冬音
「俺達の実子は冬音だけなんだぞ!」
入院すると決まった日。父の怒鳴り声が冬音の部屋まで響いていた。
もう寝ていると思って油断していたのだろう。
その言葉は、発作で目を覚ましていた冬音の心にしかと刻みつけられた。
実子。その文字を辞書で引く。実の子供。
では、冬音が兄と呼んでいたあの存在はなんだ?
兄では、ない。
その実感は、冬音を不安がらせるどころか、安堵させた。
兄と結婚すればいつまでも一緒にいられる。一緒に遊べる。それが、冬音を安堵させた。
だから、長い入院生活へ向かうその日、冬音は優助を庭に呼び出した。
雪の降る日で、地面を踏むと冬の音がした。
「……長くなるのか?」
意気消沈したように優助は言う。
「わからないよ。先守の人間に稀にある奇病らしいから。期間はわからない」
「俺……」
優助は、拳を握りしめた。
「お前を守れるような人間になってみせるよ、絶対に」
「うん」
冬音は、優助の腕を引いた。
そして、唇と唇が重なる。
「約束だよ、優助」
愛が生まれた瞬間、になるはずだった。
五年に渡る入院生活を越えて、帰ってみればなんだろう。
兄は明日香という新参者と何でも屋などを嗜んでいる。
自分の時間を削って、冬音との時間も削って、他人のために奉仕している。
だから、冬音は当てつけのように優助を名前で呼ぶことを再びしなくなった。
避けられているのだろうか、とも少し思う。
突然の接吻は、避けられるには十分の理由だ。
しかも、それが妹からのものとなれば尚更。
なんとなく答えも出ずに、日々だけが過ぎていく。
わかることは、五年間の間に、兄は随分明日香と親しくなったということだ。
付かず離れず傍にいる。二年の間では夫婦扱いされているとかなんとか。
それらの情報全てが冬音を苛立たせる。
一体、あの他所者はなんなのだろうとすら思う。
その他所者と、何故か二人きりで夕食を待つことになった。
優助はいない。なにか、しているのかもしれない。
(夕飯までには帰って来てって言ったのに……)
苛立ちが胸に湧く。
「優助のせいで苛立っていると見た」
明日香が、飄々と口を開く。
図星な自分が面白くない。
「別に、優助のことなんて気にしてない」
「そのわりには毎日邪魔しに来る」
「あれは貴女がお兄を引っ張り回してるからで……」
「主導権は私にはない。優助にあるわ」
そして、明日香は薄く微笑む。
「それほど、私を敵にしたい?」
面白くない。見透かしたような相手の表情が、面白くない。
「敵と思ったことはないです。兄を誑かす悪魔だと思ったことはありますが」
こんな時に智子はなにをしているのだろう。母の手伝いだろう。
「ねえ、冬音。これは客観的な事実よ。優助は貴女を妹としか思っていないし、私を相棒としか思っていない」
当たり前の事実。だというのに、頭を殴られたようなショックを冬音が襲った。
「だから、優助は私でもなく貴女でもなくそこらを歩いている適当な女と恋に落ちて結婚するんだと思うわ」
冬音は反論しない。できない。
薄く張った夢の向こうに、そんな現実がぼやけて見えていたのは事実だからだ。
「だから敵視しないでほしいな。貴女もフラれる。私もフラれる。同病類憐れもうよ」
「私はお兄に恋なんかしてない」
「じゃあなんでそんなに固執しているの?」
「それは、兄が雑用係なんて耐えかねるだけ」
「下らない仕事は依頼しないように暗黙の了解ができあがってるよ。まあ、喧嘩の依頼は後を絶たないけどね」
明日香は、面白がるように言う。冬音は、面白くない。
「貴女こそ、兄に恋してるなら友達ポジションから棚ぼた狙いを辞めて玉砕すればいいのに」
「痛いの、嫌いなんだ」
明日香は、否定もせずに飄々としている。
手札を、見せきっている。
「フラれたらきっと痛い。受け入れられて、付き合ってみて、徐々にこれは違うなと実感していくのもきっと痛い」
