幼なじみの秘密
帰宅した途端、キッチンから母さんが僕を呼んだ。
「マモル、アヤカちゃんから電話あったわよ!」
部屋に直行しかけていた足を、リビングに向ける。
「――え、アヤカって誰だよ?」
聞き慣れない名前に、記憶の検索が働かない。
「何言ってるの! 吉田薬局のアヤカちゃんよ!」
――吉田……アイツか!
つい先日、夏祭りの夜に会った眼鏡顔が甦る。
「何の用だって?」
「知らないわよ。あんた、ちゃんと電話しなさいよ」
――何で僕が……?
母さんとの間に女同士のよく分からない約束でも交わしたのか、とりあえず逆らわないことにした。
ローボードの隣にある電話器の前に行き、壁に貼られた町内会や商店街の電話番号リストから『吉田薬局』を探す。
「毎度ありがとうございます。吉田薬局です」
吉田のおばさんの明るい声が出る。
「こんにちは。嘉山です。さっき彩花さんから電話があったみたいなんですけど、いらっしゃいますか?」
「あら、マモル君! ちょっと待ってね、家の方に転送するから」
「はい」
薬局の店舗から、2階の自宅を呼び出す間、『グリーンスリーブス』が流れる。
「――はい、吉田です」
2回り目の途中で、吉田彩花が出た。
「嘉山だけど。何か用?」
「あ、嘉山。これから、出られる?」
「何だよ。電話じゃダメかよ」
「……駅前のマック。何か奢るから」
「あー別にいいけど、3時半くらいでいい?」
「ありがと。待ってる」
プツッ、と素っ気なく電話が切れる。
「――ちょっと出掛けてくる」
「はいはい。晩ごはんまでに戻るのよ」
「うん」
たまの塾の休みなのに、何だか今日は慌ただしい日だ。
夏美さん家の前を通りながら、この広い家の中で泣いているだろう彼女を思うと、ヨウヘイならずとも胸が痛む。
『優しくされる資格がない』
どうしてそんなふうに考えるのか――夏美さんが抱えている『何か』が何なのか、この時の僕には想像もつかなかった。
-*-*-*-
夕方近くとはいえ、まだ暑い。サッと汗ばんだ額をぬぐって、待ち合わせのマックに入る。
しっかり冷えた空気が心地良い。
「――嘉山、こっち!」
声がした方を見ると、クリーム色のボーダーTシャツの吉田が手を挙げている。
「やだ。違う服着てくるんだった」
言われてみれば、僕は黄色のボーダーTシャツ姿だ。
田舎のバカップルじゃあるまいし、ペアルックなんて冗談じゃない。
ましてや、コイツとなんて。
「……仕方ないだろ。で、何の用だよ」
「ちょっと待って。何か食べる?」
「いや……夕飯前だから」
「奢るわよ」
「じゃ、コーラ。Lな」
「了解」
吉田は、癖毛をフワッとまとめたポニーテールを揺らしてレジに向かった。
夏休み中のファストフード店は、10代の溜まり場だ。カウンターからテーブル席まで、安さと涼に惹き付けられて、軽快な音楽が掻き消されるほどの賑わいだ。
「お待たせ」
「おう。悪いな」
戻ってきた吉田から、Lサイズの紙コップを受け取る。
吉田は向かいのイスに、ちょこんと座り、自分のMサイズのドリンクに口をつけた。
「あのね……嘉山。今日、加賀美クンに会った?」
「――は?」
話が見えない。だが吉田は思い詰めた表情をした。
「嘉山……誰にも言わないって、約束してくれる?」
「だから、何の話だよ」
「約束して」
「……分かった」
「約束、して!」
「約束するよ」
迫力に圧され、内容も分からないのに、勢いで『約束』してしまった。
口約束でも安心したのか、吉田は乗り出していた身をイスに沈めた。
「私……好きなの」
思いがけない告白に、大きくむせた。
「バカ! 嘉山のことじゃないわよ!」
吉田は慌てて否定する。
今の勘違いは、僕のせいじゃないぞ。
「――まさか、ヨウヘイ?」
気の強い吉田がパッと頬を染めた。その女っぽい様子にビックリした。
「え……ええっ?!」
「私、1年の時から同じクラスだったの。爽やかで格好いいなあって……それで、野球部のマネージャーになったの」
マジかよ。
僕は言葉にせずに吉田をジッと見ていた。
思い返すと、高1になってからだ――僕を『嘉山』と呼ぶようになったのは。
「お昼過ぎに由美からメールが来たの。商店街の花屋さんで、加賀美クンが薔薇の花束を買ってたって」
吉田の話に登場した『由美』――長谷川由美は、クラスの女子で商店街のパン屋の娘だ。
商店街つながりで、吉田と長谷川は仲が良い。
そういえば、『長谷川パン』の斜め向かいが、花屋だったっけ。
「嘉山、今日加賀美クンと会った?」
最初の質問の意味が、少し掴めてきた。
「……会ったけど?」
「加賀美クン……早川さん家に行ったの?」
「何で?」
「……だって、加賀美クン、早川さんに夢中でしょ?」
バレている。
一体いつから……と考えて、夏祭りの夜を思い出した。
夏美さんを見て呆けていたヨウヘイの姿を、多分吉田は見ていたのだろう。
「加賀美クン、告白したの?」
僕が返答に窮すると、彼女は探るような視線を向けてきた。
「それ聞いて、どうするつもりだよ」
「――嘉山、意地悪ね」
聞けば何でもホイホイ答えるお人好しとでも見られていたのか?
