第6話 失踪の君
「――と、いうわけなんだ。マダム、俺、どうすればいい?」
イオナを見失った俺は、自然とマダムの店に向かい、今カウンター席に座っている。
――白昼のラブホテル街……歩くイオナと初老の男……ホテルに入った二人……やがて出てきたイオナの奇妙な質問――。
『小説家さん? あなたは私を忘れて、もう一度出会ったならば、また私を好きになれるかしら……。試してみる気はない?』
それは《こころストック》の依頼者が抱く思いだった(らしい)。
問いただした俺の圧力で、イオナのこころは飽和し、代わりに平手を浴びせてそのあとはぐれた。
イオナがそのこころを『落とした』のかどうかは、わからない。
……まあ、大筋でそういった事を、俺はマダムに説明している。
イオナを待つ間に遭遇した《ストッカー》――はがね――については、話がややこしく成りそうだった為、省いた。
とにかく今は、他人のこころを抱いたまま姿を消したイオナを見つけ出すことが最優先なのである。
出会いの時、イオナは『ジサツシガンシャ』のこころの為に、歩道橋から飛ぼうとしている。その先例が俺の焦りを強く駆り立てていた。何が起きても不思議ではないのである。
「どうすればって……どうもこうもないわ! 自分の女でしょ? 自分で何とかしなさいよ」
――マダムの一喝。
俺は言葉もない。だが、なんとかできるなら、とうにやっている。なんともならぬから、こうしてマダムの助言を頼んでいるのだ。
「――もう。アタシはド〇えもんじゃないっての! それにしても、つかさ? あんた頼るのが下手ねえ。こんな時は素直に『助けて』って言いなさいよ!」
「ああ……た……すけて?」
「遅いわよっ!」
マダムは笑いながら、毛皮のコートに袖を通した。
「行くわよ! まずそのホテルに案内しなさい。イオナは一人で出てきたんでしょう? ならその男はまだホテルに居るかもしれないわ? やみくもに探すよりも、まずはイオナが預かったこころがどんなものか知る方が先!」
(――そうか!)
もう扉を開けて出ようとしているマダムの脇を、俺は無理やり追い抜いて前に出た。
「まったく……出来の悪い弟だわ」
こんな時だが、マダムの言葉が俺は無性に嬉しかった。
例の通りに到着したのはちょうどラッシュアワー。言い換えれば夕餉の支度どき。交通量は多いが、客は今が最も少ないだろうと思わせる時間帯である。
俺は躊躇なくマダムを例のホテルに案内した。遠目に見るよりずっと古臭いホテルで、『連れ込み宿』と言った方がふさわしい風情を醸し出している。
「垢ぬけないにも程があるわ……」
呆れながらマダムが俺の手を握る。
「ほらあ、もっとらしくしなさいよお!」
――仕方がない。
これは《潜入捜査》なのだ。怪しまれてはならない。俺とマダムは仲良く、目隠しになっている色とりどりのタレを掻き分けて敷地内へと入った。タレは安手のビニールで、色んな客の手に触れてそうなったのかヌラヌラとした手触りがあった。しかし驚くのはまだ早い。店内に入るとすぐ、へその高さに小窓があり、疲れた手の平がニュっと出てきた。
(――うわっ!? まさか、受付!?)
「鍵を渡しますよー」
小窓から、男のしわがれた声。場にのまれる俺の目を覚ますかのように、すかさずマダムが小窓にのたまう。
「ちょっとおー選べないの? 部~屋!」
こんなホテルでも客商売である。マダムの不意の要望に思わず応えてしまう人の良さが、この受付の男にもあったと見え、小窓一杯に男の顔が現れた。
「あぁ……二階の角部屋以外なら、どこでもいいよ」
男は言いながら、マダムと俺の不釣り合い(?)をしげしげ観察している。嗤うでもなく、愕するでもなく、達観したような目の運びはこの道数十年の年輪を見せつける。が、今考えるべきはそこではない。
(――この男!)
確かにイオナと歩いていた、あの男なのである。
マダムは察しているのか俺の目を見ると、可愛らしく口を開く。
「あら! じゃ、その隣にしようかしら? アタシ達、隣に客が居ると燃えるの!」
おちょぼ口になったマダムを見ても、男は顔色も変えずに顔を引っ込めると、代わりに鍵を出した。
狭い急こう配の階段を、ミシミシ音を立てながら登りきると、二階には向かい合って二部屋ずつ、四部屋。そのくせ部屋番号は二〇一から始まる大仰さで、俺たちの部屋は二〇三。隣室(多分二〇五)は、部屋番プレートが外されている。否、外れたのだろう。この際どうでもいいが。
それより俺はほんの少し隠微な気分になりかけている。いくらマダムとは言え女。年齢はおそらく四十後半、体はむっちりとしているが、こんな場所では全く気にならない。この空間は二人の、あの為だけにある空間なのである。俺の気持ちがそうなるのも、至極当然と言える。
毛皮コートを脱ぎさるマダムの後姿に……いいや、尻に、俺の目はとらわれ、離れること能わず。
(――なんてこった!? イオナ、どうすればいい!!)
