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「ごんなに、ひゅぅぅぅ…… 可愛い、だっ……」

 “少年”がボヤけた頭で最初に感じたのは、うだだるよう熱気だった。タオルケットを剥いで畳から身を起こすとグーッと身体を伸ばす。寝汗を掻いているせいか、無性に喉が渇いた。

 四畳半の散らかった部屋、窓の外の燃え盛る西陽がギラギラと輝いていた。

 自分の部屋だ。

 状況を把握してから、ようやく“少年”は自身の大問題に気付く。


「俺は…… 戻って来たのか」


 問い掛けは誰にも届かず、蝉の声に掻き消された。

 頭を捻るまでもなく、自分の名前を思い出す。

 心が焦るまでもなく、自分の生い立ちを思い出す。

 胸の中に広がる、苦々しい徒労感。


「はあぁ」


 そんな気持ちが飛び出たように深呼吸をした。あれだけ探し求めた“自分”とはこんなにもありふれた存在だったのか、と呆れて頭を抱える。

 勉強が人並みにできるが数学だけ壊滅的。昔からやっている剣道を惰性的に続けているどこにでもいる高校二年。

 “向こう”であれだけ苦労をしたのだから、せめて恋人の一人もいたらドラマチックなのに、そんなことは全くなかった。

 あまりの普通っぷりに身悶えが止まらない。

 すると途端に喉の渇きを思い出す。いつまでもこの部屋に居ても面白くない。喉を潤しに自室を出た“少年”はいつも通りの光景に目が眩む。


 すると、優しい女の声が、

「寝てたの? 道場から戻って来てからずっと?」

「誰だ?」

 しっかり目を見開いて声のする方にそう言った。


「あらあら、どうしたの? 寝ぼけてるの?」


 ここは自宅。

 ソファにテレビ、テーブルにキッチン。どれも少し古いものだが、手入れが行き届いている。窓の外の小さな庭には、夏の花が陽の光を浴びていた。

 声の主は、茶色い髪を小さくまとめ、目尻のシワを隠すように眼鏡を掛けていた。グロスを塗った唇にはツヤが目立つ。

 どうやらキッチンで洗い物をしていたようだ。


 久しぶりに会った気がしたから、“少年”は思わず、

「母さん、少し老けた?」

「あらやだッ!? もぅ、そんなこと言わないでよぅ……」


 スポンジを落とした母親は、頬に手を当てるとググッと上に持ち上げる。

 言いたい事は沢山あったが、ともあれ“少年”は喉の渇きが鬱陶うっとうしい。


「水、飲んでいい?」

「ねえどこ? 母さんのどこが老けたの?! 言いなさい」


 母親は自分の顔を指す。

 無視して戸棚のグラスを取った“少年”は、水を注いでゴクゴクと喉を鳴らす。

 一杯目は無我夢中。

 二杯目はよく味わって。

 三杯目は考え込みながら。

 腹の中がタポタポになるまで飲むと、落ち着いていた“少年”の心は浮き足立つ。


「この後、俺は……」

「もういいわ。お兄ちゃん、代わりに行ってきて」


 母親はいつの間には、どこぞのブランドの帽子を被ってドアの前に立っている。手元の安っぽいバックは買い物カゴであった。


 “少年”は諦めて、

「これは、何?」

「決まっているじゃない。私の代わりに買い物に行ってきて、私はホットヨガに行ってきます。お父さんに嫌われたら大変じゃない」


 母親の元へ近づくと、一緒にメモを手渡された。

 彼女はドアを開け出て行ったしまった。その際、熱風が入り込んで汗ばんでしまう。“少年”は陽射しが弱まるのを待ってから家の外に出た。

 周囲は閑静な住宅街。その中を一本の道が通っていた。


 空を見上げると思わず、

「こんなんだったか」


 空は茜色一色に染め上げられ、その中に入道雲が浮かび、遠くに飛行機が飛んでいる。見覚えのある光景に、辟易へきえきとした。思わずため息が漏れるほどだ。

 記憶の通りの、最期に観た空だ。

 “少年”が黄昏ていると、どこからか急かす声が聞こえた気がした。

 それに後押しされ、早歩きで道を往く。

 近所のスーパーに行かず、道にあるベンチに腰をかける。思う事は沢山あったが、この先起こる事がわかっていたので、それどころではなかった。

