしょ。だから、この時期にはウィステリア公爵領には多くの貴族がいらっしゃるのです」
「我が姫は物知りだね」
よく出来ましたとお兄様が私の頭を撫でる。
お兄様がこの先ゲームの登場人物として関わってくるのか知らないが、兄妹仲は至って良好だ。伯爵家も堅実であるから、やはり死罪とか投獄のエンドにはならないかなと思っている。
そんな私たちを横目に、カインハルト様はウィステリアを見ながらぽつりと呟いた。
「歓迎なんて・・・俺は誰にも歓迎されてないじゃないか」
それまで嬉しい気持ちになっていた私は驚いて彼を見上げた。
さっきまで宝石のようだった瞳は今はまるで無機質のようだった。光を受け付けていないそれは、 この世界のどんな存在も存在していないように思えた。
思わず彼の両手を引っ張って私と目線を合わせる。
突然のことに驚いて困惑したような彼は地面に膝が着いた態勢になった。
今度は彼の両頬を挟み込んで、顔を近付ける。その金色と青色の瞳にそれぞれ私が映っていることを確認して口を開いた。
「ほら、お兄ちゃんの瞳に私を映して。・・・ね?お兄ちゃんの中にちゃんと私がいるわ」
ついでとばかりに柔らかかったのでその両頬を少しばかりつねってから笑った。
「頬が柔らかいからつねっちゃった。ごめんなさい」
勝手にしたことを謝って手を離そうとすると、手を重ねられて私の手はまた彼の頬へと逆戻りした。
「カインハルト様?」
どうしたのだろう?
カインハルト様は目を伏せて苦しそうに息を吐いた。
あれ?私が力任せに引っ張ったせい?実はカインハルト様って病弱設定でもあるの?
「あ、あのっ」
「レイチェル嬢」
「え、あっ、はい!」
途端に、ふっとカインハルト様が笑った。
思わず目を見開く。
なんて破壊力抜群な微笑み。爆弾だわ。近くにいた侍女が黄色い歓声をあげて倒れた。私も倒れたい。
彼の瞳は真っ直ぐ私を見ていて、その瞳はまるで私を誘惑するように輝いている。
そんな目で見られたら胸も高鳴る。
「貴女は私の世界です、愛しい人。どうか私が貴女の唯一の婚約者になることをお許し願えますか?」
「・・・・あ、はい」
熱に浮かされたようなとはこのことか。
どこか他人事のように、彼が私の手を掴み直して指先に口付けるのを見ていた。
そして、婚約者となった彼が私をお姫様抱っこしたことで、私のその日の記憶はそこで止まっている。
後からお兄様から聞いた話では、制止するお兄様を振り切って私をお姫様抱っこで父様たちがいる部屋に戻ったカインハルト様は驚く大人二人を無視して、これから婚約者としてよろしくお願いしますと言い放ったらしい。
いや、確かに顔合わせだったけれども。
父様たちは私たちが庭園を散歩している間に、私とカインハルト様について案じていたらしい。私はともかくもカインハルト様が婚約者に心を許すのか、いやそれを願ってはいるのだが不安だ・・・・と。
それが突然カインハルト様は私をお姫様抱っこしているし、最近見ることのなかった笑顔を浮かべている。
お兄様からカインハルト様の言葉を聞いた父親二人は、先程までの心配とは一転してこれは間違いないとして婚約話を進めた。
ということで、私とカインハルト様は婚約者となった。
詳細は知らなかったが、レイチェルとカインハルトの婚約はこのような内容だったのか。
あれからカインハルト様はよく伯爵家にやって来る。3日に1度くらい。来すぎではないかと思うのだけど、カインハルト様は色々な話を楽しくしてくれるし、笑ってくれることも多くて私も嬉しい。
あ、カインハルト様のこと好きだ。
そう気付くのも早かった。恋に落ちない訳がなかった。
けれど、ここは乙女ゲームの世界。
学園に入ったら、カインハルト様はいずれヒロインと出会って恋に落ちて私は婚約破棄されるのだ。
それまでどんな関係だったのかはわからないが・・・、今の私に出来ることはしようと決意した。幸いカインハルト様から悪い感情は持たれていないような気がする。多分。内心ではどう思っているのかわからないけど政略結婚だし、たまにお姫様抱っことか膝に座らせてくれたり、よく抱き締めてもくれて、あの瞳に私を映してくれることも多いから今は大丈夫なはず!
