第4話 寝床の君
十分、それとも十五分は待っただろうか。いや、この場合「待った」という言葉は適切ではない。
素晴らしい小説がある。映画がある。漫画が、絵画が、歌が、ある。それに恍惚として引き込まれているのと同じ感覚があったのだから、俺は《得た》のだ。
――カーテン越しの見えるはずもないイオナの入浴シーンに、感動を。
入浴は湯船ではなく、洗面器。風呂が壊れている事を、感謝する日が来るなどとは思いもしない。
イオナはまず服を脱いだだろう。最後の一枚を脱ぎ終えると、洗面器に台所の蛇口で水を満たしただろう。俺のたたんでいたタオルを水に浸し、しぼり上げ、イオナはまず腕から拭い始めただろう。肩から胸へ、脇から腹部へと、拭うごとにタオルを水に浸しては、しぼるその水音。
かつて、貴人の残り湯は薬として珍重されたという。
――イオナの遣った水も、そうではないのか。
変態的ではあるが、崇拝や信仰にこうしたアイテムは欠かせない。俺はイオナとの出会いで、まるで人類の宗教史の一端を垣間見たような気持ちにすら、なっている。
でも俺はイオナをあがめない。天女の羽衣を隠した若者のように、イオナを俺の棲む地上へと堕とし、二度と帰さないつもりだ。
非道だろうが、卑怯だろうが、俺はイオナを《i-o-7》などと呼ぶ奴らの棲む天地に、戻すわけにはいかないのである。
「もう帰るけどあんた、大丈夫? イオナ、くれぐれも気を付けなさいよ――じゃあ、ね」
マダムの声で、俺は正気に戻った。
「くれぐれも気を付け」なければならないのは、組合に対しての事だと解っているが、少しくらい俺に警戒するよう言ってくれてもいいだろう。俺がそう思いながら「ありがとう、おやすみ」と返すと、パジャマ姿のイオナも口を開いた。が、声は聞き取れないくらい小さかった。
マダムは頷くと玄関に出て、鉄の階段を降りていく靴音で更に念を押しているように思えた。
「……お、俺も風呂(水浴び)して寝るよ。イオナは六畳。俺、台所」
紳士面は疲れる。そのせいか言葉はやたらとぎこちなく、二度舌を噛んだ。
イオナは何も言わず、布団の上に立っている。俺はカーテンを閉めて体を拭いたが、その間もイオナは立ったままだったようだ。数分後、「おやすみ」を言うために少し覗いたカーテンの向こうで、今まだ立っているのだから。
「寝るけど、ど、ど、どうした?」
また、舌を噛んだ。
「しないの?」
イオナは言った。
(――あ、あ、あ、あ、ああ! ついに!?)
「小説家さん? 小説、書くのでしょう? 私が台所の方がいいわ」
――なんだ、そんな事か。と落胆したおかげで、俺は楽になれた。
そう。今のところ、俺が一方的にイオナを好きなだけで、二人の間に成立しているのは『小説書きと題材』の関係のみである。
イオナがここに引っ越してきたのだって、真の理由は解らない。単にマダムの店よりも交通の便の悪いこっちの方が、(身を隠すのに)なにかと都合がいいだけかもしれない。
(二十八才彼女なし。そう気張るんじゃないよ)
俺は自分に言い聞かせながら、事務的口調を繰り出す。
「明日はバイト早いし、今夜は書かない」
「マスも?」
「ああ、マスも、だ」
「そう、ならいいのだけれど……」
やっとイオナは布団に入るような物音をさせ始めた。俺は先に灯りを消して、簡易にしつらえた寝床にくるまった。カーテンの向こうでは、まだごそごそやっている。
気になってカーテン側に寝返りをうつと、そこに、何というかあまり見ない光景が薄ぼんやりと見えた。布団が、半分だけカーテンからはみ出しているのである。
「おはいりなさい。風邪でもひいたらコトだわ……」
今まで、どんな創作物でも見た事のない奇妙な場面が始まりそうな予感を、俺は感じている。
「もう、寝たのかしら、小説家さん?」
――折半布団のカーテン越しに、愛するイオナの声がする。
川上音二郎のオッペケペー節のような節回しが、俺の脳裏をぐるぐる巡る。イオナの声は直接に聞くよりずっと暖かだった。
「いや……正直、眠れない」
「そう。それなら……」
なぜ小説を書くのか、とイオナは問いを起こした。
言われてみれば、そうだ。俺は何故、書き続けていられる?
