第12話 帽子の君
九州も冬は寒い。
そんな当たり前の事で、初めて訪れる者を戸惑わせるのが九州の意外性であり持ち味かもしれない。
特にこのK県A市の空港は標高が高い事もあり、風が目に痛いほど冷たい。
俺は半袖のダウンに後悔しながら背筋を震わせた。
「ちょっとつかさ!? 寒いわっ! 何とかならないの?」
叫んだのは毛皮で熊のようになったマダム。その息は、勢いよく光って舞った。今日は吐息も凍る寒さなのである。それを見た友里が不思議顔に息を吐いては、白いキラキラを作ろうと頑張ったが、うまくできなかった。
「寒いのお! わしは若い頃何度か来とるが、蒸気機関車じゃった。山をスイッチバックでなんとか登ってな、トンネルも多くて閉口したわい。しかし時は変われど山はかわらんの……」
爺さんは遠い目をして、雄大な山並みを望んでいる。
――彼はかつて刑事だった。
名は遠藤と言うそうだが『爺さんと呼んでくれ』と本人が言う。
若かりし頃、日下剣政を追い続けた敏腕刑事だった事はジョイから聞いて知った。それが今のように落魄したのは、教科書にも載っている戦後最大の疑獄事件、只中の事だったそうだ。
『記憶にございません』という、例のアレだ。
つまり爺さんはその時、『知り過ぎた男』として《こころストック》されたらしい。
以後長い年月の日雇いやホームレス生活の果て、ジョイに保護されたのが数年前。
月日がこころを深く閉ざし、ジョイの治療も功を為さないままに、ただAVを見るだけの毎日だった爺さんがこころを取り戻したのはどういう訳だったろう。
ジョイは言わなかったが、やはり『日下剣政の過去を暴く』という言葉が、爺さんを揺り起こした気がしてならない。
爺さんはまだ山を見つめている……と思ったら、颯爽と歩くキャビンアテンダントの一団を眺めていた。
爺さんはやがて八十を数えるという。
「あっしは初めてです……。生まれは北の方ですが、こんなに寒いとは知りやせんでした」
九州者は、それ以外の者がその寒さに驚く事を喜ぶ習性(?)がある。アニキのつぶやきに、なんの関係もない売店のおばさんが「よか経験っタイ」と相槌を打つ。
ついでに店頭の毛糸の帽子を「持ってかんね(買いませんか?)」と一言。アニキは遠慮なく黒い帽子を手に取った。
「はい、ありがとね。千円でよかっタイ」
ニッコリ顔のおばさんに呆然としたアニキに、俺は思わず吹いた。このアニキこと、五所川原の本業はテキヤ稼業である。流石に気風世界で生きる男らしく、懐から財布を出すと千円札を五枚、鮮やかに切った。
「全員分でさ。ここはあっしに、任しとくんなせえ」
なんでもアニキは、大恩ある大親分が若い頃に日下剣政と兄弟分で、戦後のどさくさでは随分と無茶をやったらしい。
しかし、すぐに二人は袂を分った。
その後何十年と会っていなかったというのに、親分は今際の際になって「剣政に渡しておくれ」と一丁の拳銃をアニキに託している。
馬鹿正直にも、アニキはそれを日下剣政に届けた。アニキが襲われたのはその帰路であり、瀕死のところをジョイに助けられたとの事であった。
きっと届け物に何かいわくがあったのだろう。ただ、人間ひとり消さねばならぬいわくとは、どんな事なのか。
兎に角、このアニキも爺さんも、日下剣政の為に、今ここに居る。
(いったいフィクサーの秘密って何だ? 殺人……B-29墜落が鍵……編集長はそう言った。でも、それより俺はイオナだ……)
俺がボーっとしていると、マダムがグイッと引っ張る。
「つかさ、ほらあ、早く選びなさいよ? 帽子よ」
そういうマダムは既に、緑の毛糸帽を頭にのせている。爺さんは黄色で友里は赤。アニキは黒。ならば俺は青だろうと思い自然にそうしたが、もう千円出したのも自然だった。
俺はもう一つ、ピンクの帽子を買った。イオナ用だ。イオナは明日、A市入りする。