そんなわけで、私はカインハルト様に見合うべくこれまで以上に勉強を頑張り、素直にカインハルト様に想いを伝えよう計画を実施することにした。
「お兄様!私ね、カインハルト様にずっと見てもらえるように頑張るから何か悪いとこがあったらすぐに言ってね!」
「・・・そうだね」
何故か生温い目で見られたが恋する女の子は強いのだ。
*
そんなこんなで8年が経った。
学園に入った私は伯爵令嬢として、なによりカインハルト様の婚約者として恥ずかしくないくらいには成長していた。はずである。
お兄様とカインハルト様はあの日から仲を深め、今では公私ともに親友と呼べるほどの仲になった。お兄様は騎士団に入って、今は王太子である第一王子とも親交ができたらしい。カインハルト様もウィステリア公爵が宰相であるから、王太子に付いて公務を手伝っているらしい。
カインハルト様と会える機会は少なくなったけれど、お手紙は時折届くし、贈り物もしてくれる。
入学式の時には家に迎えに来てくれ、兄と共に学園に行った。
カインハルト様に嫌われることなく、良好な関係を築けているはずだ。
だけど、最近、とある子爵令嬢がよく王太子様やカインハルト様の近くにいるらしい。
ヒロインかもしれない。
カインハルト様・・・・・。
「元気がないわ、レイチェル。どうしたの?」
食堂で一緒にランチをしているローズから心配げに聞かれる。
また気付かないうちにため息をついてしまったのだ。
「ちょっとねー・・・心配なことが」
「あ、もしかして、今噂になってること?」
「うん・・・。ローズは不安じゃない?」
ローズは同い年で公爵令嬢であり、王太子の婚約者だ。
「それは、もちろん不安だけど・・・。でも、私は殿下を信じてるから・・・」
こちらがきゅんとするぐらいに可愛くはにかんだローズ。
思わずまたため息をついてしまった。
「ローズは殿下にこれでもかっていうくら愛されてるものね。だってローズは可愛いし、淑女の中の淑女だし、所作だって誰より綺麗だし、時折見せる気が緩んだ笑顔は誰もが虜になるくらい可愛いからこれで殿下が誰かに目移りするなんてことあったらきっと殿下の目が腐ったのだと思うわ」
「・・・レイチェル。嬉しいけど、殿下に失礼だわ」
ほら、真っ赤な顔のローズは本当に可愛い。
「あら、本当のことだわ。それに比べて私は至って普通だから勉強面でしか頑張れないわ。政略結婚だからカインハルト様に・・・好きな人が出来たら婚約破棄されるもの」
「えー・・・、そうかしら?」
「そうよ!それにカインハルト様は優しいわ!ただの婚約者の私をいつも大切に扱ってくださってあの瞳に私を映してくれるの!とっても綺麗な瞳なのよ!私ね、カインハルト様の瞳の中に私が映っているのを見るとまだカインハルト様の世界に私は存在してるんだなって安心するの」
「心から安心していいと思うのだけど」
「私ね、いつも澄んでいてこの世の何よりも美しいカインハルト様の瞳が濁ってしまうことがあれば、絶対に容赦しないわ。時々お兄様に剣の稽古をつけてもらってるから、私の成せる全力で倒すわ」
「・・・頑張って」
ローズからは生温い目で見られたが、私は本気だ。
カインハルト様の瞳を、カインハルト様自身を傷付けることは許さない。例え、それが誰であろうとも。
だから、私は不安ではあるがきちんと覚悟を決めている。
「愛しいレイチェル。どうか君の瞳に俺を映して」
髪を軽く触れられた感覚に後ろを振り向くと同時に言葉が聞こえた。
「カインハルト様!」
そこには見とれるほどに美しい笑みを称えた婚約者がいた。
「久しぶりだね、レイ。ごめんね。色々と忙しくて最近会えなかったから寂しかったよ」
カインハルト様はそう言いながら私の隣の席に着いた。
王太子様とお兄様もいらっしゃって、王太子様は真っ赤な顔で喜ぶローズの隣に、お兄様は王太子様の横に座った。
