夏の終わり
夏休み明けの模試の結果は、予想より良かった。
三者面談でも、楽勝ではないにせよ、今の成績をキープできれば合格できるだろうという太鼓判を貰った。
「やっぱり塾が良かったのかしらねぇ」
三者面談の帰り道のこと――母さんは上機嫌だ。
そりゃあ、塾のお陰は否めないが、僕の努力ってものも、少しは認めて欲しいもんだ。
内心ふて腐れる気持ちもあるが、それ以上に受験への好感触が僕自身のテンションをも高めていたので、余計な口はつぐんだ。
「――あら。咲き出したわね」
夏美さん家の前を通りながら、庭の様子を眺める。
茎丈は既に1mを超え、ワサワサと緑の雲海みたいだ。その中でコスモスが、ポツリポツリ花を付けている。
家に入り際、身を乗り出してお隣のベランダを見ると、栗毛色のクマの頭がチラッと確認できた。
満開まで、もう暫くかかりそうだ。
気温も猛暑の峠は越えたようだし――そろそろ夏美さんは元気を取り戻すだろうか。
-*-*-*-
「――マモル君!」
学校帰り、神社の石段脇を通りかかった時、突然呼び止められた。
「えっ……?」
振り向くと、十数段上から夏美さんが降りて来た。
デニムのスキニーパンツに、ナチュラルベージュの七分丈のチュニック姿。肩から白いポーチをかけている。
「体調、良くなったんですか?」
「……ええ、お陰様で。心配かけて、ごめんなさい」
「いや――心配もしたけど……」
お見舞いの日のことが甦り、言葉を濁してしまう。
「恥ずかしい所、見せちゃったわね。陽平君にも悪いことしたわ」
石段を降りきって、隣を歩く夏美さんは、これまでと違い、どこかサバサバとした雰囲気だ。
「――あのね、待ってたの」
早足で僕を追い越すと、2、3歩先でクルリ振り返った。
「え……」
「これ、お見舞いのお礼」
笑顔で彼女が差し出したのは、石段の上の神社の袋だった。
「ありがとうございます」
遠慮なく受け取って、中を見る。紫紺の生地に白い刺繍で『合格守』と書いてある。
その下に、薄いグリーンの細長い紙が入っていた。
取り出すと、手作りの栞だ。ペパーミントグリーンの台紙に、二輪、コスモスの押し花が貼り付いている。
濃いピンクが一輪、寄り添うように、淡い桃色の小さい花が一輪。
栞の上部に開いた丸い穴には、白いリボンが結ばれている。
夏美さんらしく品のいい、可愛らしい栞だ。
「お守りは、もう持っていたらごめんね」
「――いえ、持ってないです。ありがとうございます」
「良かった」
照れたように微笑み、彼女はポーチから同じ袋をもう1つ取り出した。
「これ、陽平君に渡して貰えるかしら?」
差し出した袋をじっと見る。
「すみません、夏美さん。帰ったら、すぐヨウヘイを呼ぶから――アイツに直接、渡してやって貰えませんか?」
彼女の頬が微かに色づいたように見えたのは、光の加減かもしれない。
「……そうね、お礼だものね。それじゃ、お二人で家に来て貰える?」
「――え、僕も?」
夏美さんは、にっこり笑った。
9月の半ば――夏美さん家のコスモスは三分咲きになっていた。
-*-*-*-
僕からの電話を受け、驚くべき速さでヨウヘイは駆けつけた。
「お前、飛んできたんじゃねーの?」
冷やかしてみるものの、実際、ヨウヘイは汗ひとつかいていないどころか、ほとんど息も乱していない。
「ブランク開いても、元レギュラーの外野手をナメんじゃねーぞ?」
気分を害することもなく、不敵にニヤリとした。
そうだった。守備には定評があったんだよな、コイツ。
「分かった、分かった。夏美さんを待たせんなよな」
「おう、行くぞっ!」
ヨウヘイは僕を引きずらんばかりの勢いで、歩き出した。
