「また可愛いのが出てきたな……」
“少年”がボヤけた頭で最初に感じたのは、肌にまとわりつく不愉快な湿気だった。地面の上で寝ていたせいか体の節々が痛み、そして無性に喉が渇いていた。
周囲は濡れた岩壁が取り囲んでおり、遠くには出口なのだろう、光がユラユラとしている。
洞窟の中だ。
状況を把握してからようやく、“少年”は自身の大問題に気付く。
「俺は…… 誰だ?」
問い掛けは誰にも届かず、むなしく木霊した。
頭をどんなに捻っても何も思い出せない。
心がどんなに焦っても何も思い出せない。
腹の底から湧いてくる、得体の知れない不安。
「ふうぅぅ」
そんな気持ちを吐き出すように深呼吸をした。まずは出来ることからコツコツと始めるべきだと思った。
手探りで自分の身体を触る。手足が二本ずつ、ゆるいクセのある髪。頭も胴体もある。甚平を身につけ、雪駄を履いていた。立ち上がり、柔軟運動をして身体をほぐす。どこも身体は痛く無い。だったら大丈夫だと“少年”は考えた。身体さえ無事ならどうにかなるだろう。
ひと安心すると喉の渇きを思い出す。このままいつまでもこの洞窟にいるわけにはいかない。出るなら早いに越したことは無い。
意を決して洞窟を出た“少年”は、明るくなった視界に目が眩む。
すると、しゃがれた女の声が、
「おや? こんな時間に、面倒だねえ」
「誰だ?」
薄く目を開けながら、声のする方にそう言った。
「私はここの管理人さ」
目が眩しさに慣れてくると、ここが木造の小屋だと分かった。
ベッドに本棚、タンスに流し台。部屋は一つだけのようだが、生活に必要な物は一通り揃っている。そんな室内を、暖炉の炎が照らしていた。慣れてみると淡い光である。
声の主は、白髪を小さくまとめ、丸いレンズの眼鏡をかけていた。パイプをくわえた口元にはシワが目立つ。老齢なのが見て取れた。
老婆はロッキングチェアに揺られ、分厚い本を読んでいたようだ。
“少年”は思わず、
「昔は美人だったろうに、こんな姿になって……」
「感じたままを口にするんじゃ無いよ。せめて前半だけにしておくれ…… どっこいしょっと」
老婆は面倒そうにロッキングチェアから腰をあげる。
聞きたいことは沢山あったが、ともあれ“少年”は喉の渇きが鬱陶しい。
「あの…… 水、頂けますか?」
「好きなだけ飲みなさい」
老婆は流しの蛇口を指差す。
戸棚のグラスを取った“少年”は、水を注いでゴクゴクと喉を鳴らす。
一杯目は無我夢中。
二杯目はよく味わって。
三杯目は考え込みながら。
腹の中がタポタポになるまで飲むと、浮き足立った“少年”の心は落ち着いた。
「ここはどこです? 自分は何で……」
「ああ、私に聞かないでくれ。説明役の所に案内するから。さあ行くよ」
老婆はいつの間にか、カラスを思わせる黒いコートを羽織ってドアの前に立っている。手元が明るいので、ランプでも持っているのかと思ったが、よく見ると真っ赤な火の玉が浮かんでいた。
“少年”は目を丸くし、
「それは、何です?」
「こいつも含めて説明する奴がいるからそいつに聞きな。私の仕事はお前さんを協会に連れて行くことで、説明することじゃぁ無いんだ」
老婆の元へ近づくと、革のマントを手渡された。
彼女はドアを開ける。冷たい風が頬をなで、身震いをしてしまう。“少年”は手早くマントを羽織った。
周囲は薄暗い森。その中を一本の道が通っていた。
空を見上げると思わず、
「おお、綺麗だな」
陽が暮れたばかりなのか、空は橙黄から藍紫までのクラデーション。その中に三日月が浮かび、ポツリポツリと星が煌めく。鮮やかなその景色に心奪われた。思わず、ため息が漏れるほどだ。