「いいえ、カインハルト様。生徒会が忙しいのは存じておりますから私は大丈夫ですわ。けれど久々にお会いできてとても嬉しいです。こうしてまたカインハルト様の瞳に映してもらえるなんて夢の様です」
カインハルト様は口元を緩めて私を見てくれている。
それだけで嬉しい。
「そう・・・。でも決して夢ではないよ、これは現実だから今この瞬間も俺がレイを愛していることを忘れないで」
「・・・ふふ、ありがとうございます。」
照れるな。
宰相様の息子だからかカインハルト様はいつの間にか口が上手くなった。こうして女性が好きな言葉をいつも囁いてくれるのだ。
同時に頬を撫でられたり、髪を触られたら恥ずかしくて自分でもわかるほどに顔を赤くして俯いてしまう。
でも、そうするといつも顎を軽く持ち上げられて目線を強引に合わせてくる。意地悪げな微笑みは私を弄んでいるのだとわかる。
「おい、俺達も是非視界に入れてくれ」
王太子様の呆れた声にはっと我に返ってお兄様を見てしまった。
周りが見えていないなんて、淑女としてあるまじき行為。恥ずかしい。
お兄様は咎めるような目はしていなかったけれど、苦々しい表情でカインハルト様を見ていて私の視線に気づくと安心させるように笑ってくれた。
「ローズ、私も申し訳ない。あと少しで片が付くからそれまで待っていてもらえないだろうか?」
王太子様はローズの手を掴んで口付けた。
一瞬で真っ赤になったローズはこくこくと首を縦に振った。
「かわいいなぁ」
「レイの方が世界で一番かわいいよ。俺のレイチェル」
「ローズの方がかわいいわ」
「いいや?俺の世界ではレイチェルが一番可愛くて綺麗な女性だよ」
「私は至って普通です。そんなこと言ってくれるのは婚約者のカインハルト様だけですよ」
ヒロインと思わしき子爵令嬢を何度か見かけたことがある。
ローズには到底及ばないとはいえ、パステルピンクの髪にそれより色素の薄い瞳、少しタレ目で庇護欲をそそられそうな感じの令嬢だった。これが乙女ゲームのヒロインか、と妙に納得してしまった。
カインハルト様は今や社交界の注目の的だ。
レイチェル・フリージアという婚約者がいることは皆が知っているが、それでもお近づきになりたいというご令嬢が跡を絶たないことを知っている。
彼のオッドアイは月日と共に輝きを増していて誰もが魅力されるのだ。
けど、そんな中で、カインハルト様はヒロインと恋に落ちてしまうのだろう。
今はまだ会おうと思えば会えて触れようと思えば触れることのできる距離にいるカインハルト様が、いつかいなくなってしまう。
こんな哀しいことがあるなんて。
それを考えるといつも気持ちが暗くなってしまう。
「レイ?」
「・・・カイン様」
「・・・どうしたんだい?」
弱々しくなってしまった声にカインハルト様が手を握りながら心配そうに見つめてくる。
そのオッドアイの瞳に私が映っていることを確認して、安心した。
「私はカイン様の幸せをいつまでも願っておりますわ」
*
あれ、おかしいな。
と私が気付いたのは、足が床を離れて体が宙に舞った時。
私の視界に映っているのは、かわいらしい容姿からは想像できないくらいに意地悪げな笑みを浮かべたヒロイン。
2階のバルコニーでローズとおしゃべりをしていたら突然現れたヒロインさん。憎々しげに睨んだ先にいたのは私だったのかローズだったのか。
けど、ヒロインさんが思い切り体当たりをしそうな体勢で突っ込んできたから思わずローズを押し退けて、その体当たりを真正面から受けて木で出来ていた柵はあっさり壊れて私は今落ちている。
あれ?おかしいな。
私はヒロインと何の関係もしてないぞ。
「レイチェル!!」
ローズの叫び声が聞こえる。
背中から落ちていく感覚に恐怖を覚え、ぎゅっと目を瞑って体を丸めて衝撃に備える。
骨折は絶対するな。助かるかな?
