第7話 閉幕の君
『電車から降りてきた四人組はいかにも怪しげであったが、その構成から察するに家族かもしれない。その一点のみが彼らを一応、平常の市民足らしめる隠れ蓑であり、言い換えれば命綱であった――』
もし俺が、今の状況を文章にするなら、そう書いただろう。
そう、俺たちは四人、つまり俺とマダムとこころを失くした日下友里、そして招かれざる友里の父――ラブホテルのオヤジ――である。
元はと言えばこのオヤジが因となって今の難儀となっているのだが、娘(友里)のこころを戻す手立てがあると知るや顔をくしゃくしゃにして泣き崩れ、連れて行ってくれと言いだしたのだ。
――もう、どうにでもなれ。
半ば投げやりになれたのは俺の悲しい性分。俺は小説家なのだから。
ともあれ、アパートに帰らねばならない。イオナが(きっと)待っている。
そして幼児退行してしまった日下友里のこころを、戻そう。
《こころストック》でこころを預けた者は、それをした《ストッカー》に再びまみえることで、こころを思い出すことができるのだから。
それが《ストッカー》の禁則事項である事は解っている。だが、そもそもイオナは《こころストック》の秘密を暴露する破戒者であり、仕事以外で他人のこころを読みまくる職権乱用者でもある。きっと、こころを返すくらいの事は、平気でやってのけるだろう。
それに――俺はそんな優しいイオナを書きたい。
世の理の向こう側にあるイオナを、書いて書いて書きまくって、俺の棲むこのどうしようもない世界に定着させようと、俺は思っている。
『夢に命を賭ける』と、俺はイオナと約束した。
――夢とはイオナそのもの。
俺は今にしてようやく、イオナが本当に言いたかった事にたどり着いたような気がしている。
俺のアパートまでは歩いて十分。上京したばかりの頃は、田舎者と思われぬようせかせか歩いていたせいか五分足らずだった。やがて都会に慣れ、色んなものが見え、聞こえてくると、余裕ができたのかちんたら歩いて十五分。そして最近はふらふら歩いて十分に落ち着いている。
マダムに「どの位かかるのか」を問われて、ふと答えた所要時間にはこんな経緯があった。現在は駅から七分少し。でももうアパートの灯りが見えるところまで、辿り着いている。早くイオナに会いたい分、随分きびきび歩いていたのだろう。やがて俺の部屋にも灯りが点いている事が確認できた。
(イオナっ! 居てくれた……)
そうホッと安堵する俺をあざ笑うかのようにマダムが言う。
「組合の工作員じゃないの? なんて、冗談よ」
(冗談になってない……)
ひきつる俺など気にもせず、マダムは言葉を接ぐ。
「それにしてもさあ? こんなボロアパート、よく残ってたもんだわ。前をダンプが通っただけでイチコロじゃないの?」
(それは大丈夫。マダムが来ても平気だったから……)
その言葉はもちろん呑み込んで、でも本当にイオナなのかが心配になってきた。
(いや、大丈夫! 洗濯機に隠した鍵はイオナしかわからないはずだ。それに、俺が信じないでどうする?)
強がってはみたものの、体は正直である。
「つかさ、さあ? あんたいつも、そんな忍び足で歩いてるわけ?」
俺は知らずの内に、アパートの錆びた階段を音を立てないように歩いていた。
「うちのホテルでも、付き合いの浅そうなカップルは足音をたてないんだ! これが」
友里のオヤジがしたり顔で要らぬ事を言ったのは、とりあえず無視した。というか、それどころでは無い。もう俺は自分の部屋の前に立っている。マダムと友里とオヤジを連れて、立っている。部屋には確かに人の気配がある。なぜか麻婆豆腐のいい匂いがしている。
(――マーボは俺の好物……イオナの手料理?)
兎にも角にも、俺は鍵を開けるしかない。
「た、ただいま」
「あら、おかえりなさい。ノベリストさん、遅かったわね?」
「――――!?」
俺は絶句し、慌ててドアを閉め外に出る。イオナが表に出れないようにドアノブをしっかと押さえつけながら、俺は頭を整理する。
(なんだ、今の?)
