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こころストック  作者: 鳴海つかさ
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第1話 歩道橋の君

 俺は売れない小説家(ノベリスト)。デビューこそしているが、賞には無縁。

 普段はさえない風俗系週刊誌に、依頼のままに潜入ルポやら、でっちあげの背徳記事だのを書いて、なんとか糊口を凌いでいる。

 もちろんひとりで食っていくのがやっとの毎日。だから、独身、彼女なし……。という理由付けが見栄だと開き直ったのは最近の事。

 俺など何をしたって、現状が精一杯のような気がする。


 俺はこれまで、いわゆる『正業』に就いたことがない。

 自分がそうしている姿など、皆目見当がつかないが、ひとつ言える事は『正業』に就いたとて、まあ一生を共に歩く伴侶を得、子供ができ、マイホームを建て、人並みの幸せを手にする世間一般のようには、俺はいかないだろうという事。この社会の大多数に当てはまる「ああすればそうなる」といった単純なシステムを信じるには、俺はあまりにも社会の垢をなめ過ぎていた。

 現代に巣くう妖怪《垢なめ》になったような気持ちで、俺はネタ集めを兼ねた散歩に出る事にした。


 ここまで、わかりにくいか? この辺が俺の限界。「ああ言えばこう言う」には自信があるのだが……。



 外は寒い。陽は出ているが、北風のせいでまるで熱を感じない。

 まるで騙されたような気分にもなるが、今日はバイトもないし、アパートの部屋に居ても、来るのは新聞の勧誘くらいのもので、このところ執筆にも行き詰っている。俺には歩くしかないのだ。寝ていたってネタは飛び込んでこない。

 ところで俺は執筆業だけじゃ喰えないから、色んなバイトを転々としている。

 そして行く先々で、同情されたり好奇の目に晒されたり。

 そりゃあそうだ。もう二十八才。俺の身の上を知った者は誰も、『作家』という生き物を目にした驚きを一瞬だけ見せ、その後、天は人の下に人を作る事に安堵したような顔色に染まる。

 そう言った意味では、俺も世の役、人の役にたっているのだと……思うか!?


 みじめだよ! ああ、みじめだ! なんか腹立ってきた!


 こんな時は煙草でも吸うに限る。人ごみの中で、堂々と吸ってやる。迷惑かけてやる。

 あんな、たった一つの灰皿をめぐったポジショニング争いをしたり、ましてや不健康の標本箱(アクリルケース)になんか、入ってやるものか。

 でも煙草はきらしている。買うためには最後の万札を両替しなければならない。


 この万札を失ったら、俺はほんとに今度ばかりは、人の下に埋もれてしまうんじゃないか?

(いや、大丈夫さ。前回だってそう思いながら、なんとかなった。)


 万札が千円札になり、五百円玉になり、百円、やがて十円数枚になるまでを、俺は今まで何度も経験している。金が減るごとにプライドが無くなる事を、俺はよく知っている。肝心な事を学習しないまま、ジリ貧への心構えばかり体得してしまっている俺は今、歩道橋を渡っていた。


 対岸のコンビニで、煙草を買うためである。


 ところで、こんな精神状態の俺でも、創作の事は忘れはしない。

 小説のネタを考えるのはもちろん、すれ違う人の顔や仕草に気を配り、誰知らぬ会話に耳を凝らす。どこになにが転がっているか分からない。

 そしてネタを拾いあげた時の、あの高揚! してやったりと心の中で指を鳴らす愉悦は、落ちている万札に自分だけが気付いた時に似ているだろうか。

 まあ、あぶく銭が身につかぬのと同じように、拾ったネタだってそうそう実となるものでもないが、拾わなければゼロでしかない。

 (ネタ)が向こうから飛び込んでくることなど、無いに等しいからである。

 いつの間に、俺は歩道橋の階段を登り詰めていた。歩道橋の上から見下ろせば、行き交う車から煙草が投げ捨てられるのが見えた。それはドライバーをいかにも分別のありげに見せる、ごく普通のファミリーカー。煙草は割と長く、自己主張するように一条の煙を立ち上げながら、しかしトラックにプレスされた。捨てるくらいなら俺にくれと思う。見ず知らずの奴の煙草なら流石に嫌だが、「どうぞ、急いでるから残り吸ってくださいませんか?」的な展開なら、俺は吸える。


(これはネタにはならないか……)


 踏みつぶされ、フィルターだけになった煙草の行方を追う事を止めた俺は、正面を向いて歩き出した。

――その瞬間(とき)


ドンッ……………………。


「アッ!!」


 俺はある娘とぶつかった。

 悲鳴は確かに、ぶつかってから一拍おいて聞こえた。転んだわけではない。

 娘の「アッ!!」は少し、やっちゃった感のある発声の仕方で、いうなれば便所に入って紙がないくらいの取り返しのつかなさくらいはあったが、尻を拭いたら黄色いものが指についてきた程ではない。

 それなら「ああっつ!!」の筈だ。などと考えている場合ではなくなっている事に、俺が気付くのには一秒とかからない。

 娘は今、歩道橋の柵をのり越えようとしている。

 スカートで片足を手すりにかけたその姿は、これから飛び降りるつもりだろうし、見事に丸見えの下着は痛々しく白く、まるで怪我をして巻かれたばかりの包帯のように見えた。いや、三角巾か。


(――えっと、そうじゃないだ……ろ!?)


