「しゃかの〜上の〜、ハルハル荘」
ナナシとシノンが、シュタッカート工房から転生協会の建物に戻った時には、夕陽は完全に沈み、町は夜闇に包まれる。
転生協会の建物の周辺には、この町の人が老若男女問わず集まっていた。皆の前で軽く挨拶をすると、すぐに祝いの席と称して宴会となる。
賑わいに反して、ナナシの心は盛り上がりに欠けた。
そしてみんなの口が言うのだ。ナナシ、と。
言われ続けると流石に違和感を覚える。
昨夜、シノンに名付けられ、丸一日ナナシとして過ごしたが、自分の名前のような気がしない。漠然とした違和感が彼の心に積もっていくのであった。
宴会は日付が変わる頃にお開きとなる。
ナナシの隣には酔い潰れたシノン。ジャケットを脱いで椅子にもたれかかり、シャツのボタンを幾つか外して、パタパタと手を扇いで風を送っている。
すると、胸元がチラチラとはだける。
男どもは、遠目に様子を伺っていた。彼らの狙いは考えるまでも無さそうだ。
彼女は吐息混じりに、
「はぁ〜…… からだ、熱いぃ」
普段は、品のある仕草のせいで印象は薄いが、シノンの肢体は豊満な所とくびれた所のハッキリとした、艶かしいものだ。そんな彼女が酩酊し、色っぽく無防備な姿を晒していた。普段とのギャップで一層男心をくすぐる。
宴会の当初、彼女は嗜み程度に酒を舐めていたが、相当弱いらしく、ブドウ酒を半杯飲んだだけでこの具合である。
焦点の合わない彼女の瞳に、清らかさは無かった。
ナナシは思わず、
「凄く、エッチだ」
その場の全員がコクリと頷く。
皆の息遣いが荒い。ここだけ湿度が高い。
もはや一刻の猶予もない。
「シノン、帰ろう。ここで寝ると後悔するぞ?」
「んん〜ぅ、つれてって〜」
酒の匂いをまとったシノンが、力無くナナシにのしかかってくる。安易に身体に触るのは腰が引けるが、避ける訳にもかけず、真正面から受け止めた。
華奢なのに柔らかい身体。特に胸の感触は、彼の心の中に渦巻く違和感をぶっ飛ばすほど、官能的だった。
「ふえ〜ぇ?」
「ほら行こう、家どこだ?」
「しゃかの〜上の〜、ハルハル荘」
舌ったらずな声で言い漏らす。
「坂の上、だと?」
「あーい」
だらしない返答であった。
また坂を登ると考えるとナナシの気が重くなった。
彼女の腕を肩に回して担ぎ、反対の手で腰を支える。
ナナシは男たちに向かって、
「ほらほら、酔っ払いのお通りだ」
男たちは口惜しそうに顔を曇らせるが、すんなりと道を開けた。流石に力尽くでどうにかしようとは考えていないようだ。
転生協会の建物を出て長い坂を登り、道中で何度か道を聞きながらハルハル荘までやってきた。
玄関を叩くと、太ったおばさんが出てくる。
ナナシは思わず、
「デカいな、横に」
「失礼なガキだね。あんたがナナシかい?」
女将の手を借りてシノンを部屋まで連れて行くと、女将は水を汲みに部屋を出た。
ナナシはシノンをベッドに寝かせるが、彼女は服を掴んで離さない。酔っ払いとは言え、ここまで身を委ねてきた事が嬉しくて、振りほどくのが名残惜しい。
いっその事、たっぷりと時間をかけて感触を楽しんでやろうか、などと考えが頭に浮かぶ。
そして、シノンは寝言を呟いた。
「ナナシ」
そう言われて、違和感の原因がハッキリした。
この娘が見ているのは“ナナシ”であって、本当の“自分”では無いのではないか?
“自分”が誰からも気にかけてもらえず、ゆっくりと飢えて死んでゆく。
そんな妄想に駆られてしまった。
色気づいた心は、急に熱が引いていく。
「シノン、帰れないよ」
「だめぇ、ナナシぃ」
「シノンッ!」
彼女の手を無理矢理引き剥がし、急いで部屋の外に出た。
「ふぁ、まって」
シノンは寝ぼけているのか、パタパタと手を伸ばす。
水の入ったグラスを持ってやってきた女将は、
「あんた、今の何の音だい?」
「失礼します」
「おい、ちょっとッ」
逃げるようにハルハル荘から飛び出した。
“少年”は、自分が何者なのか分からない。だが、本当の名前が、“ナナシ”でないのは確かだった。
どうしようも無く、心がざわついた。