ここまでの道中、小学生女児のコスプレのままの友里をここまで連れてきたのもアレだったが、俺の部屋には更にうわ手が居た。
(はだか……エプロン?)
確かにそうだった。俺はマダムたちに廊下で待つよう頼み、おそるおそるもう一度ドアを開け、部屋に入った。
「あら、おかえりなさい。今度は早かったわね」
俺は突っ込む余裕もない。
「イ、イオナ? な、なんで裸?」
「パンツは履いているわ」
「いいからっ! 着てっ! 服っ!」
「ノベリストさんの好みに合わせて待っていたのに、それは無いのじゃないの? 私に恥をかかせる気?」
「いやっ、だから、好みとか恥とかじゃ……なくて、マダムたちが居るんだよっ! いいから早くっ」
「ふうん。嘘じゃなさそうね。いいわ、服を着てあげる。そのかわり二度と同じ事はしないわ……覚悟しておきなさい。恥ずかしがり屋のノベリストさん?」
俺は思わずうなだれてしまった……否、嘘だ。
(最後のはだかエプロンを、この目に焼き付けておかなくては……)
しかし、俺の姑息な目論見はもちろん読み取られ、得たのはイオナの痛い目線である。
(でもこの分なら、万事うまくいくだろう。)
イオナが服を着ると、俺は皆を部屋の中に案内した。
「あら、大勢だったわね。たくさんこさえておいて正解だったわ……。すぐ準備できるから、汚いところで悪いのだけどもお座りなさい……」
イオナは、俺の連れてきた日下友里とそのオヤジについて、まったく無関心に支度をしている。
やがて小さな卓を丸く囲んだ俺たちに、イオナは麻婆豆腐の鍋を持って加わった。鍋が卓に置かれ、取り皿と箸がそれぞれの前に行き渡ると、まずマダムが発声する。
「いい匂いねぇ! とりあえず食べるわよ。お腹がすいてるとロクな考えも出てこないから!」
マダムがそう言うと、やけに説得力がある。
「いただきます!」
友里もそう言ったし、オヤジもまったく悪びれずに箸をとった。さっきまでこのオヤジを敵視していたが、こんな姿を見ると憎めなくなってしまう。いわゆる『同じ釜の飯』効果ってやつだろうが、これはマダムの計算か。それともイオナの手の平か。はたまた……いや、もういいんだ。
今から皆で、お腹いっぱい食べて、友里のこころを元に戻して、これからの事を話し合おう。
実は、俺はこの「友里のこころを戻す」事について、ある予感がある。
それは嬉しい予感。
《ストッカー》が、そのこころを預かった者に再び会うと、心は戻る。だからそれは《こころストック》の組合によって禁則事項とされている。
――なぜか?
聞いたところでは、依頼主との信用や契約上の問題となっているようだが、そうではないのではと俺は思っている。もっと重大ななにかが、あるのではないか。
(つまり……、《ストッカー》側にも影響がある?)
組合側にとって不都合なその影響とはズバリ、《ストッカー》を失うこと。
ひょっとすると、イオナのこころも戻るのではないだろうか。
少し甘めの麻婆豆腐を食べ終え、俺は希望に満ちたこころでイオナを見つめてみる。
「ええ、わかっているわ。その娘のこころでしょう? もう、とっくに戻っているから御覧なさい――。それに私もあなたの思う通り、今不思議な気持ちにまみれているところよ? どう責任を取ってもらえるのでしょうね、ノベリストさん?」
「……えっ!?」
確かに友里は「ここどこ!?」的な顔で放心している。が、今はそれどころでは無い。
(――イオナにこころがっ!!)
俺は思わずマダムに抱き着いてしまった。おまけに、また変な涙が出た。
「ちょおっと!! 抱きつく相手が違うわよ、もう! ほら、イオナが待ってるわよ!」
潤んだ目で見るイオナは少しぼやけていたが、笑っているのがわかる。
(こんな顔で、笑うんだ……、こんなにも目が、こころを伝えるんだ……)
イオナは何か言いたそうだが、ただうなずきながらゆっくりと両手を俺に差し出した。
(ああ、イオナっ! 俺は絶対にお前を……)
その時、アパートの呼び鈴が二回鳴った。
「どもっー速達でーす! 鳴海つかささーん、ごめんくださーい」
――こんな時にっ!
