だんだん、ねこまち。
我が輩は猫である。
何故このような堅苦しく大仰な言い回しが、私たちの間で流行っているのだろう。一説によると、昔とある偉い人間先生が私たちを装ったときにこのような言い回しを好んで使用していたから、らしい。真相は定かではないし、そもそも人間先生ごときが私たちの真似をしようなど、適うはずもなかったろうに。
ともあれ。この特徴的な堅苦しさは妙に面白く、大元が何であろうと、皆が使うようになったというのは判る。特に、対人間には丁度良い。相手に伝わらないのは残念だが、心の中でほくそ笑むには充分なのだ。
我が輩。偉そうである。しかし、実際に偉いのだから仕方あるまい。私たちは人間よりも優れている。その証拠に、黙っていても人間は私たちに御飯を差し出してくるではないか。神仏に対する供物と同義か、或いは愛でることに価値を見出しているのか。いずれにせよ、畏怖と敬意は存分に伝わってくる。
しかし何故、人間の生活はあんなにもせせこましいのか。このだんだんの下には谷中銀座と呼ばれる商店街があるのだが、人間の身体に対し小さ過ぎるように思う。まるで私たちのための商店街である。そして昼夜問わず人間がひしめいているのだ。歩くことすらままなるまい。
とはいえ、私には関係ないが。いや、少しはあるやもしれぬ。この商店街には様々な店があり、様々な形で私たちを奉っている。当然それを目的とした人間客も多い。つまりは、私たちを拝むためにやってくる人間が多々いるということだ。私たちの町を抜け、私たちを詣でる。或いは、私たちに参り、私たちの町をさまよう。完全なる無関係とは言えなかろう。
この町は、私たちと共にあるのだ。だから私の方からも、慈しみを以て返そうではないか。
にゃーお。
だんだんの端に座り、町を見下ろす。当然のように人間で溢れかえっていた。夜遅くから朝早くには疎らになるが、大概の時間は混雑している。夕刻なら尚更だ。私たちを奉っているのに、私たちには入る余地がない。人間を避けながら歩くのは容易いが、怪我をしても仕方がない。第一、その必要もない。
「あ、ねこちゃんだ!」
小さな、と言っても私より幾分か大きな体の人間が、私を指さし叫んだ。後ろには、大きな雌の人間。どうやら親子らしい。だんだんの途中で立ち止まり、私の様子を窺っている。
「ままー、ねこちゃん」
興味を引かれながらも、少し怯えているのが判った。私に対する畏怖の念だろう。悪くない立ち居振る舞いである。小さい人間にしては。
私は身体をぐいと伸ばし、小さい人間に近寄ってみせた。気紛れながらも、おもてなしをしてやろう。小さい人間は乱暴なことも多々あるが、このような相手なら問題はない。無理やり触ったり追いかけ回したりするような輩は冷たくあしらうが、立場を弁えた相手には相応の態度を示そうではないか。
小さい人間の足元に転がってみせた。触りたければ触るが良い。誘うように尻尾を揺らし、目をつむり敵意のなさを知らしめる。手足と尻尾は勘弁願いたいが、首筋なら歓迎である。首筋というか、両耳の付け根当たりがお勧めである。くれぐれも、耳は触らぬよう。
「かわいい」
力任せではあるが、良いだろう。及第点である。もう少し上だと尚良いが、さほど問題ではない。背中の筋肉をほぐすように、小さい人間の手が動く。悪くない。暫くこのままにさせておこう。
しかし、思う。人間とは不思議な生物だと。せっかちで生き急いでいるかのようで、なのに立ち止まり私たちの身体を撫で回す。狭苦しい商店街を好み、広いだんだんで身体を伸ばしたりもする。判らない。判らないが、それで良いのかもしれない。
気紛れなのは、お互い様なのだ。
「そろそろかえるわよ」
親だろう雌人間が、小さい人間を急かす。私としてはもう少し撫でさせてやっても構わないのだが、用事があるなら仕方あるまい。
「もうすこしだけー」
「だーめ。もうゆうはんのしたくしないと」
そういえば、そろそろ日が落ちる。いわゆる夕暮れ時だ。だんだんが陽光に染まる時間。曖昧に広がる太陽が、忙しない人間を橙に染める。慌ただしく、なのに穏やかな。
私の好きな時間。
にゃお。
礼代わりに一声鳴き、身体を伸ばした。だんだんの固い地面で爪を研ぎ、尻尾を立てる。帰りなさい、と態度で示す。こうでもしないと、小さい人間は帰ろうとしないだろう。叱られるのも可哀想なので、私は自ら離れることにしたのだ。伝わっていれば良いが。
「わかったよまま。じゃあね、ねこちゃん」
手を振る小さい人間に、目を細めた。友好の証でもあるが、眩しいという理由でもある。必要以上に瞳孔が開いているのだ。油断をしすぎてしまったらしい。私らしくもない。
みゃーお。
立ち去る小さい人間の背中が、橙の世界に溶け込む。暮れなずむ町は薄暗く鮮やかで、曖昧でとても愛おしい。夕やけだんだんと名乗るだけのことはある。この場所からの景色は素晴らしい。
私もそろそろ支度をしようか。夜は夜で、私たちは忙しい。だから当然の如く、人間に眠子と呼ばれることが、どうにも釈然としていないのだ。私たちは昼と言わず夜と言わず、常に働いているというのに。
まあ、構わないが。多忙で寛大な私たちは、人間の生活を常に見守っているのだ。畏怖と敬愛は判っている。勝手な呼び名くらい、自由にさせてやろうではないか。
にゃお。
広がる夕焼けが、私たちの姿を隠す。私たちが何をしようと、人間の目には映らなくなる。黄昏の色にも慣れてきた。ぐいと身体を伸ばし、忙しない人波を見下ろす。そろそろ、私たちの時間がはじまるだろう。
私たちの。そう。人間たちは知らないが。
静かにゆっくりと、さり気なくだんだんを下りる。今日はこのまま行こう。小さい人間のおかげかさほど疲れてはいないし、案外と夜は近いのだ。
少しばかり気合いを入れて、歩き出す。私たちが夜な夜な人間のふりをして過ごしているなど、きっと、誰も気付いていない。