「おっ、おいっ! やめろっ! やめろって!? 命は一つ、青春は一度、夢は無限っっっ!!」



 俺の必死の甲斐あって、娘は平静を取り戻した。

 いったい何だというのか、娘はあまりにも冷えきった表情で俺の顎あたりをまっすぐに見据えながら、口を開いた。吐息まで、冷たかった。


「あなたのおかげで死ぬところよ? 最っ低。それに『トイレの紙がない』ってなに? 『指に黄色いもの』とか、馬鹿じゃない?」


「…………イッ?」


「もういいわ。煙草でも何でも人ごみで吸ったら? なんなら、あの捨てられた煙草の方がいいかもね。最後の諭吉さん、あっという間に平等院になるわよ?」


「…………オッ?」


「でも、たった一つ、いい事を言ったわ。命は一つ、青春は一度、夢は無限ってね……二十八才、自称小説家(ノベリスト)さん?」


「…………ナッ?」


「そう、私はイオナ。偶然にしても当てた事は評価してあげる。いい勘してるわ。おめでとう……」


 ここまで、俺は揺りかごに乗せられて、母のまなざしを受ける赤子のような、絶対的な安堵を覚えていた。


(――俺を分かるやつが、ここに居る!)


 逃がすわけには、行かない。

 俺はもう歩み去って歩道橋の階段の途中にまで達している娘――イオナ――に向かって駆けた。

 すぐに追いつき、そして告げる言葉は一つしかない。


「君は俺を知っていた! だから俺にも君を知る権利があるっ! 俺は君が欲しいっっっ!」


 階段を上り下りする人々も振り返る告白。俺の息ばかりが荒く、娘の息は聞こえない。


「ふーん。じゃあ試してみようかしら? いい言葉だったものね……命は一つ、青春は一度、夢は無限。その夢の為に、たった一つの命を賭けれるものか? 言っておくけど、私を知るって事は、パンツを見るのとはわけが違うわよ?」


「ああ、俺は賭ける……。どっちにしても……」


「ジリ貧だものね? 小説家(ノベリスト)さん?」




 俺はこの娘の言うがままに後に続いて歩き、とあるスナックの扉をくぐる事になる。

 いかにも昭和チックな場末のスナック。狭い店内は夜に感じ、灯りは今時ランプだった。

 娘は壁際の席に器用に腰掛けると、そのまま眠りにつこうとした。寝る前の言葉は「二十四時間後、起こしに来て」だった。

 つまり俺は、この場所を知る為だけに歩いて来たことになる。

 もう娘は寝息を立て始めた。


 暗い店内に男と女。

 俺の緊張と娘の無防備は、水底のナイフとそれを照らす月。


(う……ん、イマイチかな?)


 仕方なく、俺もこの店で眠る事にした。二十四時間眠る間に、いく度起きて顔を見る事ができるだろう。

俺はランプの灯りに照らされる娘の顔を見つめていた。


 娘――イオナ――が眠りについてから、小一時間。

 お相伴に(あずか)ろうとカウンター席に突っ伏してはみたものの、浅い眠りを二、三度繰り返した俺はかえって目が冴えてしまった。

 仕方がない。あらためて(スナック)の中を観察でもしようと見回してみるが、数席分のカウンターと、壁に沿って置かれた三台のテーブルきりの空間は、これといった調度品もなく、それがかえって娘の持つなにかを際立たせていた。

 俺はランプの橙色を映した娘の寝顔を、まじまじと見つめてみる。


(――なにかとは、なんだ?)


 娘が俺の心を(何故か)見通し、ばかりか記憶をすくい上げ、その上に意を汲んだのは、どんなわけなのだろう。

 この部屋の光源がランプではなく、この娘の頬や首筋や、コートからのぞく手首、スカートからのぞくふくらはぎなのだとしたら、こんな風に悩まなくともよかった。

 しかし、この娘は確かに人間だ。神はいない。

 あの歩道橋で俺とぶつかり、身を投げようとした娘の言葉を、俺は思いだした。


『あなたのおかげで死ぬところよ?』


(――何かがあるのは俺の方?)


 いやいや、そんな筈あるわけがない。俺は生まれてこのかた、貧乏くじは引くのが専門。人にそれを引かせた事はない……多分。

 椅子にきちんと座り、下腹部で手指を合わせてこんこんと眠る娘、イオナ。

 彼女は、二十四時間後に起きるという。そして、俺の求愛を受けるでも拒むでもなく、試すという。

 それは俺が(結果的に)彼女の命を助けたことの礼などではなく、その時に俺が咄嗟に口にした言葉――命は一つ、青春は一度、夢は無限――を基として、「夢に命を賭けれるか否か」が検証されることになった為である。


「夢に命を賭ける」などとよく言われる。

 それは言葉の綾であり、ものの例えであり、単なる意気込みやお題目に過ぎないのだろうか?