「どうすればいい……かしらね?」
「ッーーーーー!」
俺の情けない狼狽に、マダムは「何やってんの?」といった風な眼差しを向けている。おかげでやっと、我に帰れた。
「受付での、あんたの顔見てすぐピンと来たわ。あれがイオナと居た男ね?」
流石のマダムは推理を続ける。
「イオナが一人でホテルから出て来たって聞いて、そうじゃないかと踏んでたのよ。男はここ(ホテル)の関係者。多分、主ね。そして今回の《こころストック》の依頼人は日下友里……どう見てもあのオヤジは友里って顔じゃないわ。だから友里は別に居る……」
マダムは「後はあんたが推理しなさい」といいたげに俺を見ている。
俺は少し推理小説めいた考えが、既に頭に渦巻いていた。
――俺たちは『事件』に巻き込まれているかもしれない。
今、イオナが預かっているのは日下友里なる依頼者のこころ。それは間違いない。但し、それを手引きしたのは、このホテルの主と思われる男。
そしてイオナは、確かにこのホテルで《こころストック》している。ならばここに、日下友里が居るだろう事は明白である。
ここはラブホテル。秘密部屋には事欠かない。
友里は何処かの部屋に、閉じ込められているのではないか。その部屋の場所はマダムの要望――部屋選び――に対する男の答えを思い出せばいい。
――二階の角部屋以外なら、どこでもいいよ。
つまり友里はそこ(二階の角部屋)に居るのだろう。
(――監禁!?)
その可能性はかなり高い。
俺は部屋番プレートの外れた隣室の、うらぶれた様を思い出しながらマダムの目を見た。
「じゃあ、ウラを取るわよ。アタシに考えがあるから」
マダムはなんとなく楽しんでいるようにも見えた。「まあ、任せておきなさい」といった風に片目をつぶると、ベッド脇にある電話器を引き寄せ、受付へとダイヤルを回し始める。骨董品のような内線専用の電話器は、独特の音と間で俺をじらすが、受付にはすぐにつながったようだ。
「あ、二〇三号室だけどなんとかしてよ? え? 『なにが?』って隣よ、と・な・り。他の客が居ると燃えるとは言ったけどさあ? 泣くわ喚くわ……様子確かめた方がいいんじゃない!?」
電話先はもちろん、押しに弱そうだった受け付けのあの男だろう。
マダムは受話器をおきながら言った。
「もし隣が客じゃなくて監禁なら、あのオヤジは直接様子を窺いにくるでしょうね。部屋に入ったらアタシたちもなだれこむわよ!」
マダムはますます楽しそうである。俺はそれを待つ間を繋ぐに相応しい話題――監禁理由――を出す。
「やっぱりイタズラ目的? 隠し立てできなくなりそうになったら《こころストック》を依頼する……とか?」
日下友里がリピーターであることは、イオナから聞いている。謎のボクッ娘ストッカーはがねも、あの男を知っていると言った。男が、何かを隠蔽するために《こころストック》を依頼している事は、間違いないだろう。その考えにマダムは異を唱えた。
「あんたさあ、イオナの言葉、忘れてる」
「――イオナの、言葉?」
「ほら、出会いのリセットってやつ。一度忘れて、好きになれるかってアレよ」
マダムは得意顔で続ける。ついでにその顔には『小説家も大したことないわね』と、書いてあった。ほっといてくれ。
「つまり、こう――。あの男は監禁した女が自分を好くまで、何度も忘れさせてんのよ。下手な鉄砲も数打ちゃナントカ、モテない男の発想よね?」
――成程、面白いっ! ……って、「感心してちゃダメだろ」と思ったところで、男が階段を昇ってくる足音が聞こえてきた。
俺は廊下に面したドアにへばりつき、耳をあてる。その上にマダムも同じように姿勢をとったため、俺の頭の上にマダムの巨乳がのっかる格好となってしまったが、この際どうでもいい。
ともかく、男の足音がドアの前を通過すると、あとはマダムの目論見通りとなった。
『はいっ! そこまでっ! 動かないでっ!』
警察密着の特番における風俗店へのがさ入れ風景は、おそらくもう『伝統芸能』の域に達していると言っても過言ではない。
その時のあのセリフを、まさか実演できる日がこようとは……。
俺は(多分マダムも)、一瞬だけ自分に酔いしれ、その後すぐに現実に引き戻された。