夏美さんは、笑顔でリビングに迎えてくれた。
「わざわざ来てくれて、ありがとうね」
カルピスなのか、氷の浮いた白い液体が入ったグラスを3つ、白いテーブルに置く。
僕らのために用意してくれたのかもしれない。
「いえっ! 夏美さん、お元気になられたんですね!」
白い歯を見せたヨウヘイは、ソファで90度に姿勢を正す。
「ええ……ありがとう。この前は、ごめんなさいね、陽平君」
やっぱり、夏美さんはどこか違う。
本来の彼女を僕は知らないが、これまで纏っていた儚な気な……守りたくなるような雰囲気がない。
代わりに、気丈さが全面に感じられる。
「そんな、オレの方こそ不躾で、すみませんでした」
夏美さんは、柔らかく微笑んだ。
「さっき――マモル君にも渡したんだけど、これね、お見舞いに来てくれたお礼です」
僕をチラッと横目で見て、しかしヨウヘイは
「いただいていいんですか」
と遠慮してみせた。
「ええ――受け取って貰えると嬉しいわ」
「ありがとうございます!」
ヨウヘイは満面の笑顔で神社の袋を受け取った。
そうか……吉田はこの笑顔にホレたのか。
突然、吉田の涙顔が甦り、何故か動揺した。
「二人とも、受験頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
「はいっ! ありがとうございます」
僕の声は隣のバカスピーカーにほとんど掻き消された。
「栞の花、庭のコスモスですよね?」
袋の中身を確認したヨウヘイは、ふと真顔でベランダの方を見た。
「ええ」
「夏美さん、庭見てもいいですか?」
恐らく、深い意味はなかったのだろうが、ヨウヘイの質問に、思わず息を飲んだ。
夏美さんは、表情を変えずに立ち上がると、先にベランダに案内した。
「いいわよ。どうぞ」
リビングとベランダを仕切る薄いレースのカーテンを引く。
そこに――クマはいなかった。
ヨウヘイがソファを立ったので、僕も釣られてベランダに進んだ。
夏美さん、ヨウヘイ、僕、三人が横一列に並んで庭に対峙する。
「満開になったら、迫力ありそうですね」
「……迫力?」
ヨウヘイの妙な感想に、夏美さんは聞き返す。
「だって――花って1つ1つが生命でしょう? 無数の生命が犇めくんだろうな」
「――――」
夏美さんの横顔が、一瞬強張ったように見えた。
「オレ……甲子園での優勝が夢だったんです」
ドキンとした。
あの夏――昨年の8月を思い出す。
県大会で優勝し、僕らの高校は10年振りの甲子園出場に沸いた。
ヨウヘイはスタメンで、7番ライトでグラウンドに立った。
吉田も記録員として、ベンチで戦況を見守っていた。
学校を上げて駆けつけた大応援団が、声を枯らした。
1回戦、7回ウラ。0対0の白熱した投手戦。
我が校が守りに付く直前、俄か雨が試合を中断した。
スタンドも慌てたが、水を差されたピッチャーが、一番動揺していた。
5分間の中断と、グラウンド整備の間、肩に張りが出ていたと、後から聞いた。
エースは、違和感を抱えたまま、再開したマウンドに立った。
2アウト、ランナー2塁。
フルカウントで投じた7球目、145kmのストレートは金属バットの鋭い音と共に、ライトを強襲した。
長打を警戒するバッターではなかった。
ヨウヘイは、守りの定位置から懸命に走り、帽子を飛ばして――フェンス際でジャンプした。
白球は、彼のグラブに収まっていた。
ファインプレーに、甲子園が大歓声に包まれ、僕まで鳥肌が立ったのを覚えている。
あの時、スタンドに向かって見せたヨウヘイの笑顔以上に輝いた表情を、僕はまだ知らない。
「一度だけ、オレ、守備で活躍して……その時見上げたアルプススタンドが、生き物みたいに大きく波打って、生命の迫力っていうのを感じたんです」