 売れない小説家(ノベリスト)の俺にこそ相応しいこの実験に、被験者の悦びすら感じている俺は今、高慢な実験者の無防備な眠りを護持している。

 もし、誰かがその事について不審を問うのならば、わかり切った事は聞かないでくれ。

 俺は彼女に一目惚れしたのだ。


 ――実はそれだけの話である。


 イオナの眠りを眺めるうちに、俺は引き込まれるように、今度こそ深い眠りに落ちていった。



「…………んん?」


 水の音に目を覚ます。足音と、グラスを重ね合わせる音色が、どちらも心地よく耳に響いてくる。

 随分長く、カウンターに突っ伏していたと思うが、二十四時間後には、到底及ばない時刻だろう。娘は早く目覚めたのだろうか。

 ま、そりゃそうだ。二十四時間眠り続けるなんて、三夜完徹した事のある俺でも、覚えがない。

 俺は音のする方――カウンター奥のキッチン――に頭を起こして、確かに娘が立ち仕事をしているキッチンへと、カウンター伝いに歩いた。

 (スナック)を開ける支度か、料理でもしつらえているのか、店内には香ばしい匂いも漂い始めている。


(しかし、なんと声をかければいいものか?)


 出会いが出会いだけに、一眠りして平静を取り戻した俺は、少し(否、大いに)面はゆい。

 そんな俺の第一声は「ひゃあ!?」だった。

 キッチンの奥から現れたのは俺の惚れた娘ではなく、縦も横も大柄の厚化粧の女性だった。


「あんた驚きすぎよ。むしろ驚くのはこっち。ま、イオナについて来たんでしょうけど、帰ったほうがよくない? あの娘は見た目だけの女。失望や幻滅ならまだいいわ。あんた、ぜーんぶ()くしちゃうわよ?」


 振り返ると、娘の座る背が見える。向き直ると、大柄の女性はフライパンを片手に何だかの菜を炒めていた。俺は自分の直感を信じたい。この女性はまず、嘘吐きではない。さっきの言葉は、親切心からのものと考えて、間違いないだろう。イオナの事を少し悪く言い過ぎる傾向(きらい)はあるが、これは俺を傷つけまいとするよりも、イオナを守る為ではないかと推察した。

 これまでも、このような事――イオナがこの店に誰かを連れてくる――は、度々あったのではないか? そして、誰もがイオナに失望し、幻滅して店を後にしたのではないか?

 結果、傷つくのはイオナだったろう。

 俺はフライパンに胡椒をふる女性に、はっきりと告げた。


「えっと……マダム? 俺はイオナが好きです。起きるまで、ここに居たいんだけど……」


 まるでこのマダムに告白しているような、そんな気分になったのは、彼女がフライパンの手を止めてこちらを見つめ始めたからである。


「アタシが告られてるみたいね? フフッ、まあ、いいわ。あんた、名前は?」


「鳴海つかさ、二十八才、独身。小説家です……売れてないけど」


「知らないわねえ? アタシ本読まないから。ああ、『みえこ』よ。マダムって呼びかた、気に入ったわ。あんたの事は『つかさ』でいい?」


 良いも何も、マダムの話は止まらない。


「もしかしてイオナに心を読まれた? あの娘は、一年前くらいにふらっとこの店に来てね……、そのまま居付いたんだけど、まあこの店はアタシが趣味でやってるようなものだし、話し相手にでもなるかと思ってたのよ。でも、話し相手どころか――」


 マダムはフライパンの炒め物を皿に盛ると、俺に座るよう目で合図して、カウンターに置いてくれた。


「あの娘は、人が持っている基本的なこころが、とても薄いの。ないことだってある。そのくせ人の心が見透かせるみたいで、アタシの場合はそれが楽ね。あの娘は嘘を吐かないし、こっちにも嘘を吐かせない」


 マダムの言葉に、俺は今日の衝撃的な出会いについて、話すことにした。


「イオナは今日、歩道橋から飛ぼうとしました。それと、『こころが薄い』って事は関係あるでしょうか?」


 俺とマダムは、自然、イオナの特性について話を始めていたが、ここでマダムが急に居住まいを正すように声を潜めて言った。


「多分それは……仕事帰りだったと思うわ。あとでイオナに直接聞くと良い。こればっかりはアタシが勝手に話す事はできないから――」


 俺がこの店で再び肝を冷やしたのは、マダムがそこまで言った時の事である。


「……なんの話? あと、私にも何か食べさせて。今とても調子が良いの……」


「――イッ、イオナッ!? いつからっ!? 二十四時間って!?」


「ああ、あれね。随分重いものを背負ってたから、そのくらいかかると踏んでたのだけれど、あなたたちの会話が楽しすぎてこころが晴れたわ。ありがとう……」


 マダムは俺の驚きをよそに、料理をもう一皿カウンターに置いた。

 俺とマダムと、謎のイオナ。

 本当の驚きはこれからなのだと、俺はもう心の準備を始めていた。


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