「……結構危険な道だって事?」
次の日。“少年”とシノンは組んで転生協会から仕事を請け負った。
内容は転生点からミリアストまでの安全の確保。
“少年”の視線の先には深い森があり、その中を荒れた道が通っている。一昨日の晩に、“少年”が老婆と一緒に歩いた道だ。
変幻刀の他にも必要な物は揃えた。
水筒や非常食などの必需品を、ホルスターバックに詰めて、太い革のベルトから吊り下げている。
シノンは長い黒髪を簪で小さくまとめていた。身体を動かす時は髪型を変えるようだ。
「この森を安全に通れるように維持するのは、協会の重要な仕事なんです」
「……結構危険な道だって事?」
“少年”は昨晩覚えた違和感を拭いきれない。
一晩中、記憶をすくい出そうと頭を捻ってみるがみるが、やはり自身の過去についてなにも思い出せない。
あまり眠れず、頭の中にモヤがかかったようにボンヤリとしている。
躊躇無く森に足を踏み入れたシノンは、何でも無いような口調で、
「はい、魔獣が住み着いていますから、結構危険です」
シノンは軽快な足取りで中に入っていく。置いていかれるわけにもいかず、“少年”も恐る恐る森の中に入っていく。
道を外れると木の根や石で起伏が激しく、草で足元が見えないのも相まって、異様に歩き辛い。シノンは軽やかな足取りで、少しもぐらつくことがなかった。彼女が何度もこの森で仕事をしてきた事を証明している
頼もしくもあり、情けなくもなった。
「はぐれちゃダメですよ」
「分かってるよ」
素っ気なく返事をすると、シノンは足を止めて振り返る。
「ナナシ…… 私、昨晩の事をあまり覚えてないんですけど、何か変な事しました?」
「……なんでそう思う?」
“ナナシ”と呼ばれる度に、“少年”の心の底に違和感が積もる。
「いえ、女将さんから、ナナシの様子がおかしかったって聞いたので。それに……」
シノンはジッと“少年”と視線を合わせると、
「なんか今日のナナシ、変です」
「……ちょっと虫の居所が悪いんだ。放っといてくれ。早く進もう」
「そう……」
“少年”の気の無い返事に、シノンは心配そうに頷いた。
しばらく森の中を彷徨っていると、シノンは右手を小さく手を挙げ、反対の手の指を立てると唇に当てた。
魔獣を見つけたようだ。彼女の指の先には、大きくて黒い犬が一匹いた。
どうやら食事中のようで、前脚が死肉に乗っていた。口元はベットリと赤く染まっている。
シノンは“少年”に顔を寄せて、
「暗犬、ですね」
瘴気を大量に取り込んだ生き物は、異形の姿に変貌する。いわゆる魔獣だ。
大半は獰猛で、生態系を破壊する。人間社会にも悪影響をもたらす瘴気を止めるのは、人類の悲願である。
「この森には多くいます…… 風下から近づきましょう」
「ああ」
姿勢を低くして徐々に移動するシノンの背中を追う。
気づかれないようにゆっくり進んだため時間がかかったが、おかげで暗犬まで十メートルほどの距離まで近づけた。
シノンはニコリ微笑んで暗犬を指差した。
一拍置いてから“少年”は意図を察した。どうやら、一人で退治してこいと言いたいようだ。
一度大きく息を吸って、ゆっくり吐く。シノンの目を見てコクリと頷く。
斬る。
それだけに集中すると、他の事は忘れる事が出来た。
ベルトに下げた変幻刀に霊力を流し込む。ちゃんと発動するまで数秒かかるが、最初に比べれば随分とマシだろう。
一メートルほどの変幻刀を両手で握り、フッと息をすると木の陰から飛び出した。
暗犬もナナシに気付き、飛びかかる。
“少年”は、無理に変幻刀を振るうことはせず、暗犬の行く先に置く感覚で、刀身を操った。
刀身は、バターが切れるようにスーッと暗犬の身体を肩口から割いていく。
「キャウゥ」
斬り口からダラダラと血液が漏れ出し、すぐに暗犬は動かなくなった。
シノンはポンと“少年”の背中を叩く。
「初めてとしては、まあまあですね」
「それは、ありがとう」
「でも、周囲への気配りがダメダメです。その内痛い目見ますよ?」
彼女は目に角を立て、そう言い聞かせる。
その後も二人は、森の中で魔獣を退治し続けた。
暗犬が最も多かったが、他にも人に危害を加えそうな魔獣は多種にわたる。
時には“少年”一人で、時にはシノンと二人で。危なげなく戦う事が出来た。
その間にも何度か“ナナシ”と呼ばれる。
やはり、その名前は腑に落ちない。
“少年”の心に積もった違和感は、いつしか巨大なものになり“少年”を押し潰そうになっていた。
「ナナシ?」
いつの間にか、シノンが下からの覗き込むよう見つめていた。
心臓が口から飛び出るような吐き気と動悸を覚えた。
「今日はもう帰りもましょう。やっぱり変です」
「そうか」
生返事をすると、“少年”は重たい足取りで走り出した。
「待って、あんまり離れるのは危ないですから」
「平気だって」
「でも…… ナナシッ!」
シノンの声が、急に鋭さを伴う。
“少年”が辺りを見回すと、木の陰から暗犬が三匹牙をむいて見据えていた。
咄嗟に変幻刀を発動しようとするが、思うように霊力が流し込めない。なんとか発動した時には、三匹が“少年”に飛びかかっていた。
最初の一匹を一文字に斬り、次の一匹を袈裟懸けに斬る。
だが最後の一匹は間に合わず、変幻刀を振るうより前に、牙が“少年”の肩に食いつこうとしていた。
まずい、そう思った時だった。
脇腹を掠めて、ナナシの背後から火の玉が飛んでくる。暗犬に命中すると轟音を響かせ爆ぜる。野犬の身体をバラバラに吹き飛ばす。ナナシも爆炎を浴び、顔や手に火傷を負った。
シノンの“燐火”である。
尻餅をついた“少年”に、顔を強張らせた彼女は、
「何を考えているんですかッ! 死んじゃったらどうするのッ!! 生き返れないんですよッ!?」
振り絞るようにシノンは叫んだ。
いつもどこか余裕のある彼女も、こんな風になるのか、と他人事のように思った。
「……それはそうだ、その通りだ」
シノンは怒気を吐き出すように深呼吸をして、いつもの愛嬌のある顔に戻る。
「手当てをしないと、早く町に戻りましょう」
「手間、かけるな」
「良いんですよ、ナナシが大切で……」
“少年”は思わず、
「やめてくれッ!」
“ナナシ”は誰だ? 本当の自分はどこに行った?
そんな想いが、“少年”の心を一杯にした。
シノンはもう何も言わず、“少年”の服の袖を掴んで離さなかった。