噂という徒花(あだばな)
9月下旬。
夏美さんの庭のコスモスは、5分咲きになった。
僕は時々、自分の部屋の窓から隣家を眺める。
日ごと花数が増えて行くのに、コスモスはいつも寂し気に見えた。
群生していても、決して華やかでも賑やかでもない。
同じ風に揺れているのに、一輪ずつ個々の世界で完結しているみたいだ。
何だか――都会のスクランブル交差点に似ている。
大勢が集っていても、交流がない。数多の『個』だけが林立しているのだ。
秋分の日が日曜日になったので、週末から振替休日の月曜日まで3連休が訪れた。
この時期の受験生に取っては、行楽が期待できるはずもなく、お陰様で勉強三昧だ。
連休2日目――秋分の日の早朝。
連日深夜まで机にかじりついているので、すっかり首回りが張っている。
集中力が切れた頭で室内灯を消すと、カーテンがほの白くなっていた。
夜明けが近いようだ。
ふと――カーテンの隙間から外を見る。
朝日が顔を出す前。初秋の淡いモヤが漂っていた。
これは、昨日の日中の熱が、まだ残っている証だ。
その幻想的な白い闇の中に人影が――目を凝らすと、白いブラウス姿の夏美さんが庭にいた。
彼女は、両腕に収まり切らない程の、あの大きなクマのぬいぐるみを愛しそうに抱えていた。
はっきりと表情は分からない。
ただ、大切そうに腕に抱くクマに向かって、時折、何か話し掛けているようだった。
見てはいけないものを覗いてしまった気がした。
僕はカーテンを揺らさないように、静かに閉めた。
徹夜明けの脳味噌はぼんやり思考が鈍く、隣人の不思議な行動の意味に思い巡らせても、答えは出ない。
諦めてベッドに身体を投げ出すと、泥水のような眠りの濁流が意識を引き摺り込んで、深く沈めた。
-*-*-*-
翌日、振替休日の月曜日。
正午近くに起き出すと、母さんが、午後から久しぶりのオバ友会を開くと言う。
親父は休日出勤の接待ゴルフだとかで、既に出掛けた後だった。恐らく『接待』は口実で、我が家のリビングが占拠されることを見越して退散したに違いない。
僕もまた、オバ友会が始まる前に、食料諸々を確保して、自室に引き上げた。
夕方、トイレに降りた時、いつもの平均年齢の高い笑い声ではなく、押し殺したようなボソボソとした話し声が廊下に漏れ聞こえていた。ドア越しなので、話の内容までは分からない。
奇妙に思い、よほどリビングを覗こうかという誘惑に駈られたが――止めた。
ただ、その声の中に、夏美さんがいない気がして、玄関に並んだ履き物を確認してみた。
案の定、地味なサンダル達の中に、彼女のものらしい靴は見当たらなかった。
その夜――。
「母さん、今日、夏美さん来たの?」
ダイニングテーブルに着きながら、キッチンに声を掛ける。
「……来なかったわよ」
何故か不機嫌そうな答えが返った。
「何だ、まだ体調悪いのか?」
冷奴を肴に、一足先にビールを飲んでいた親父が会話に加わる。
親父は赤黒く日焼けしていた。いわゆるゴルフ焼けだ。
「どうかしら。最近、誘っても断ってばかりだから」
世話好きの母さんが、珍しく素っ気ない。
「……どうかしたのか?」
その様子に親父も妙な印象を受けたらしい。
テーブルに、大皿を持って来た母さんに注目する。
皿には、所狭しと焼き茄子が並んでいる。食卓も季節が動いているのだ。
「何か夏祭りの後から、色々噂が立っちゃってね……声を掛けにくいのよ」
また『噂』だ。
「噂ってアレか? 清瀬さんのお孫さんじゃないかっていう……」
「それもあるんだけど――」
母さんは、茄子にポン酢醤油を豪快にかけた。油をはじいて、ジューッと旨そうな香りが立ち上る。
しかし、料理のポテンシャルを殺ぐようなしかめ面だ。
「ほら、清瀬さんって……殺されたって噂があったでしょ。夏美さんは、真犯人を探しに戻ってきたんじゃないか、って」
「……何だそりゃ」
冷奴に付けていた箸が止まる。親父は呆れ顔で母さんを見た。
「そもそも清瀬さんが殺された訳でもないのに、それに早川さんが清瀬さんのお孫さんと決まった訳でもないのに、か?」
「そうなの。他にも、あの若さで家を買ったからには、清瀬さんの遺産を相続したからだ、とか……何だか訳が分からないのよ」
