「俺はナナシだよ。ナナシが良い」
「あなたッ! あなたッ!」
劈く悲鳴がナナシの意識を呼び起こす。瞼を開けるとシノンの泣き顔が目の前にあった。暖かい涙がポロポロ落ちて来る。
背中は岩肌で痛いのに後頭部が柔らかいから膝枕されているとわかった。すぐに彼女が覆いかぶさるように抱きしめると、谷間が口を塞いで息が出来ない。
「バカバカバカ! 大好き大好き大好き!」
「ううッ! ちょっ?!」
「ああ、すみません」
必死でタップすると彼女は頬を赤らめて身体を起こした。
広場で白刃悪鬼を発動した後のことはうろ覚えだった。
巨大ミミズを尾っぽの方から細切れにして、シノンの匂いを頼り彷徨って、それから何かと戦った事をボンヤリ覚えている。
「ユリウスさんは? どこにいる?」
ボケぇっとした頭でそう口走ると、荒々しい罵声が飛ぶ。
「貴様が殺したんだろうがッ! 団長をッ!」
「許さねえ!」
「首を刎ねろよ!」
刃を向ける団員たちはかなり殺気立っているから、シノンが庇うように抱きしめる。
ナナシとユリウスが沼に落ちると、瘴液が二人に吸収されるようにみるみる水位が引いていった。沼底のあった場所には、ナナシと勇煌万断だけがあり、ユリウスは衣服を残して消えていた。
彼らは息を合わせて地団駄を踏んで、時折雄叫び怒りを示す。
このままだと、本当に殺されてしまうのではないかと思った。咄嗟に起き上がろうとしたがナナシの身体は重く、指先を動かすので精一杯なくらいだ。
「おやめ、なさい」
虫の羽音のように掠れた声がそう窘めると彼らを息を飲んだ。
「ミリアム殿、しかし」
彼女の肉体は小さくなっていた。
真っ赤に染まった包帯の隙間からポタポタと血が滴り、四肢を失っていた。息は荒く「ヒュゥゥ」と笛のような呼吸音が出ている。事切れるギリギリ一歩手前で命が繋がっていた。
そんな彼女を女医が軽そうに抱きかかえて連れてきた。
真造霊装“挺身結界”の代償である。
代わりに瘴泉のあった場所には直径三メートルの薄荷色の球体が置かれていた。その表面には手や足、内臓を模した模様が描かれていたから、彼女の身体の中がどうなっているのか想像に難く無い。
効果は突破不可能な結界を作り出す事。
瘴泉はこの中に封印され、瘴気が漏れ出す事は無く、既に残った沼は蒸発してみるみる小さくなっていく。
「元より私たちは、決死の覚悟で、あったはず…… あらしょい、は、やめましょう」
「しかしッ!」
「かれがありゃまりなら、その責任はガフッ…… ユリウスが…… 死をもって……」
血を吐き出すが、それでも喋ることをやめなかった。
そんな健気な姿を見せられた団員たちが、もう喉から言葉が出なかった。明らかに殺気が収まり、武器を持つ手から力が抜けていく。
それを察したのか、彼女は満足そうな笑みで、
「ミリアムさん?」
「ダーリン、いま……」
ゆっくり瞼が落ちると、苦しそうな呼吸が止まった。
それから、死者を埋葬したのち攻略師団は帰路に着いた。
瘴気の影響はすぐに消えて無くなるものでは無いようで、獰猛な魔獣の咆哮や足音は横坑の中に響き渡っている。だが、襲われる頻度は少なく撤退はスムーズに進んだ。彼らにも世界の変革が起こった事が分かっているのだろう。
ソリの中では、ナナシの頭はやはりシノンの膝の上にあった。
「指輪返すよ」
右手を掲げると、彼女は少し考え込んだ後、色っぽく微笑む。
「ええっと…… また今度にします」
「はあ?」
「指輪を預けているうちは勝手にどこかに行けないでしょう?」
「まるで呪いだな」
「いいえ、こう言うのは恋煩いと言うのです」
聞いている方が赤くなってしまうのに、照れもせず胸を張って言い切れるのは凄いなぁ感心した。
「それはさておき。あなた、名前は思い出しました?」
言われてハッとした。
目覚めた瞬間は瘴液の中での記憶は確かにあったが、団員たちに囲まれ、ミリアムが死んで、そんな最中に急速に色褪せて、今では頭の裏っかわに微かにこびりついているような感覚だ。
三文字だったか四文字だったか、少し古風な名前だった気がする。
「もう覚えてない」
「お馬鹿さん、何のためにここまで来たのかしら。こんな機会もう無いですよ絶対」
「ごめん」
彼女は前髪を撫でて慰める。
「いいですよ。あなたはちゃんと帰って来てくれましたから」
それでも確かな満足感と達成感がナナシの胸の中一杯に広がっていた。
「シノン」
「はい?」
「俺はナナシだよ。ナナシが良い」
「……はい」
これで完結になります。
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