部屋番のはがれた二〇五号室。
躊躇せず鍵を開けた男と、そこに飛び込んだ俺とマダム。監禁部屋と決めつけていたその部屋は、あかりもなく薄暗かったが、とにかく予想を裏切る部屋だった。
まず、ベッドがない。あの下品な丸いベッドが、どこにも無いのである。ついでに鏡張りの壁もなかった。ガラス窓で丸見えの風呂もない。あるのはよく片付いたデスクと白い洋服ダンス。カラーボックスには本が並び、かわいらしい鏡台もあった。
これは、年頃の女の部屋だ。客室ではない。
そして、なぜそうなのか混乱する俺は、もっと混乱するものを見てしまった。
男はといえばうなだれて、その両肩を抑えていたマダムもそっと手を降ろす。それは全ての思考を中断さす不思議に満ちた光景なのである。
(冷静に、落ち着いて。)
俺は子どもが指で計算しながらお菓子を買うように、一つ一つ丁寧に確認した。
部屋の角に、女の子がひとり、立っている……ランドセルを、しょっている……頭にはちょこんと黄色い通学帽。でも、女の子は、十分に大人だった。多分、日下友里。
「ちょっと説明してもらうけど、いい? 嫌ならすぐ警察呼ぶわよ!」
男は力なくうなずくばかりで、語り始めようとはしない。警察を呼ばれてもいいという事か、それとも声にならないのか。おそらく後者だろう。ここは男に少しくらい時間を与えてもよく思う。
それにしても――。
なぜ、この娘はこんな格好で立っているのだろうか。
うつむいて立ったまま微動だにしない不気味さは、妙に板についている。からと言ってプレイでもなさそうである。
娘は裸足だし、スカートはふわりと長めで上着はセーター。プレイなら白いソックスにブラウス、そしてひだひだの吊りスカートであるべきだ。俺は赤い使いこまれたランドセルとくすんだ黄色い帽子を、じっと眺めながら、ここで大切なある事に気付かされた。
(――これは娘の持ち物、友里の子供の頃のものだ。)
ならばこの部屋は監禁部屋などではなく、友里の部屋という事になる。更には、男が父のような気もしてきた。俺は自分の推理を大幅に修正せざるを得ない。
これは『幼児退行』なのだ。
心理的、身体的虐待やネグレクトが発症の要因となり得ることは知識として知っているが、今回のケースはそこに《こころストック》が絡んでくる。
その事で頭が一杯になりかけたその時、男がようやくにして口を開く。
「こんな環境で育ててしまった事が間違っていました――。これは娘です。父一人子一人で頑張ってまいりましたが、娘は知らずの内に愛を信じることができなくなっていたんでしょう。恋人ができるたび、娘はどういう訳かこんな風に閉じこもって……」
声はか細く、震えていた。演技とは言えここまでできるのは、父娘だからこそ。
俺は否定するのに気が引けるのを覚られぬよう、無理に大きな声を出した。
「それは違いませんか――? お父さん」
「――――!?」
「娘さんのこころを、こんなにしたのはあなたなのではないですか? 《こころストック》で!」
「あんた……いったい?」
その問いに俺は『小説家だ』と心の中で答えた。少し気持ちがいい。
「なるほどね! つまり、このオヤジはお嬢ちゃんが幸せになろうとするたびに邪魔してるんだ! 『本当の愛なら一度忘れても復活する』とか言ってね! そりゃあ、無理よ。愛ってのはね、取り返しのつかないものなのよ!?」
「マダム、とりとめもないものの間違いじゃ……?」
「おだまりっ!」
マダムの迫力で完全論破されたのか、男はうなだれ、娘はただ茫然とそれを眺めている。
「じゃ、行くわよっ!」
「えっ!? どこに?」
マダムは立ちつくす娘の手を取りながら、やれやれと言った風に答えた。
「あんたのアパートよ、決まってんじゃない」
イオナに預けられた日下友里のこころは、恋人をきっと「忘れたくない」という思い。ならばそれを抱いたイオナが行く場所は、俺のアパートしかないのだと、マダムは付け加えてくれた。
(イオナの忘れたくない場所が……俺のところ?)
俺は家族の暖かみを知らない。
イオナやマダムと出会って、変な涙が滲んで来たのは、これで二度目である。