 公園の目の前の横断歩道に立つ。反対側には小さな女の子が現れた。信号が青になると女の子は、お行儀よく手を上げてこちらへやってくる。

 “少年”はこの後の事を振り返る。

 自分はここで死んだ。

 道路にはトラックが猛スピードで突っ込んでくる。

 女の子を助ける為に飛び出すが、彼女を抱きかかえたところで、トラックに跳ねられる。最後に見たものは、パックリと割れた女の子の頭蓋であった。

 その時は思わず身体が動いたが、今は足がすくむ。とにかく痛いのだ。骨が砕け、肉は潰れ、神経は切れる。死ぬだけでも辛いの、あんな激痛はもう嫌であった。

 そして、全く別の道もある。“少年”はこのまま動かず、女の子を見殺しにする道だ。

 元はと言えばトラックの運転手や、不注意な女の子が悪いのではないか。どうして居合わせただけの自分が死ななければならないのか。そんな思いが頭を巡る。

 このままこの世界で普通に暮らしていきたい。

 異世界での出来事は全て夢だ。白昼夢、妄想のたぐい。このまま何もしなければきっとそれで済むだろう。


『そうだ、お前はこのままでいろよ』


 突然頭に響く声に“少年”は驚いて目を開く。

 いつの間にか、左手には白刃悪鬼デモントゥールを握っていた。


『あっちは俺が上手くやっておくから、お前はここで幸せに暮らせ』

「……ダメだ。俺に選択肢なんて無いんだよ」

『オイオイ冗談だろ? あんなクソッタレな世界お前にゃ似合わんて。あー、あの女が気がかりか?』

「それもある。シノンともう会えないのは嫌だな。でもそれ以前の話だ」

『あの世界はきっと夢だぜ? ここで死んだからってまた戻れるとは限らんぞ』

「知ってるさ、でもここで見殺しにしたらさ……」


 目の前には、横断歩道の真ん中で尻餅を付いている女の子。前回はそれを見て思わず駆け出した。だが今回は断固たる意志があった。


「俺が俺じゃなくなんだよォォォ!」


 散々旅をして、そして見つけた“自分”がこんな情けない人間だと知ったら、自分探しの旅をしていた“ナナシ”はどう思うのだろうか。“自分”の事を恥じるだろうか。

 竦んでいた足が動き出す。


『もう間に合わないよ』

「黙れッ!」


 叫んで左手をグッと握りしめると白刃悪鬼デモントゥールは砕けて消えた。

 決死の思いなどでは無い。ちゃんと女の子を助けて、自分も生き残る。その為に全力を尽くそう。

 数歩駆けると女の子を抱き上げた。前回は体勢を崩してトラックに跳ねられてしまったが、今回は違う。グッと踏ん張って彼女を歩道に突き飛ばす。

 そして自分も歩道にダイブした。

 もう少し、あと少し、それで生き残れそう。

 だった。

 スローモーションになる意識の中で、あの音を聞いた。

 初めはボキりと骨が折れる音。次にグチャりと肉が潰れる音、最後にキリキリと神経切れる音。

 前回はこの音を聞いた後、真っ赤な視界の中で事切れた。

 だが今回は違うようだ。霞む視界の中で、呆然としている女の子の姿が見えた。

 凛とした長い黒髪、猫のような大きな瞳と薄いピンクの唇は、どれもあどけない印象だ。真新しいワンピースが幼さを一層引き立てている。

 “お嬢ちゃん”という印象の娘。

 良かった、今回はちゃんと助けることが出来た。


 彼は思わず、

「ごんなに、ひゅぅぅぅ…… 可愛い、だっ……」


 真っ青になった彼女は、震えた声で、

「ぃやあああぁぁ!…… だいじょうぶッ!? 痛い?!」


 眼から大粒の涙をこぼし、アスファルトに膝をついて彼女はそう言った。どうやら大きな怪我は無いようだ。

っ良かった。

 生まれ変わってもまた助けたいと、本気で思った。

 だから知りたくなった。


 最後の力を振り絞り、“少年”は喉を鳴らす。

「なまえ…… ゲホッ! 君の」

「わたし? 知らない人におしえちゃダメだって」


 おのれ都条例。

「えぇぞれを……グッ、なっとか」

 “少年”は血を吐くと、女の子は真っ青になる。

「えとえと、わたしは……」


 もし次があるなら、もう数秒長く生きる事にしよう。

 彼女が名乗るより早く、“少年”の意識は途切れた。


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