焼き茄子の上の鰹節が踊る。母さんの戸惑いを体現するかのような、気の抜けた踊りだ。
「噂って無責任だね」
『夏美さんの噂』に辟易した様子の母さんだったが、憤慨気味に吐き出した僕をじっと見た。
「――何?」
「マモル、あんたと陽平君、お隣にお見舞いに行ったでしょ」
「うん」
浮かない表情のまま、母さんは、僕の茶碗にご飯を盛って寄越した。
「家の中に、子どもの写真とか……オモチャとか、何か見なかった?」
「……何で?」
「昼間、婦人会の人達から聞いた夏美さんの噂なんだけど、気になる話があるのよ」
晩酌中の親父の茶碗はそのままに、母さんは自分の赤い茶碗にご飯を盛る。
「お前まで、どうしたんだ」
肴を焼き茄子に変えた親父が、怪訝な眼差しを向けた。
「最近、駅前の商店街で警察が聞き込みをしているらしいの」
警察とは、穏やかでない。
「……聞き込み?」
親父がモゴモゴ茄子に食い付きながら聞き返す。
「3、4歳くらいの女の子を連れた30歳くらいの女性が、半年以内に越して来なかったか――って」
「家出人か何かの『尋ね人』か?」
「尋ね人、って?」
熱々の茄子を飲み込んで、急いで口を挟む。話が流れて行ってしまいそうだった。
「家出とか失踪とかの行方不明者のことだ。『この人を見掛けませんでしたか』って、よく駅とか交番とかにポスターが貼ってあるだろ」
「ああ……」
「そういうのとは違うのよ。……少し前に、隣町で男性の変死事件があったでしょ?」
親父の説明を否定して、母さんの話は突飛な展開に進む。
「変死? ……そんなことあったか?」
「さぁ……?」
親父と顔を見合わす。
噂には疎くても、事件ならニュースで聞いているはずだが、思い当たらない。
「もう! これだから、うちの男って」
間の抜けた父子にうんざりしたように、母さんは首を振った。
「暑くなる少し前じゃなかったかしら? とにかく、亡くなった男性には奥さんと女の子がいたらしいんだけど、二人とも見つからないんですって」
「……まさか、早川さんが、その奥さんだっていうのか? 子どもなんて見たことないだろ」
慌てて茄子を飲み込んで、親父は目を白黒させる。焼き茄子は意外と芯が熱いのだ。
「そうなんだけど、そこが――無責任な噂話で、子どもも死んでるんじゃないかとか……庭に埋めたんじゃないかとか」
だから母さんは、僕に写真やオモチャを見なかったか、と聞いたのか?
途端、怒りがこみ上げてきた。母さんにも、オバ友会での無責任な噂話にも。
「もういいよ!」
「マモル……?」
隣の親父が驚いている。
そうだろう。僕は両親に声を荒げることはほとんどない。
反抗期の中3の時でさえ、比較的穏やかに過ぎたと自負しているのだ。
「まさか、母さんまで、そんなバカな噂、信じてるんじゃないだろ?! 僕とヨウヘイは2回家に上がったけど、子どもの写真もオモチャも何もなかったよ!」
「……そうよね、悪かったわ」
母さんに悪気がないのは分かっている。けれど、火のついた怒りはなかなか収まりそうにない。
「ごちそうさま。何か食欲無くなった」
心にもない言葉を吐きたくなかったので、自制心が働く内に箸を置いた。
「おい、マモル」
「……勉強する」
憮然とした気持ちをもてあまし、ダイニングを後にした。
口実にしたものの勉強が手に付くはずもなく、カーテンを細く開けて隣家を眺めた。
月明かりのない闇の中、街灯に照されてコスモスが揺れている。
夏美さん家には、灯りは見えず、在宅かどうかもわからない。
しばらく窓辺で過ごしたが、所在なくカーテンを引いた。
-*-*-*-
翌朝。昨夜のことが気まずく、いつもより早く家を出た。
夏美さん家の庭は、コスモスに覆われているが――今朝はその向こうのベランダに、茶色い影が見える。
巨大なクマのぬいぐるみを『子ども』がいたことの痕跡だというのなら、オモチャはあったと言えるだろう。
だけど――。
あの無責任な噂のように、もし夏美さんが自分の子どもを殺したり、庭に埋めたのなら、子どもに繋がるぬいぐるみなんて、目に付くベランダに置くだろうか?