そう自問するうちに次の問いが追いかけて来た。
「小説家さん? あなたは私が見てきた人の内でも、随分追い詰められて、不幸そうに見えるわ」
「――読んだのか?」
こころを、である。
俺はとりたてて自分を可哀そうとは思わないが、確かに社会一般から見れば十分すぎる程に不幸だろう。追い詰められてもいる。なにしろ、金がない。みじめを逸らすように、俺は小説について語り始めた。
「おる(俺)は九州から出てきたったい。九州の山ん中。なんもなかとこたい。そのなんもなかとこで、おるには友だちもおらんだった……ほんに寂しかことよ……」
イオナは黙って聞いていた。もう寝たのかもしれないと思った時、カーテンの向こう側から白い手が伸びてきて、俺は手をとられた。
「ふるさとの言葉? よくわからないところもあるけれど、そのまま話してくれていいわ……」
その後、俺は全てを吐き出すようにぶちまけた。
友だちが居なくて、独りぼっちで、駅に捨ててある雑誌や新聞、文字の書いてあるものなら何でも拾っては誰も居ないところで読みふけった。そうすれば、誰もいじめに来ない。時間も過ぎていく。それに文字は裏切らない。嘘を吐かない。俺を『要らない子』と言わない……。
そう、俺は両親が居ない。兄妹もない。親戚は俺を世話した時間を誇っては、他所に押し付けることしか頭になかった。
「だっけん(だから)、俺は書き始めたったい。おるの本当の暮らしば、幸せのある生活ば、友だちの居る学校ば。誰に読ませるわけでもなか。自分だけ、おるだけのお話しったい。イカンね? こげんか理由で、いい歳ばして、書くとわっ!」
涙は出ない。出るわけがない。俺の小説が初めて雑誌に載ったのは、郷土とは全く関係のない地方誌で、それは故郷をたたえ、郷愁を誘うようなつまらない物語だった。
その処女作が、未だに俺を苦しめている。
俺は嘘を書いた。俺は故郷を憎んでいる。俺に帰る場所なんか無いのだ。
これからも嘘を書いて生きていくのだ。
そんな毎日に、イオナが現れた。こころのない娘。こころを預かる娘。こころを救う娘。《i-o-7》のイオナ。
俺は改めて思う。
(俺はイオナを書く。俺にとってたった一つの真実がイオナの存在なのだから)
カーテンからは、いつの間に両の腕が伸びている。それは俺の腕を握りしめ、引っ張り、ついにカーテンに顔が当たるまで引き寄せた。
もう、俺とイオナの距離は無いに等しい。
俺は問うた。
「どうしてイオナは《こころストック》をやってるんだ?」
カーテンの向こう側は、確かに息づかいが変わった。
「…………どうして?」
結構長い沈黙を、少し強めの息づかいで埋めたイオナは、カーテン越しにそう言った。
というよりもそれは、無意識に口から出た類の疑問符に過ぎない。問うたのは俺だが、問いかけはとっくに独り歩きし、まったく別種の、高次元の質問となって、イオナは自問を続けているようである。時々、「あっ!」とか「アラッ?」などともれ出す声は、本当に申し訳ないくらい生真面目な迷走を俺に教えてくれる。
(そろそろ助け舟を出そうか――)
そんな話ではないのだが、俺は大事なことを忘れていたのだ。
それはマダムの言葉。
『あの娘は、人が持っている基本的なこころが、とても薄いの。ない事だってある……』
そう。イオナに「どうして?」や「なぜ?」は、おそらく相当難易度の高い質問なのである。
俺はイオナに、「何故小説を書くのか」について問われた流れで、自然と問いを返したが思慮が足りなかった。
考えてみれば、物事を行うときの『動機』と『意欲』はこころに拠るものだ。それが『薄い』イオナにとっては行動に原因などないのかもしれない。
だが、俺が「もういい」事を言おうとした矢先、イオナは「わからないわ」と、静かに言った。
少しほっとした俺に、カーテン越しの言葉は続く。
「どうして人のこころを預かっているのか、わからない――。だけど色んなこころを見たわ。絶望、失望、憎悪、疑心……こころを手放した人たちはそう言った。私の中にいっときだけ居たこころ達は、やがて晴れ渡って消えていく。でも、記憶は残る。私はそれに押しつぶされて、どうしたらいいかわからなくて、叫びたくなる時もあるわ……」
――残酷な話だ。
ぼんやりとした不安を感じることは俺にもあるが、まあ時間が解決するだろうし、その原因を探して立ち向かう事だってできる。
だが、イオナは違う。
他人の記憶に、どう抗えばいい?