俺はイオナがこの帽子を被る様を想像してみた。あの長い髪に、白い肌に、きっと似合う事だろう。帽子を被ると、少し強い風が路上の雪を舞わせた。
雪の山道を路線バスが往く。
乗客は五名きり、つまり俺たちだけ。
「ねえつかさ? あとどれくらいよ。バスは遅いし暖房は効いてないし! それにどうして九州にこんな雪が降るのよ!」
マダムのぼやきも無理はない。目指す村は好天ならとっくについている時間だが、震災での道路被害と雪がそれを阻んでいるのだ。
あと十数分というところだろうか。しかし、B-29の発見された山林はそこから更に行かねばならない。無論、徒歩となる。
ちなみに、村には日下家の『御殿』と言われる本家が在る。
俺は子供の頃、その村に住んでいたが、まさかそれが日下剣政の家などとは気付きもしないし興味もなかった。ただ、編集長にB-29の残骸発見についてあらまし聞いた時、甦った記憶がひとつある。
友だちが居らず家でも邪魔にされていた俺は、いつだって人気のない所で本を読んだが、特に山が気に入っていた。山から見える遠くの町へと、いつか飛び出して行くのが子供の頃の夢だったのだ。そんな夢にでもすがらないと、やりきれない毎日だった。
だがある日俺は、口うるさい近所の老婆(梅ババと呼んでたっけ……)から、山に登る事を諫められた。
山はお大尽(日下家)の地所であり、しし罠が多く仕掛けられているというのが理由だったが、「お前などがかかると、罠がもったいない」とも、梅ババは言った。
その頃は皮肉が解らず、ただ「そういうものか」と感心したものだ。
俺はそれから山を避けたが、最後にもう一度だけと、最も眺めの良さそうな場所に登った。
そこは墓地だったと思う。
何故、墓地などという他と間違えそうもないものを、「だったと思う」と記憶しているのは、それがあまりにも変わった造りだったからである。
白い石が十ほど整然と並び、その一つに花が手向けられていた。花は妙に生気に満ち、まるで人のようだった。
俺は怖くなって、山を駆け下りた。
冷たそうな白い石の群れが、まるで追いかけてくるようにも感じられた。
墓石には英語が並んでいて、まだローマ字すら知らない俺にはそれも怖かった。
今思えば、あれは墓で間違いなかっただろう。
(あれがB-29の搭乗員の墓ではなかったか……?)
読めもしなかったアルファベットの羅列が、なぜか不思議と懐かしく思えた。
『ピーピーポポ、ピーポー、ピポピポピーポー』
「――――?」
突如、冷えた車内に響き渡るリコーダーの音色。
そろそろ退屈していたのだろう。友里がランドセルに挿していたリコーダーを吹いている。
曲は初めて聴くもので、止める者も誰もない。
「なに、笛でも吹かんとやれんわい。わしもその昔、来るたんびに夏は蒸し暑く冬は酷寒。それまで日下の仕業じゃと、憎々しく思ったもんじゃ!」
爺さんの大声に運転士がミラーをチラ見した。明らかによそ者に向ける、警戒の色を窺わせる嫌な視線でもあった。子供の頃ここに住んだ経験だけで言えば、この土地は極端に閉鎖的でよそ者を嫌う。
ほんのちょっとした来客でも『誰それの家に何某が来た』だの、新任の駐在所員や分校教員が赴任してきたら、出身地から何から何まで聞きださないと気の済まない土地柄であった。
無論、全部が全部と言うわけではなかったろうが……。
バスの車窓は、もうまばらな家並みを写している。たまに道行く人は、俺たちを確かめるかのように、バスを熱心に見送っている。
「やっと到着たわよ! ほら友里、リコーダーを仕舞いなさい」
いつの間にか、マダムは友里の母親のようになっており、その手を引いてバスを降りた。
皆、それに続く。
降り立った地面は靴が半分もめり込むほど雪が積もり、山は吹雪いているのかまるで見えなかった。