しかし、以前応募していた小説賞の選考結果かもしれないと、俺は皆に断って立ち上がった。
「はい、今開けます――」
こんなボロアパートでは、玄関ドアを開けることは、無条件降伏に等しい行為である。
そんな事分かっていたし、普段はこんな風に開けはしない。ただ、今に限っては慌てていたし、舞い上がってもいた。俺にできるのは、この訪問者の嫌な予感だけを読み取らせる笑顔を、イオナに向けさせない事のみである。
「にゃは! わんばんこ~!? 家族の食卓ぶち壊してメンゴだけど……お・む・か・え、だよ。イオナ?」
訪問者は謎の《ストッカー》はがねである。
ラブホテルに入るイオナを見送った後、姿を消していたはがねは、俺を尾けていたのかもしれない。
俺と、イオナを争う恋敵――はがね――は数秒間、驚いた顔のイオナを見て笑みを浮かべていたが、卓を囲む中にある一つの顔の為に笑顔を消し、言った。
「――ブライアン。おふざけは程々に……だよ。まあ日下友里のこころは、ほとんど国家機密だから仕方ないか? にゃは!?」
はがねは俺の脇の下を抜いた腕の先に、指でピストルの型を作ると、『バキューン』と寒々しく呟いた。弾丸は友里に向けられていた。
「はーい、一丁上がり! 友里のこころはまたまたストック! あと当分目は覚めないと思うよ。ボクの《ストック》ってば、ちょー痛いからね!? さてお次は……にゃは」
はがねは俺に抱き着いたような姿勢のまま、指のピストルをイオナへと向けた。
「イ・オ・ナ……愛してるヨ。ボクは知っての通り、組合の犬。《ストッカー》のこころを喰う《ストッカー》。やぁっと、イオナのこころが喰えるよーーーはぁ……イキそ……」
(――な、な、な、なんだとっ!?)
「させるかっ!! はがね、やめろっーーーー!!」
いつから失っていたのかは分からないが、やっと取り戻したイオナのこころである。やらせるわけにはいかない。俺とはがねは、玄関のほんのちょっとの三和土の上でもみ合い始める。そこに、なんとも馬鹿々々しいような気の抜けた声が響いてきたのは、直後である。
「まあまあ、ここはほんのちょっとだけ、この小説家さんに種明かしをしましょうよ。思えば、この小説家さんあって、最高の結果が出るわけだし、感謝しなきゃあ――」
そうのたまったのは、ラブホテルのオヤジ、いやさブライアンである。こんな名だが、見た目は往年のオバケコントグループ、トリュフの加トちゃんに似ていた。
(――こいつの手の平だった?)
マダムはイオナを抱き、卓からやや離れている。その様は、我が娘を守る母のようで、イオナも必死にしがみついている。
その事が、イオナがいまこころを持っている事の、なによりの証でもある。
ブライアンは、倒れた友里を眺めながら続けた。
「まず、この日下友里なる娘は、とある黒幕が愛人に産ませたっていう、まあ珍しくもなんともない話なんだけどね。ただね、その後が出来過ぎてる。皆さんご存知でしょ? 時期首相候補と目される若手気鋭の二世、泉洋一郎。新党SHINPO(心歩)の代表でもある……これが、フィクサーの覚えがなかなかよろしくない……」
いったいこいつ(ブライアン)は何を言いだしたのか。突然に出てきた泉洋一郎の名は、もちろん知っている。随分女癖が悪いという事も、ワイドショーでは定番ネタとして挙がっているが、それがまた女性票につながるという、とんでもない男である。
「そこで、日下友里の登場となるわけです。彼女は泉洋一郎日本復興政策相の妻となってもらいます。それは彼が次期総理に就くための最低条件でもありましてね……無論、フィクサーのプランですよ?」
話を拒絶したい俺と、聞き出したい俺と、どちらが本当だろう。
俺は小説家として、ブライアンの語り部としての才に、嫉妬も覚えている。重苦しい内容をこうも軽く語れるものは、ざらには居ない。
(――ここは聞かずにはおれない。)
それに、聞かなくては対処(この場を切り抜ける)もできない。