死ぬのかな。
え?ここで?婚約破棄までいかずにまさかこれが乙女ゲームのイベントの1つにあるの?
カインハルト様、私、最期に貴方の世界の中で死にたいわ。
予想していた衝撃がいつまでも来ず、その代わりに誰かが私の体を受け止めて息苦しいくらいに力強く抱き締めて、レイチェルと呼んでくれた。
「どうか君の瞳に俺を映してくれ」
初めて聞いた泣きそうな弱々しい声に顔をゆっくりあげ、彼の金色と青色の瞳に私が映っていることに安堵して、嗚呼最期の願いは叶ったんだなと私は笑みを浮かべながら瞳を閉じた。
*
人が恋に落ちる瞬間を見たことがある。
いや、決して冗談でも思い違いでもない。
彼は確かに僕の妹に恋に落ちた。
いや、恋に落ちたという表現の方が間違っているのかもしれない。
『ほら、お兄ちゃんの瞳に私を映して。ね?お兄ちゃんの中にちゃんと私がいるわ』
あの瞬間、彼の世界に暗闇を落とし続けていた有象無象は全員跡形となく消え去って、レイチェルしか存在しなくなったのだ。
友人と言えるほど仲良くもなかったカインハルトとはあれから幾度となく屋敷で顔を合わせ、ついでに仲を深めろとばかりに3人で会うことも多く、今までの彼はどこにいったのかと恐怖するほどに笑顔を浮かべて妹と遊び、こちらが止めてくれと口を塞ぎたくなるほどに甘すぎる言葉を吐きまくる彼の世界にはレイチェルしか必要とされていない。
カインハルトとレイチェルの近くにいると1日で嫌になる。耐えられないのだ。それを数年間も近くで聞いていれば精神力も相応に鍛えられるというものだ。
けどそんなカインハルトの執着的な愛も妹のレイチェルにとっては頬を染めるだけのものらしい。彼女は少し鈍いのだ。そう、・・・少しというか結構鈍い。
というか、カインハルト様に見てもらえるように頑張ると意気込んでいた時はもうこれ以上はよしてくれと言いそうになった。
レイチェルが彼女なりに素直に想いを伝えるようになってカインハルトは更に抑えが利かなくなった。レイチェルは気付いていないが、2人だけにしたら絶対に危なかった、貞操が。
未だカインハルトに十二分に愛されていると思っていないむしろ政略結婚だと思っているレイチェルが学園に通うことになる前年のことだ。
同じく婚約者を溺愛する王太子が影で動いて学園の闇を一掃した。表だって彼らの名前は出なかったが、それまで良くない評判だった生徒たちは一様に領に帰っていった。
そもそもの原因はレイチェルの一言だ。
学園が休みの日は必ず伯爵家に来ていたカインハルトはそれでも足りないと言って客間に泊まるという日々が週末の日常と課していた。
『学園かー・・・。不安だなー』
例のごとく3人でお茶をしている時に、レイチェルも来年は学園に入るから毎日会えるねとカインハルトが言った後。
嬉しそうにしながらも自分の世界に入った
レイチェルはぽつりと呟いた。
完全な独り言を、例のごとくレイチェルを一瞬すら逃さずに自分の世界に収めていたカインハルトは聞き逃さなかった。
『何が不安なんだい?』
心なしか、背筋が寒くなったのは気のせいじゃない。
レイチェルはカインハルトをちらりと見ると、困ったように微笑んだ。
『色々、かな?』
レイチェルなりの誤魔化し方だ。
『そっか』
それを見破れないカインハルトではない。
しかし、その誤魔化し方はレイチェルがこれ以上は言わないということもわかっていたから話題を変えて二人は逢瀬を楽しんでいた。
その次の日だ。いや、もう夕方には動いていたのかもしれない。
ともかく翌日には話をいつの間にか話を通していた王太子と話し合い、作戦を練り、彼らの婚約者にとって害になるであろう人物たちを学園から消し去った。勿論、僕も手伝わされたのは言うまでもない。
婚約者を溺愛する2人に近付く人間はほぼいなくなった。