明日香は頬杖をつき、憂鬱そうに窓の外に視線を向ける。
「だから、私は負けない位置に立ち続ける。例えそれが屈辱的なことでも」
「意外ね」
冬音は、呟くように言った。
「なにがさ」
「貴女のこと、脳天気なだけの馬鹿だと思ってた」
「ご理解いただけたようでなによりです」
明日香は、皮肉っぽくそう返した。
「貴女は、どうするの?」
明日香の問いに、冬音は硬直する。
「私は棚ぼたで付き合える可能性があるけど、これは違うと思うまでに多分大体のことは済ますよ。あれやこれや済ませちゃうよ」
「下品な……!」
「あんた、それでいいんだ?」
冬音は、口籠る。
明日香は、面白がるようにそれを見ている。
なにか、言い返さなくては。
「貴女にとって貞操ってそんなに軽いものなのね。最後には別れる相手でも簡単に捨てられるなんて」
「話をそらさないで。それでいいのか、って私は尋ねてるの」
「私は……私は……」
沈黙が漂う。
明日香に空間を支配されているようで面白くない。
「食事の用意ができましたあ」
智子のどこかのんびりとした声がする。
冬音は、胸を撫で下ろした。
ひとまず、この話題は先送りにできそうだった。
「……逃げてもいつかは追いついてくるよ、この問題は」
明日香は先を読んだように、何故か少し寂しげにそう言った。
+++
冬音はベッドに寝転がって、帰り道で出会った占い屋のことを思い出していた。
百発百中。
冬音しか知らないはずの、優助への恋心まで見抜いていた。
「貴女は、そのままでいいのですか?」
占い屋は、そう言った。
「あんた、それでいいんだ?」
明日香は、軽い調子でそう言った。
布団を抱きしめる。
眠れなくなってしまった。
なんとなく、優助の部屋を訪ねた。
ノックすると、部屋の中を照らす蛍光灯の光が眩しかった。
「いや、夕食に間に合わなかったのは悪かった」
兄は態度を固くする。恐れているように。
それが少し滑稽で、冬音は笑った。
「ちょっと眠れなくって」
「そうなのか?」
「昔みたいに、ちょっと話せないかなと思って」
「いいぞ。勉強しながらで良ければだけど」
「うん」
兄の部屋に入る。
兄の匂いがする。
ベッドに腰掛けて、椅子に座って机に向かう兄を見る。その、適度に引き締まった腕を見る。
あの腕に抱きしめられたなら、どんなに嬉しいだろうかと思う。
「明日のラーメン屋のバイトの話だけどさ。外せないんだ。悪いな。元のバイトの人が急病でシフトに穴が開いてるとかで」
雰囲気を壊すのがなんともこの兄らしい。
「そういう話がしたかったわけじゃないんだけど。てか夕飯までに終わるの? それ」
優助は返事をしない。
黙々と勉強している。
(終わらないんだな……)
冬音は深々と溜息を吐いた。
「昔の優助は、そんなお人好しじゃなかった」
「給料は出るんだぞ」
「私達、お金なんて、正月のお年玉で有り余ってるじゃない」
冬音は拗ねたように鼻を鳴らす。
優助は、再び反論の言葉を失ったようで、黙々と腕を動かし始める。
ムードもなにもあったものではない。ただの兄と妹の会話だ。
「入院なんてするんじゃなかったー」
そう言って、ベッドに倒れ込む。
「病気だから仕方あるまい」
「病気になんてなるんじゃなかった」
「なりたくてなるものじゃないだろう」
「そうなんだけどね。原因もまったく教えてもらえないし。踏んだり蹴ったりだわ」
「寂しかったぞ。お前がいない間」
「だから明日香と仲良くなったの?」
「なんでそこで明日香の話題になるかな」
「相棒、なんでしょう」
からかうように言う。胸が、小さく痛んだ。
「そうだな。あいつ以上の相棒は探しても見つからないだろう」
胸が強く締め付けられる。
明日香の言葉が脳裏に蘇る。
「だから、私は負けない位置に立ち続ける。例えそれが屈辱的なことでも」
自分は、それと同じ道でいいのか?
