今はもういない
ウィリアムが幽霊と対峙してからもう何分も過ぎている。幽霊はウィリアムには口をきいたようで、少し悔しい気持ちもあるが、あの世のものと関わると生気を吸い取られると言うから関わらないほうがいいと思うことで自分を納得させることとしよう。
それにしても、ウィリアムは幽霊と何を話しているのだろう。この距離では幽霊の姿を確認することは出来ても、話す言葉までは聞き取ることが出来ない。
「ハンス様、もう少し近づいてみませんか。幽霊がウィリアム様によからぬことを吹き込んでいるやもしれません」ローレンツがしびれを切らして言った。
「だめだ。俺たちが近づくことでウィリアムとも口をきかなくなってしまっては困る。幽霊が重大なことを告げているのかもしれない。幽霊が何を話しているのかは俺も気になるがここは黙ってみていよう」
ふと空を見てみると、空が明るくなろうとしていた。太陽の一番上の部分が山の上からかすかに見える。
そろそろ夜が明ける。泥棒たちが街に居場所を無くし、光の住人たちの時間が始まろうとしている。死人が墓に戻り、生きとし生けるものたちが活動を始める。
そして静寂を切り裂く鶏の声が朝の到来を告げる。ウィリアムも幽霊との話が終わったようでこちらに歩いてきた。夜の住人の時間は終わったようだ。
「礼儀知らずの幽霊もおまえとは口をきいたようだな、ウィリアム。それで幽霊は何を言っていた」
「いろいろなことを話してくれたよ。あの世では生まれ変わったら何になりたいのかについて披露したり新しい処刑の方法を考えるのが流行っているそうだ」
「それを伝えるためにわざわざあの世からやってきたと」ローレンツは困惑した様子で言った。
「そうらしい。ということで、ここは帰ることとしよう。君もハンスも仕事があるだろうから短くとも睡眠を取ると良いだろう。私も一眠りすることとするよ」口に手を当てながらウィリアムは言った。
「ふざけているのかウィリアム、おまえはさっきからくだらないことばかり言っている。俺たちをからかっているのか」
「ハンス、気に触ったなら謝るよ。分かった、本当のことを言うよ。詳しくは言えないが、俺は幽霊にこの国の黒い者による黒い行いについて真実を告げられた。ハンス、ローレンツ、二人に頼みがある」
「勿論だ」
「喜んで承ります」
「二人ともありがとう。では今夜見た幽霊のことと俺が幽霊と話したことを決して口外しないでほしい」
「言うまでも無い」
「口外いたしません」
「神に誓うか」
「神に誓って」
「神に誓います」
「私にも誓ってくださる」突然、ウィリアムが話をしていた幽霊が誓いに加わった。
「まだいたのか。あの世に帰ったのではなかったのかい」ウィリアムが苦笑いをする。
「ええ、なにかお話をされていたようなので」幽霊はけろりとして答える。
「もしや、あなたはアンナ様であられるのでは」ロ-レンツが驚いたように言う。
「久しぶりですね、ローレンツ。大きくなりましたね」幽霊、もとよりアンナが言う。
暗くて気がつかなかったがその顔はウィリアムの妹のアンナだった。
「アンナだったか、暗くて気がつかなかった」
「あら、ハンス様は相変わらず私に冷たいお方ですのね」アンナが泣く素振りをする。
「俺に泣くふりは通じないぞ」
「あら残念。それはそうと私にもに誓ってくださる」そう言ってアンナはどこからともなく手のひらにのるほどの十字架を取り出した。
「妹に誓って」
「アンナ様に誓って」
「十字架に誓って」
「本当にハンス様は連れないお方ですのね。分かりました、それでは皆様、ごきげんよう」
アンナは去って行った。あいつはことあるごとに俺をからかってきたものだった。
誓いのあと、ウィリアムとローレンツはそれぞれ城の中へ戻っていった。俺はしばらくここに残っていた。それにしても、幽霊の正体はアンナだったのか。思い返してみると、あの後ろ姿は生前のアンナそのものだった。むしろ気がつかなかったのがおかしいくらいだ。
俺はつくづく自分の不人情さに嫌気がさす。当時あれだけ見ていた後ろ姿を、好きだった人の後ろ姿を思い出せなかった。俺はアンナのことが本当に好きだったのだろうか。
今更あいつへの気持ちを思い返すのはやめよう。アンナは死んでしまったのだ。あれはアンナではなく、アンナの幽霊なのだ。アンナとはもう結婚することは出来ないのだ。
空はいつの間にか水色に染まっていた。雨は降りそうに無い。