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「お山に秘湯があるみたいです」

 ナナシとシノンがシェンゲンを飛び出してから三週間が経った。

 次の街を目指す蒸気機関車に揺られている最中、ナナシの口数は多く無い。車窓に流れる雪景色を、ただボーッと眺めているだけだ。

 人の集まる街を幾つか回ったが、ナナシを知っている転生者を見つける事は出来ず、彼は少し気が滅入っていた。どこの街でも自分を知る者がいないというのは、ナナシが予想していたよりもずっと心に重く響いた。

 もしかしたら、この旅は無駄なのでは無いかと思い、というより、シノンを付き合わせる事に罪悪感を覚え始めていたのだ。

 そんな事を知ってか知らずか、シノンは何度も話を振ってくれるのだが全く話は弾まない。ここ(しばら)く、ずっとこんな感じだ。

 汽車はとある駅に停車した。すると突然、ナナシの鼻をもげるような刺激臭が襲い、思わず鼻をつまむ。


「なんだッ?!」

「だから、温泉街だと言ったじゃありませんか、聞いてなかったんですか?」


 シノンは呆れ顔で顔を抱えた。

 窓の外の寂れた街は、至る所から湯気が登っていて、シンシンと降る雪と相まって視界は白く霞んでしまう。


「寄って行きましょう?」

「……いやいいよ、寒そうだし」


 ナナシはため息混じりにそう答えた。

 するとムッとしたシノンは、腕を抱きかかえて引っ張りあげる。その時柔らかい感触が気が立って彼の心をダラシなく弛緩させた。


「降りましょう。少しくらいは良いじゃありませんか」

「しょうがないな」


 水と石炭の補給は時間が掛かる。ひとっ風呂浴びるくらいは平気だろう。

 駅舎を出ると大通りがあり、その両側に商店ならぶ。どれもこれも寂れていて、客足はほとんどなく、寒い風がよく通った。遠くには火山なのだろう、三角山が雪化粧をしてそびえている


「お山に秘湯があるみたいです」


 いつの間にか、この街のパンフレットを持っていたシノンが楽しそうにはしゃぎ、山の中腹を指差した。パンフレットに載っているのなら“秘“湯では無いだろう、とナナシは呆れて少し気が立った。

 そこまで結構な距離がある。次の汽車がいつ来るか分からないし、何よりわざわざ山登りしてまで温泉に浸かりたいとも思わなかった。

 辺りを見回すと、周囲の店からも湯気は登っている。


 泉質などそう変わりはしないだろうと思ったナナシは、

「ここらの風呂にしようよ」

「いいじゃありませんか、石炭くさい温泉じゃゆっくり出来ません。登りましょう?」

「いやでも」

「ね? お願い」


 シノンはナナシの両肩に手を置くと、ピトっと身体を密着させる。目と鼻の先に、熱と帯びた彼女の顔が迫る。こういう魔性の表情良く似合う。

 ナナシの心は山よりも高く舞い上がった。


 そして思わず、

「登ろう」

「やった、チョロい」


 計算通りに事が進むのが嬉しいようで、シノンは無邪気に笑った。それもまた可愛いのがタチが悪い。

 簡単に彼女の手のひらの上で転がされる自分が恨めしくて仕方なかった。

 登山道は険しい。

 一応整備されているが、階段は急だったり、土は泥濘ぬかるんでいたりと、とてもじゃないが休息におもむく道では無い。おまけに雪の降る中の登山は、思った以上に疲労が溜まる。

 それでも歩を進める度に強くなる硫黄の香りが、得も言えぬ期待感がナナシの心を明るくしていった。

 温泉、温泉なのだ。

 夢と浪漫がタップリと溶け込んでいるに違いなのだ。

 そんな心変わりをしつつ、一時間程登ると遂に秘湯に到着した。

 小さな湯船が一つ。乳白色の湯からは湯気と硫黄の香りがモクモクを登る。近くには小さな小屋があるだけ、それでナナシは察した。


「あれ? もしかして、混浴?」

「みたい、ですね……」

 シノンも知らなかったのか、アタフタとパンフレットをめくる。


「どうする?」

「ここまで来たのに入らないわけには」

「だよなぁ。じゃあ俺が先に入るから」


 手早く身体を洗って湯船をシノンに譲ろう。そう考えてナナシは先に小屋に入った。

 湯船に浸かってみると、蓄積した疲労が抜け出るようで、中々湯から出る気になれない、雪見温泉というのも案外オツなもので、時間がどれだけ経ったかわからなくなってしまった。

 ボーッと夕陽を眺めていると、物音がした。振り返ると、湯気の向こうにシノンの姿。


「うぇッ?」

 タオル一枚を身体に巻いてた彼女は、はにかみながら足先を湯につけ温度を確かめていた。


「恥ずかしいので、あんまり見ないで下さいね」


 無論釘付けである。

 途端に身体がガチガチになり、ナナシの舌の回りが悪くなった。


「ふぁんで? 待ってれればいいのにッ?」

「どれだけ待っても出てこないのはあなたの方じゃありませんか。凍えちゃいます」


 掛け湯をした彼女は、ゆっくりと湯船に浸かる。

 狭い湯船には距離を取りようがなく、肩が当たりそうな距離にそこに裸のシノンが腰掛けた。

 透き通る彼女の素肌は徐々に朱味を帯び、纏めた黒髪が水気を吸って一層ツヤが増す。乳白色の湯が邪魔で、身体はボヤッとしたシルエットだがこれがまた色っぽくて、ナナシは思わず唾を飲む。自分でも驚くくらいの大きく音が出た。


「もうッ」


 まじまじと見ていたせいか、シノンはプクッと頬を膨らませ湯を掬うと、ナナシの顔にかけた。

 思いの外、目に沁みる。開けることが出来ない。

 しばらく瞑っていると下心はどうにか治って、それからは話が弾んだ。久々に彼女とちゃんと話をした気になった。


「汽車、行っちゃうな」

 遠くからは汽笛の音。二人が乗ってきた汽車は出発してしまう。これでもう、今晩はこの街の宿に泊まるしか無いだろう。


「急ぐこと無いじゃありませんか。のんびりと、私たちのペースで行けばいいんです」

「そうかな?」

「そうですよ」


 シノンにそう言われても、ナナシのはやる気持ちが変わる事はなかった。それでも、“私たちの”と言ってくれたのが妙に嬉しくって、心の中から鬱屈としたものが無くなる。すると、また下心が湧いて出る。


 ナナシはシノンの胸元を盗み見ると思わず、

「まあ良いものも見れるしなぁ」

「もうッ、エッチッ!」

 一段と朱くなったシノンは、再び湯をすくう。


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