「つまりよ、でっけぇ沼があったのよ」
ナナシとシノンがリョジュン・ベルクの医務室の前まで駆けつけると、狭い通路は人だかりで塞がっていた。それを掻き分け、何とかドアの前までやってくると、そこには転生協会の用意した守衛がいた。白刃悪鬼を見せつけて強引に中に入ると、ベッドに横たわる若い女がいた。彼女の名前はターニャ・ザウスマン、先ほどの犬ゾリで帰還した一人だ。包帯まみれでベッドで寝ているが、癖の強い赤髪とキツイ釣り目のせいか弱々しさは感じなかった。
「記憶ッ! 記憶が戻ったってどういう……」
「るっせえッ! ブッ殺すぞッ!!」
ナナシがターニャの肩を掴むと、石のように硬い拳がナナシの鼻っ面を叩いた。
「こちとら怪我人なんだよッ!? チッタぁいたわれないのかい、このボンクラぁッ!!」
「……申し訳ない」
グワングワンと視界が揺れても、彼女の肩を離さなかった。
何せ、探し求めた記憶の糸が、妙なところから垂れているのだ。
「で? 誰だ、お前?」
「俺は…… 真造適合者だ。転生前の記憶を取り戻したいんだ。何でもいいから教えてくれ」
「別に隠したりしねえよ、出すもん出せば、なぁ?」
そう言った彼女は指先を擦る。どうやら金を要求しているようだ。
「こんな身体になっちまったからな、ガメつきたくもなるぜ」
「……ああぁ」
気が付かなかった自分が憎らしい。ターニャの両脚は太ももから先が無かった。
財布の中身を全て渡すと、彼女はそれを指で弾き数える。
「シケてんな」
「仕方ありません、私も出しましょう」
そう言ってシノンは財布の中のお札を全て出した。
「甲斐性のねえ男だな」
「まったくです」
「ひどい」
「まあ良い、順を追って話そうか」
ターニャはそう前置きしてから大奈落であった事を口にする。
彼女らの攻略隊は未開拓の経路を進んで大奈落を降りて行った。比較的魔獣の数は少なく順調に進めていたのだが、ある問題が起こった。
「つまりよ、でっけぇ沼があったのよ」
真っ黒いドロドロとした粘度の高い液体が、道の途中で沼を成していた。
対岸まで大した距離は無かったし、迂回路を探すのはリスクが高いと判断したターニャ達は横断する事にした。調べてみると、深いところでも膝下くらいだったので、どうにかなるだろうと判断したのだ。
「半分くらい進んだ時だった」
突如として、ターニャは意識が遠くなった。
前の隊員も同じなのか、腰砕けにフラフラとしてから沼の中に倒れる。
一人、また一人と倒れ、ついにはターニャも倒れてしまった。
「そんで意識が戻った時には、沼と一緒に隊員の八割は消えてたよ」
そしてターニャ達は攻略を諦め、リョジュン・ベルクに帰還した。
「帰路で生き残りの半分が魔獣に食われちまったよ」
彼女は、切なげに失った脚を掴もうとしていた。
いつまでたっても期待していた話にならないので、焦れたナナシは、
「えっと、それで記憶の方は?」
「そうそう、眠っていた間は戻っていたんよ」
「いた?」
「今はまたトんでる。どんな良い夢でも、目覚めると忘れちまうだろ? あんな感じさね」
「それは…… 本当に夢を見ていただけなんじゃ?」
「かもな、まあどっちでもいい事さ。あんたは金を払った、あたしは偽りなく答えた。それだけ。さぁ用は済んだろ、悪いが一人にしてくれ。正直、今の状況は結構堪えているんだ」
彼女は寝返りを打って顔を背ける。
「でも……」
「彼女の言うとおりにしましょう」
シノンが服を引っ張る。それでハッとして、ターニャをよく見ると拳はギュッと握り締めたままだった。
彼女にとっては思い出すのは辛い事だろう。
自分の事ばかり大事でそんな当たり前の事に気が回らなかった。
罪悪感がこみ上げ、身体が熱くなった。
二人が医務室から出てドアを閉じると、直ぐに嗚咽が聞こえてくる。