それを知ってか、ブライアンの舌は更に滑らかをます。
「さて日下友里は話を受けました。しかし、万が一、泉洋一郎の側に立たれたなら……フィクサーのプランにほつれが生じるといった訳で、ならばいっそ、こころを失くしてもらおうというのが、まあ当然の成り行き……。ははっ、おかしいでしょ? この国は未だにこんな事やってるんですね!」
俺はあまりの事に言葉が出ない。でも確かにイオナは言っていた。
『いずれは一国の機密に関わるようなこころを扱う日がくるでしょうね……』
『いずれ』はもう、訪れていたのである。
「あ、あんたたちっ! いったい何者よっ!? イオナは渡さないわ、この娘はアタシの……まあ歳は妹だけど、ホントの娘だと思ってるんだからっ!」
――この際、妹か娘かはまあ置いておこう。
ともかく、思いは俺も同じ。イオナは俺にとって……もう守るべき家族だ。ここでブライアンはマダムの方に向き直ると、今までとは少し変わった調子で声を出した。
「ああ、それとマダム。イオナの名付けの件、はがねもそうでしたね? お礼申しあげておきますよ……どうも、人形も名前を付けると人のようです」
「…………?」
端的に言うと、嫌な感じのこの言葉に、俺はしばし息が止まった。
(――人形……だと?)
そして、俺の中のなにかが弾ける。
「うぁぁぁぁああああああっっーーーー!」
俺ははがねを振り払いブライアンに掴みかかろうと、跳んだ。が、玄関の段差で転んだ。
立とうともがく俺の上を、はがねが跨いだ。数時間前に見た青いパンツとピストルが、俺の顔の上で濡れているように光って見えた。はがねは俺を跨いだまま、ピストルを取りだすと下に向けて構えた。
(――俺を、撃つ?)
「モデルガンって言っただろ!? ふざけんなっ!!」
「あ、あれウソだよ? にゃは?」
笑いながらはがねは、ブライアンが投げた座布団をとるとピストルを包むように構えている。
(これって漫画とかドラマであるやつ! サイレンサー? マジかっ!?)
「つかさはね、知り過ぎた男。イオナを書くなら、もっともっとよく考えなさいって言わなかった? ま、いいや。もう死のっか?」
『にゃは』がない。だからというわけでもないが、はがねはマジなんだろう。
「お待ちなさいっ! ノベリストさんを殺すなら、私も死ぬわ。お願い、マダム。私をこのまま圧し殺してちょうだい……」
「イオナ……あんた……」
「いいのよ。もしノベリストさんが死んで、私が残ったら……結局こころなんて無い方が良かったと思うわ。それはノベリストさんが一番かなしむだろう事……だから」
(――ああ、良かった、俺、死んでもいい。)
俺は本気でそう思ったのだ。でも何とかして、イオナだけは救わなくては……。
しかし手立てがないまま、ほんの一秒にたくさんのこころが集まり、混沌としたボロアパートに銃声が響いた。
(いってっ……俺、撃たれた。現実って上手くいかんもんバイ(いかないな)――)
はがねが投げ捨てた座布団が、俺の上でみるみる朱く染まっていく。
(ああ、こんな赤い座布団も買おう。もちろんイオナ用だ……)
薄れて壊れた意識の俺は、もう誰の言葉も脳で解析することができない。なんだって、ただの音だ。
「ねえマダム? イオナをちょうだい! 今ならつかさは助かるかもよ? それにイオナのこころは僕が喰べちゃうから、どうせつかさの事なんか、忘れちゃうよ? にゃは、どうする?」
泣き喚く声はイオナか? そして、『バキューン』という声ははがねか?
――誰かの泣く声が、聞こえなくなった。
――そのかわりに。
最後にひとつだけ、イオナのこころが、俺のこころへと、じかに流れ込んできた。
『ありがとう。ノベリストさん。あなたは夢に命をかけたわ……』
そして、俺のこころに黒い幕が下りてくる。
――イオナを書ききっていない思い。
――イオナに忘れられる寂しさ。
俺はその幕が落ち切るまで、そんな事ばかり考えていた。