「ありがとうございます、最近良く言われます」
“少年”は日の出の少し前に出発した。
少し歩いて丘の上に出る。朝靄に沈む町が名残惜しくて“少年”は振り返る。
すると、町の入り口から丘に向かって走ってくる人の影があった。
長い黒髪をなびかせ、整った顔立ちは少し崩れている。
スラッとした手足を一杯に振っている綺麗なフォームだが、どこか子供っぽい走り方だった。
“少年”は思わず、
「シノンは可愛いなあ」
どうせ追い付かれるだろうから、彼女がやってくるの待った。
彼女は丘を駆け上がり、“少年”の元までやってくると、息を整える事無く言葉を発した。
「ナナシッ!!」
「……シノン、おはよう」
どう返して良いのか分からなかったので、とりあえず挨拶してみたが、一番間抜けな応えだと、口にしてから思った。
ところがシノンの口角は少し上がる。
何度か深呼吸した彼女は、澄ました表情を作って、
「様子を見に来てみれば部屋に居ないんだから…… どうしたんですか? こんな時間に。まだ身体も重いでしょう? 戻りましょう、今日はお宿を探さないと」
「シノン、ごめん。自分はこの町に留まれない。行かなきゃいけない」
そう言うと、シノンの表情は曇った。
「確かに田舎町ですけど、邪険にするほど悪くはないですよ。みんな優しいし、ご飯も美味しいし。まだまだ教えたい事もありますし」
「本当にゴメン」
「なんで、ですか?」
言うかどうか迷ったが、シノンには良くしてもらったし、隠す必要も無いので、想いを口にした。
「自分は…… 名前が欲しい。もう偽の名前は嫌なんだ。呼ばれる度に不安になって。本当の自分がどこか遠くに行っちゃうみたいで。それが嫌になったんだ」
言葉にしてみると、心の奥の不安が安らいでいくようだった。
“ナナシ”と言おうとする口をグッと堪えシノンは、
「ごめんなさい。私が変な名前を付けたから……」
「はい?」
「確かにセンスは無いかもしれないですけどッ」
「違う違う、響きがどうのこうのって話じゃなくて。だから、そう…… 自分探しの旅に出たい、って感じ…… かな? どこかに本当の自分がいるなら迎えに行きたい。だから本当の名前が判るまで、仮の名前を使って良いかな?」
「ナナシ…… はい、もちろん」
「良かった、それだけ気がかりだったんだ。それじゃあ……」
ナナシが踵を返して、一歩を踏み出そうとした時だった。
シノンの口から予想だにしない言葉が飛び出した。
「じゃあ私も行きます」
「へッ?」
「“ナナシ”の名前は私が付けましたから、責任は私にもあります」
「いや無いよ。シノンには感謝しているし…… 責任だなんて」
「この辺りは一通り見て回りましたから、次の街行こうと考えていたんですよ。良い機会です」
「それとこれとは」
シノンは不貞腐れ、唇を突き出す。
彼女は少し媚びるような、小悪魔的な声色で、
「……私がいたら迷惑ですか?」
「迷惑、じゃない…… 分かったよ、勝手にすれば良いよ」
こんな時にあざとさを出すとは思っても無かったが、それだけ本気なのだと分かった。
シノンの表情はパッと灯りがついたように無邪気なものに変わる。
「やった、ありがとうございます。じゃあ荷物を取ってくるので戻りましょう」
「結局戻るのか」
シノンはナナシの手を握って、軽い足取りで丘を下りだす。
早朝の寒さで冷たくなった手が、ジンワリあったかくなる。
ナナシは思わず、
「可愛いなあ」
「ありがとうございます、最近良く言われます」
シノンはヒラリと振り返り、満面の笑みを浮かべた。
第一章はここまで。
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