あの7回ウラ。
先制のピンチを救った立役者は、僕らを振り返って、そんな風に感じていたのか。
ヨウヘイとは長い付き合いなのに、そんな話は口にしたことがなかった。
「――素敵な経験だったのね……」
夏美さんは、少し寂しそうに呟いた。
「負けちゃったんですけど、オレの宝物です」
ヨウヘイは笑顔だ。
あの試合、甲子園に棲むという魔物は、9回のウラに牙を剥いた。
0対0が続いた9回のオモテ、我が校の攻撃は、スコアボードに奇跡的な『1』を刻んだ。
あと、アウト3つ。
ベンチもスタンドも、祈るように叫んだ。
でもエースは、8回で限界を超えていた。
監督は、交代も打診したが、最後まで投げると言い切ったそうだ。
実は、控えの1年生投手は夏風邪気味で、本調子には程遠かったらしい。
エースは責任感の強い男だった。
9回ウラ、1アウト、フルベース。
絶体絶命のピンチ、相手チームの6番打者が打席に立った。
この日、2安打している強打者だ。
エースは一番自信のあるストレートを選んだ。
渾身の一球――。
金属音を響かせて、またもやライト線に飛んだ。
ヨウヘイは、7回ウラのように走ったが、打球は彼の遥か頭上――真っ直ぐ吸い込まれるようにスタンドに消えて行った。
野球部の夏が終わった瞬間だった。
「満開になったら、また見に来てもいいですか?」
庭に視線を投げたまま、ヨウヘイが静かに聞いた。
夏美さんは、すぐには答えない。
沈黙が少しずつ重みを増していく。
「――ごめんなさい」
やっと絞り出すように、夏美さんは呟いた。
「もう……ここに来てはいけないわ」
「夏美さん……」
名前を呼んだものの、ヨウヘイの言葉は続かない。
僕は――何故か、予感していた。
神社のお守りを渡された時、何だか夏美さんを遠く感じていた。
何かを心に決めたような潔さすら、彼女には漂っていた。
「陽平君も、マモル君も、大切な時期でしょう? 私なんかに関わっては、だめ」
そして、夏美さんは泣きそうな瞳で、とびきりの笑顔を僕らに向ける。
「あなた達は素敵な子だから、ちゃんと前に進みなさいね」
命令口調で大人振り、彼女は僕らを無理に突き放そうとしているようだ。
「――分かりました」
意外にも、ヨウヘイはきっぱりと答えた。
僕を背にして、彼は夏美さんに向き直る。
「オレ、ちゃんと受験勉強して、大学生になります。そしたら、コスモスが咲いて無くても、ここに来ます!」
『好き』という恋心を告げなくとも、告白したも同然だ。
夏美さんはちょっと眩しそうにヨウヘイを見上げた後、
「ありがとう。気持ちだけで充分だわ」
俯いて、首を横に振った。
「いえ、これだけは譲れないです。オレ、絶対に来ます!」
いつの間にか頼もしくなった広い背中。
表情は見えずとも、ヨウヘイの真剣さが滲み出ている。
「陽平君……」
「夏美さん、お守りと栞、ありがとうございました。大切にします」
長身をペコリと折り曲げ、一礼した。
それから、くるりと僕を振り返った。
「帰ろう、マモル」
「ああ……」
勢いで頷いたが、リビングに戻り掛けたヨウヘイを置いて、僕は立ち止まる。
「夏美さん、1つだけ約束してもらえませんか」
「――え」
「僕らに黙って、どこかに引っ越したり……消えないって、約束してください」
この約束は、ヨウヘイのため――という思いもあるが、何より僕の中の嫌な予感を打ち壊したかったからかもしれない。
「消えないわ」
一度目を伏せた後、夏美さんは真っ直ぐに僕を見つめた。
戸惑いの消えた、強い意志が見て取れた。笑顔はなかった。
僕は、その瞳を信じたい――そう思った。