「優助は……」
「ん?」
「いや、特になにも考えずに喋ってた。忘れて」
ベッドが軋む音がした。
真横に、優助が座っていた。
(近い……)
顔が、一気に熱くなる。
「変だぞ、お前。なにか言いたいことがあるならはっきり言えばいいだろう。そのほうが、お前らしい」
そう言って、優助はベッドに手を置いて、冬音の上に覆いかぶさる。
(近い近い近い……)
何故か、泣きそうになる。嬉しくて、そして少し怖くて。
「優助は、の先はなんだ?」
「優助は……お嫁さんを誰にするの?」
「候補がいない」
誰も、他に立候補している人間がいない。
ならば、と、決意は固まった。
「いるでしょ? ここに」
「ん?」
唇と唇が重なった。
緊張と嬉しさと、少しの後悔で涙が一筋流れ落ちる。
「守ってくれるような男になるって、言った」
「いやいやいやいや、兄と妹でそれはまずいだろう」
「けど、優助は、そう言った。そう言ったのよ」
「皆を守れればと、そう思っているよ」
優助は、体を起こす。
「大人になるにつれて、世界は広くなった。そこで関わった皆を、俺は守りたい」
ここで、自分達の間に血縁はないと言えたらどれほど楽だっただろう。
それは、優助を傷つける一言だ。
「それじゃ、駄目かな?」
優助は、少し困ったように言う。
「それがお人好しだって言うのよ、お兄」
溜息を吐いて、冬音は立ち上がる。
「お兄と話してたら疲れる」
そう言って、ベッドから立ち上がる。
「帰るのか?」
「うん、そうする」
「あのな、今後、今みたいなことをやったら」
「わかってる。ただの冗談だよ」
孤独だな、と思う。
真実を知っているのに、誰にもそれを打ち明けられない。
そして冬音は、優助の部屋を後にした。
「お兄は、お兄じゃないんだよ……優助」
呟きが、闇の中に溶けた。
+++
その日は、授業が終わるとすぐに教室を出た。
智子も置いて、外に出た。
なんとなく、見てみたくなったのだ。
今まで、当たり前に見ていなかったものを。
その日、優助はラーメン屋でバイトの穴埋めをすると言っていた。
少し待てば、そのラーメン屋に来るだろう。
そして、近場のラーメン屋といえば一つしかなかった。
少し離れた位置で、その店を眺めて、しばし待つ。
時計の針を見ると、十分が経過していた。
もしや、違う店だろうかと不安になる。
そうしているうちに、優助と明日香が学友と共にやって来た。
そして、二人はエプロンを巻いて、台拭きを始める。
生き生きとしたいい顔だ。
昔、冬音に優助がいつも見せていた顔だ。
「大人になるにつれて世界は広くなった、か……」
冬音は、呟く、思わず、表情を緩めながら。
優助はきっと、いつまでも子供のままなのだろう。そのまま、周囲の環境が変わった。すると、自ずと接し方も変わってくる。
何でも屋。
それが、今一番優助が輝ける場所ならば、邪魔なんてできるわけがない。
(元々、私一人のものになるわけがなかったんだ……)
胸が、小さく痛む。
(なにやってんだろう、私。帰ろう)
そう心の中で小さく呟いて、冬音は歩き始めた。
昨日の占い屋と、帰り道ですれ違う。
「お兄さんの様子はどうでしたか?」
(流石に、ここまで読まれると胡散臭い)
「貴女、何者?」
「貴女の理解者ですよ」
そう言って、占い屋は満面の笑顔を見せた。




