「天文学的な数字ですかね」
クラースに部屋を用意してもらい、そこでパンとスープを食べたナナシは、すぐに眠りについた。
夜が明け、朝陽を浴びるために窓から外を眺めると、既に町中には人の影がチラホラ見える。
不思議なもので、人と触れ、腹が膨れ、睡眠をしっかり取ると、不安材料の多くはどこかに行ってしまった。
だが、心の奥にトゲが刺さったように気にかかる。
ナナシ。
一晩明けてもしっくりこない。これが自分のものだと思えなかった。
窓辺でボヤけた頭で物思いにふけっていると、丁寧なノックの音が響く。彼は反射的に返事をしてしまった。
「どうぞ」
「おはようござい…… ます」
少し開いたドアの隙間から、シノンは顔を覗かせそう言った。目が会うと、彼女はゆーっくりと顔を引く。不思議に思って自分の身体を確認すると、シャツとトランクスしか身に付けていなかった。よくも「どうぞ」などと言えたものだ。
少し落ち着きの無い声が、ドアの隙間から響いてくる。
「朝食の支度が出来たので広間へ行きましょう」
「ありがとう。すぐに行きます」
クラースが用意した服を身につけドアを開けると、シノンが姿勢良く立っていた。てっきり先に行ったのかと思っていたので、ナナシは二度見してしまった。
目が会うとニコリと彼女は微笑む。大人びた容姿と子供っぽい仕草を両立させる、魅惑の笑顔だ。
「目の覚めるような美人がいる」
「ありがとうございます。口説いてますか?」
「生憎、色気に精を出せるほど、心に余裕が無い」
「じゃあ早くここでの暮らしに慣れないと」
「ほう? 本気で口説いたら可能性はあると」
「天文学的な数字って、統計学的には無いと等しいらしいですよ?」
「さいですか」
遠回しに見込みは無いと言われ、ナナシは落胆する。本気ではなかったがフラれるのはショックだ。
二人は廊下を抜け螺旋階段を降りると、広間がある。
玄関とその正面にカウンター。一階の他の部屋へ続く廊下。真ん中には丸いテーブルが四つあり、その一つには料理が用意してある。
天井には小さなシャンデリアが吊るされているが、今は天窓からの陽光で充分に明るい。
テーブルに備え付けられている椅子に座ると、シノンが隣に座った。テーブルの上にはスライスされた食パンと、サラダと、大きなベーコンエッグが一枚。
「ははは。来たな新人くん」
その声の主は、一階の廊下から奇妙な笑いと一緒にやってきた。
歳は五歳くらい。オーバーオールを着た坊主頭の男の子で、なぜが尊大な立ち振る舞いであった。
「ははは。まあ、心ぼそいだろうが、大丈夫だナナシとやら。ここにはお前の先輩がたくさんいるからな」
「なんだこの生意気な子供」
「はは、その調子だ」
男の子はそう言いながら、ナナシの背中をバシバシ叩く。
シノンが手を伸ばし、坊主頭を撫でる。シュリシュリと気持ちのよい音がする。
「この子はニュリル。クラースさんの息子さん」
「ほほう? よろしく、生意気ボーイ」
「はは、がんばりたまえッ」
「クラースさんはどうしました?」
「さっき出た。パパ、朝から忙しいってさ」
「そうですか、では頂きましょう」
シノンがベーコンエッグを三等分に切り分けて配る。
パンもベーコンエッグも美味しかったが、ナナシには薄味に感じた。
食事を進めていると、壁に掛かった旗が気になった。二匹の蛇がお互いの尾に噛み付いている紋章だ。転生協会のシンボルマークのようだ。
「そういえば、この転生協会って、何をしているところなの?」
シノンは口の中の物をゴクリと飲み込み、
「簡単に言うと、転生者同士の共同組合です。仕事の斡旋とか、情報交換の場であったり。ここに限らずいろんな街にあります」
「魔獣退治とか、お悩み相談とか。はは」
ニュリルは、口の中の物と一緒にそう吐いた。
ナナシの瞳が意地悪く光る。
「……なるほど、シノンが俺に優しいのはそのせいか」
「制度上はそうな…… あッ、でも転生協会が無くても、私はナナシの事を大事にしますよ」
シノンは取り繕うように両手をワタワタと動かす。
「良い娘だなぁ」
「もうッ、揶揄わないでくださいッ。ナナシの冗談は分かり辛いなぁ」
「閑話休題、シノンは協会の…… 職員? とかそういう事?」
「いいえ、私は町から町への転生者です。考古学に興味があって、転生点を巡っています。この町に来て…… 四ヶ月くらい経つでしょうか」
ニュリルはシノンの袖を掴み、
「ずっとここにいれば? お嫁さんにしてあげるよ」
「それも良いですねぇ」
愛想良く答えた彼女は、ジャケットからハンカチを取り出してニュリルの口を拭いた。
ニュリルは馬鹿にするようにナナシを見た。
「そうなる確率はどれくらい?」
「天文学的な数字ですかね」
「さいですか」
「はは? 何の話だ?」
無邪気に笑うニュリルが不憫で、ナナシはフォークを置き、合掌して拝んだ。
ハンカチを仕舞ったシノンは、料理をパクパクと口に納め、牛乳で流し込む。
「ふう、朝方は忙しいから、みんなに紹介するのは夕方にしましょう。ニュリル、皆さんにそう伝えて下さい」
シノンは手早く空になった食器を重ねる。
ナナシの皿は、まだ半分くらいしか減っていない。反対側を見ると、ニュリルは最後の一口を頬張ったどころだ。
「二人とも、早いな」
「はは、早食いは転生者の基本」
「ふふ、時は金なりですから。ナナシはゆっくりで良いですよ」
二人分の食器を持ったシノンは奥の部屋に消えてくる。ナナシはなぜか敗北感を覚えた。
ニュリルは椅子から降りてナナシの服の袖を引っ張ると、
「あんちゃん。これ、渡せって」
小さい手で持った手帳を差し出す。
受け取って中を確認すると、老婆から受け取ったプレートが納まっている。他にも読めない文字でいろんな文章が書かれていたり、白紙のページ沢山あった。
「それは転生手帳っていって、転生者のあかしなんだ。じゃ」
言い残すと、ニュリルはシノンを追って奥の部屋に走って行った。
残りの料理の口の中に押し込むと、ナナシも二人の後を追う。
タイル張りの台所だ。流し台には食器の山があった。二人はそれを端から順に片している。
「ゆっくりで良かったのに」
「ふぃや、しょうゆうふぁけには」
モゴモゴと口を動かしながら言いこぼした。