記憶は無いけれど、この空は絶景なのは分かった。
“少年”が見惚れていると、老婆は焦り声で、
「急ぐよ、もう少し時間が経つと魔獣に唾つけられるからね」
老婆は言葉通りに早足で道を征く。
“少年”は逸れぬように背中を追う。聞きたいことは沢山あったが、ぬかるんだ道を歩くのに精一杯で、それどころではなかった。
空の色が完全に暗くなる頃、とある丘の上に着いた。眼下には小さな町がある。
海岸沿いの斜面にできたその町は、建物から漏れる照明の光のせいでボンヤリと明るい。煙突からは黒煙が立ち上って星空を汚し、蒸気機関の回る音が、遠くからでも聞こえるようだった。
老婆は感心したようで、
「ほう、ちゃんと着いてきたね」
「こんなおっかないところで一人になりなくないからな」
“少年”は来た道を振り返る。
一寸先は闇。
陽が完全に暮れると森の中は暗黒の中だ、足元すら見る事が出来ない。更に、ときおり獣の唸り声が聞こえたので、幾度となく肝が冷えた。
丘の上には別の道が伸びていたので、“少年”はそれを見ながら、
「あっちは?」
「ん? 隣町に続く道だ、あんたにゃ関係無いよ」
「そうか」
老婆は町の入り口にある、一番高い建物を指差し、
「あの建物に入ってこれを見せな。そうすればあんたの置かれた状況を教えてくれる」
老婆は金属のプレートを一枚差し出す。刻まれている文字は読めなかったが、蛇を模した紋章が描かれている。
“少年”はプレートを受け取り、
「婆さんは?」
「私は行かないよ。嫌いなんだ、人間ってやつが……」
老婆は、憂いを帯びた眼で町を見下ろす。
急に心細くなり、“少年”は一度姿勢を正して頭をさげる。
「あの、お世話になりました。お水、美味しかったです」
「ああ、長生きしろよ」
老婆は、踵を返して来た道を引き返す。森の中に消えていくのを見送ると、“少年”も町に行くために歩き出した。
丘を下って数分。
老婆の示した建物は、二階建ての大きな建物。真ん中から時計塔が突き出しているような造りだ。地面近くの壁にはコケ生えやツタが絡み、年季が入っているのが窺える。
入り口の前には男が二人、世間話をしていた。
プレートを見せると、二人は嬉しそうに建物の中に入っていく。
中からバタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。
自分も入るかどうか迷っていると、木のドアがギギギと軋ませながら開き、女の子が姿を表す。
凛とした長い黒髪、猫のような大きな瞳と薄いピンクの唇は、どれもあどけない印象だ。それに反し、ジャケットの下から主張する胸元と、コルセットスカートで強調された肢体には、瑞々しい色気がある。
“お嬢さん”という印象の娘。
自分より一つか二つ、歳下だろうと感じた。
彼は思わず、
「また可愛いのが出てきたな……」
ニコリと微笑んだ彼女は、透き通った清涼感のある声で、
「ありがとうございます、よく言われます」
本当に言われ慣れているようで、軽く膝を曲げた彼女はそう返した。普通なら嫌味なセリフだが、逆に魅力的に変えてしまっているのが凄まじい。
生まれ変わったら美少女になりたいと、本気で思った。
彼女はキョトンと首を傾げ、
「あなたが転生者ですか?」
「てん…… 何だって?」
「えっと、お婆さんからプレートを預かりましたか?」
「ああ、これのこと?」
彼は渡されたプレートを見せた。
女の子はそれを一瞥すると、無邪気に笑って、
「入ってください。私はシノン・イスミ、あなたを歓迎します」
シノンは手を取って“少年”を迎え入れた。
「ようこそ、転生の町“ミリアスト”ヘ」