そんな2人にもまさかの存在が現れた。
レイチェルと同じ年に入学したとある子爵令嬢である。
その令嬢は確かに見るものの目を引く容姿をしていたがただそれだけで中身はお世辞にも良いとは言えなかった。無礼にも高位貴族に馴れ馴れしい態度で接し、婚約者のいる彼らを誘惑してきた。
勿論、王太子とカインハルトと僕は無視したが。
レイチェルは彼女が視界に入る時、いつもその目は揺れて不安そうな顔をする。それに気付かない兄でもないし、ましてやカインハルトは機嫌が悪くなる一方でもう物理的に始末したいと溢していた。
それを抑えてあともう少しで、という時だった。
『レイ・・・?』
隣を歩いていたはずのカインハルトがどこかにものすごい速さで走っていく。
何事かと王太子と顔を見合わせて走っていく先を見ると、2階のバルコニーにいたレイチェルと子爵令嬢が対峙していた。対峙していたではなく、気付いた時には子爵令嬢がレイチェルをバルコニーから落としていた。
顔を真っ青にして急いでその場に向かう。
バルコニーにはローズ嬢もいてまだ無事な柵にしがみついて、カインハルトに助けられたレイチェルの無事を泣きながら確認していた。王太子はすぐに駆け上がったのかローズ嬢を安全な場所まで連れて行った。
カインハルトの腕の中にいるレイチェルの無事を確認する。気絶している妹に傷一つないことに安堵し、落ちた場所を確認する。
『許さない』
ぞくりと背筋が凍る。
その日、カインハルトと共にレイチェルを屋敷に連れて帰り、あんなことがあったのにレイチェルはあっけらかんとしていて逆に軽い怒りを覚えたものだ。落ちちゃった、じゃない!もしカインハルトが間に合わなかったら最悪死んでいたのだ。当然、カインハルトも怒った。静かに黒い空気を纏って伯爵家のはずなのに誰も近付けさせずに1日中妹の私室に閉じ籠られた兄としては・・・複雑だ。首筋の赤い跡はどうか目が疲れているだけだったと思いたい。
その後、休養として1週間休んだ。その間、勿論カインハルトはずっと付き添っていたし、王太子とローズ嬢もお見舞いに来た。
体当たりされた際にローズ嬢を突き飛ばしたレイチェルは、ローズ嬢と王太子からもとても感謝された。後日、王家から礼状と贈り物が届いた。
とある子爵家がお家取り潰しのうえ国外追放となったと聞いたのは、レイチェルがバルコニーから落とされた2日後のこと。もしまたこの国で見かけるようなことがあればその場で殺されることになるだろう、と言われたとか言われてないとか。
「レイチェル。君の瞳に俺を映して」
軽く触れる首を傾げてレイチェルの瞳に映り込むカインハルト。
映してといいながら映り込みに行って、レイチェルが他のものを映さないように視界一杯になるまで顔を近付けている。
レイチェルは顔を真っ赤にしながらもうれしそうにカインハルトを見ていた。
きっと彼らの瞳には、カインハルトとレイチェルしか存在しない。
「ね?愛しい君は俺の世界の全てなんだ。俺の唯一の愛しい愛しいレイチェル。君を一生、この命が滅んでも愛し続けると誓うよ。どんな危険からも君を守り、溢れんばかりの幸せをレイチェルに捧げる。どうか、レイチェルの世界の一部に俺を取り込んで?」
そう言って、カインハルトはレイチェルの左手薬指に指輪を嵌めた。
まさかこれはプロポーズなのか!?
僕は周りの大人達同様に言葉をなくし、ローズ嬢は目を輝かせて拍手しているし、王太子は素晴らしいなと言いたげにうんうんと頷いている。
はめられた指輪を見つめたレイチェルはその視線をカインハルトに戻した。
カインハルトの世界にはレイチェルしか存在しない。
けれど、きっとレイチェルの世界も似たようなものなのだろう。
早く誰か良い子と出会えないかな。
未だ婚約者のいない僕は独り身だ。