「うむッ! そうか!」
医務室を出た後、「一人にしてくれ」と言い残し、ナナシは屋上やってきた。さっきまで晴れていたのに、いつの間にか要塞は暗雲に飲まれて吹雪が肌を切りつける。寒いのは大嫌いだけど、頭の芯から冷えるのは考え事をするのに丁度良い。
今は見ることは叶わないが視線の先には大奈落がある。そこに記憶があるかもしれない。だが危険だ。大奈落 に挑んで帰ってくる確率は五割を切る。
二人に一人は死ぬ。
行きたい。
怖い。
行きたい。
怖い。
二つの感情がグルグル巡って、結論を出せそうもなかった。
「ナナシくん」
太く重い声のした方を見ると、数メートル先に人影。だか雪のせいで顔を伺うことができない。
しかし聞き覚えのある声だった。
「団長さんかい?」
「ああ」
ノッソノッソと熊のような巨体が雪の中から現れる。
転生協会大奈落攻略師団団長、ユリウス・メンブレン。
身長はナナシと同じくらいだが、ブ厚い胸板とコントラバスのような声のせいか、威圧感の強い男だ。
リョジュン・ベルクに来た時に初めて会い、それ以降何度か攻略師団に勧誘されていた。
その時は大奈落に行こうなど微塵も考えていなかったから、二つ返事に断っていたが、彼もターニャの事を聞いたのだろう。今ならナナシの心境も変わっている考えたのか、と察した。
「ターニャ君は瘴液に触れたのだろう」
「瘴気とは違うのか?」
「高濃度の瘴気、といえば分かりやすいかな。大奈落の底から湧き出て徐々に上層へ昇ってくる。とはいえ、このことを知っているのは攻略師団の中でも一部の者だけなのだか。彼女らは相当深くまで潜ったようだ」
「知っていたんですか?」
「記憶に関しては我々も知らなかった。いや知らない事だらけなのだ。知っていればとうの昔に君を勧誘していた…… さて、君も知ってもいるだろうが攻略師団が明朝、リョジュンを立つ。辛く厳しい戦いが待っているだろう。我々には強い仲間を欲している。君も一緒に来ないか?」
「確か団員の募集はとっくに打ち切っていましたよね」
ナナシの前で仁王立ちしたユリウスは、まるで演説でもするかのように、
「うむ、団員の足並みを揃えるには時間がかかるからな。だが真造適合者にはその必要はあるまい。必要なのだ、強さがッ! 力がッ! 君がッ! 俺と一緒に来い、目的は違えど、目指す場所が同じなら協力できるはずだ!」
彼はガッと肩を掴み、鼻息荒く顔を突きつける。彼の視線は真っ直ぐで、強烈な意志を感じた。
ナナシは直視できず横を向き、
「勘弁して下さい。俺は、今だって充分……」
幸せだ。
その一言が喉に詰まった。
「ギリギリまで待てる。本気で考えてくれないか。君の求めているものが“底”にある」
「……考えるだけなら」
「うむッ! そうか!」
返事に満足したのか、鼻歌混じりに屋内に戻っていく。
ふと東に目を向けると雲の合間から黒くポッカリと空いた大奈落が顔を覗かせていた。