睦言となるはずがこんな陰鬱な対話になってしまい、俺は話を変えることもできない。
「もう寝ましょう。明日早いのでしょう?」
助け舟を出してきたのはイオナの方だった。
カーテンから伸びた両手は、向こう側へと帰って行った。手を離す間際、ほんの少し力を込められたように感じたのは、気のせいかもしれない。
「おやすみなさい――」
その言葉の後も、未練たらたらカーテンを見つめているうちに、俺は懐かしい記憶を思い出していた。
上京してこの部屋に住み始め、最初に手にした原稿料で買ったのがこのカーテン。
あの頃は嬉々としてこのカーテンを閉め切り、小説を書いていた。まるで気分だけは、締め切りに追われる一流作家となって書きまくった。
カーテンを閉めなくなったのはいつ頃だろう。
小説よりも飯のタネになる、いかがわしいものを書きだした頃だったろうか。
夢を追い求めていた頃の俺を知るこのカーテンは、今すっかり色褪せてしまっている。
翌朝、イオナはかなり早く目覚めたのか、居なくなっていた。
カーテンは開かれ、イオナの毛布はたたんである。部屋の隅にカバンとパジャマが置いてあるからには、出て行ったわけではなかろう。
そんな事をいちいち確認せねばならぬとは……。同棲も楽ではないと思いながら、俺はバイトに行く準備を始めた。仕事はここから二駅先にある歓楽街の弁当屋。
雑用と配達が俺の受け持ちで、書き入れ時がひと段落する午後二時まで働いている。
時給は上がらないが、売れ残りの弁当をもらえるのが魅力である。
(今日から二つ、もらえるだろうか?)
それを言い出すタイミングがつかめないまま、今日もルーチンをこなした帰り道。とびきりに昼下がりの情事っぽい通り(ラブホテル街)を、俺は駅へと歩く。
この通りは戦前から続く由緒ある色の街を縦割りにしている。脇道がやたらあって、それは車も通れぬような小径である。『脇目も振らず』という言葉があるが、歩きながら『脇目を振』ると、昭和チックな赤と青のランプや「ご休憩」の文字が目に飛び込んでくる。字体は様々だが、時にあきらかに手書きのものや、経年でかすれたゴチックを下手くそに上書きした看板もある。そんな看板にかぎって「飲み物冷えてます」やら「温泉完備」といった売り言葉が添えられており、微笑ましい。もちろん、微笑ましいだけで入ろうとは思わないのだが。
(こんなホテルに入るやつがいるもんだ?)
そう思ったのは、普段は気にも留めない無数の小径の一つに、一組の男女の姿を見たからである。
(昼間っからお盛んなことで……)
俺は足を止めた。理由は小説家としての好奇心。歩く二人は初老の紳士と若い娘。男はともかく、女の方は肩甲骨までの美しい黒髪がひと際、目を魅いた。からだは華奢で、それでいて歩行には一種の風格すら漂わせている。
俺はそんな娘を一人知っている。
――イオナだ。
だが、そんな事あろうはずもない……と言えるほど、俺はイオナを知っちゃあいない。
昼だというのに薄暗い路地に向いたまま、俺は動くことができないでいる。あの二人の足取りなら、やがて路地に一つっきりの角のホテルに入るだろう。
走っても、追いつけない。声をぐっと飲み込んで、息苦しい。鼓動は早打ちし、手足が震えた。
(――頼むっ!!)
俺はもうすぐ窺える娘の横顔が、イオナでない事を無心に祈った。
そして、それは届かなかった。
俺はイオナを書くことで命を狙われる羽目になる。その認識には、修正が必要である。
イオナを書くその行為自体が、危険なのだ。
「こんな事で……折れるかよ。俺は小説家だ……」
これまでさんざん、他人から見聞きしたあれこれを題材に書いてきた俺なのだ。それが自分に回ってきただけの事なのだ。
このままイオナが出てくるのを待つかどうか、俺には考える時間だけはある。