釈然としない気分のまま登校した。
「――あ! 嘉山っ!」
僕が教室に入るなり、吉田が血相を変えて飛んできた。
「……な、何だよ?!」
「ちょっと、こっち来て!」
机にカバンを置くこともできずに、吉田にグイグイ腕を捕まれて、引っ張られる。
既に教室にいた数人が、面白いモノを見るようなニヤケ顔で僕らを見ていた。
「おい……吉田?」
屋上に繋がる階段の陰まで僕を連れて来た吉田は、早口に囁いた。
「嘉山……! 昨日、うちに警察が来たわ」
その言葉で、言わんとしていることが分かり、自然と血の気が引いていくのを感じた。
「……その様子じゃ、嘉山も、あの噂知っているのね」
「だけど! 夏美さんには子どもなんていないだろ?!」
「バカ! 声、大きい!」
「――あ」
慌てて口を押さえる。周囲に人影はないが、いかんせん狭い校舎だ。迂闊なことは言えない。
「由美ん家にも来たって」
吉田は、階段の陰から顔だけ出して無人を確認してから、更に声を潜めた。
「確かに子どもの姿は見ないけど……警察が探している女性に、年恰好が似てるらしいわ」
母さんの話では、警察が探しているのは『半年以内に越して来た、30代の女性』――だっけ?
いくらこの町が片田舎だとしても、そんな人物は夏美さんの他にもいるんじゃないのか?
「吉田、隣町の事件って、知ってるか?」
一瞬、真顔になった吉田は、僕を見ながらゆっくりと眉を寄せる。
「……もしかして、知らないの、嘉山?」
「あー……うん」
信じられない、という目付きで眺めた後、吉田は壁に凭れて何もない床に視線を落とした。
「7月くらいじゃなかったかな、鍵のかかったマンションの部屋の中から、30代くらいの男性の腐乱死体が見つかったそうよ」
「フラン?」
昨夜の噂話では『変死』じゃなかったっけ?
「暑い季節だから。詳しく言わせないでよ」
ボソッと吐き捨てる吉田。脳内で漢字変換して納得する。
「……あー、ごめん」
「その家には、女の子と奥さんも暮らしていたのに、死体が見つかる少し前から、誰も見掛けていないらしいの。奥さんが事情を知っているんじゃないか、って、警察が探しているのよ」
夫の死体を残して、消えた妻子。
警察が動いているところを見ると、殺人の可能性も視野に入れているに違いない。
「……早川さんの名前、数人から上がっているみたい」
「夕べ、母さんも言ってた。オバ……婦人会で話題になっている、って」
「――大丈夫かな、加賀美クン……」
吉田の心配の相手は、当然だが夏美さんではない。
噂話に傷付くであろう、ヨウヘイだ。
「とりあえず、教室戻ろうぜ」
言った途端に予鈴が鳴った。吉田が壁から背中を離して、身を起こす。
「私、先に行くから、ちょっと時間置いて来てよ、嘉山」
僕をチラリと見上げ、偉そうに指示を出す。強がっているが、眼鏡の奥の瞳からは不安の色が覗いた。
「……はいはい」
余計なことを言わずに、彼女の後ろ姿を見送る。
シャンプーの残り香を漂わせ、吉田が駆けて行った。
時計を見ながら、僕は遅刻にならないように、急いで教室に戻った。
――その日、ヨウヘイは登校して来なかった。