幼なじみの誼みではあるが、今の僕には男の友情の方が重い。
「お前、ヨウヘイに告るのかよ」
「それができれば……とっくにしてるわよ!」
眼鏡越しの瞳が苦し気に睨む。
気の強い世話焼き女――ここしばらく、僕の中で定着していた吉田のイメージが崩れる。
友達からの『薔薇の花束を買った』という情報に振り回されてしまうくらいだ。
コイツもコイツなりに真剣なんだろう。
「アイツ……ヨウヘイさ、夏美さんのこと、真剣だよ。だけど、受験が終わるまでは告らないって言ってる」
吉田が絶句した。
それから、少し泣きそうに瞳を潤ませた。
「お前もヨウヘイのこと真剣なら……もし告るなら、タイミング考えた方がいいよ」
「――嘉山」
「約束は守るから。お前も頑張れな」
ずっと、2年以上片思いだった男が、自分よりかなり年上の女性に熱を上げている。
同級生か――少なくとも高校生がライバルなら、まだ同じ土俵で頑張れるだろうに。
どんなに背伸びや努力をしたところで、所詮同級生だ。夏美さんが醸し出すような大人の余裕や色香は、吉田には到底無理だ。
「ありがと……」
眼鏡を外して、滲んだ目尻を拭う。
コイツ……コンタクトにした方が可愛いかもな。
そんなことを考えた自分にちょっと驚き――すっかり汗をかいたコーラを流し込んだ。
「お礼にひとつ教えてあげる。早川さんて、隣町で看護師さんしてたそうよ」
少し赤い目は、数時間前の夏美さんにダブって見えた。
1日――しかも短時間の内に、二人の女性の涙を目にするなんて、どういう日なんだ。
「何でそんなこと知ってんだよ?」
「昨年の春、由美のおじいちゃんが隣町の病院に入院していた時、会ったんだって」
「どこで?」
「だから、病院。内科の入院病棟の看護師さんだったって」
ちょっと呆れたように吉田が補足する。
夏美さんのナース姿は、案外すんなり想像できた。
「その時は『早川』じゃなくて『八木山』さんって名前だったから……」
そこで吉田はちょっと辺りを見回して、声を潜めた。
「離婚――したのかもしれないって」
「待てよ。名字が違うなら、別人だったんじゃないのか?」
ううん、と首を振って、ドリンクに口を付ける。充分、間を置いてから、吉田は上目遣いに秘密めかした。
「先月、由美の家に早川さんが買い物に来たんだけど、『あら、八木山さん』って由美のおばさんが声を掛けたら、真っ青になったらしいの」
1年近く前にちょっと会っただけで、よく覚えているものだ。
感心するが、僕の母さんもその類いの記憶力は超人的なので、あり得ない話ではない。
特に――女って、誰それに似てる、とか、いつどこで見掛けた、とか、探偵並の能力に長けているんだよな。
「うーん……離婚したことを知られたくなかったのかなあ」
「さぁ……それ以上は知らないわ。でも、竹田さんのおじいさんは『清瀬さん』って呼んでたよね?」
僕は答えず、コーラを飲んだ。ストローがゾゾゾッと音を立てた。
『清瀬』『八木山』……『早川』。
夏美さんを巡る幾つかの名字。
どれが一体本当の名前なのだろう。
それとも――全てがフェイクなのだろうか?
「嘉山……あんたも早川さんのこと好きなの?」
紙コップのストローでザクザク氷をかき回しながら、吉田は思い出したように僕を覗き込んだ。
「いや――何で?」
「だって。単なる隣人にしては、気にし過ぎじゃない?」
そうかもしれない。
引っ越して来たのが前の秋吉さん家みたいな家族や、オッサンの独り暮らしだったら、僕は全く関心を寄せなかっただろう。
あの6月――赤いレインコート姿を見た時から、僕は夏美さんが気になっていた。
「……コスモスを植えたんだよ」
「――え」
氷をかき回す手を止め、彼女は怪訝な眼差しを向ける。
「言ったんだ、夏美さん。『昔みたいに、庭一面に咲かせるんだ』って」
「どういうこと?」
「分からない。でも、夏美さんが言う『昔』っていうのは、恐らく『清瀬さん』が住んでた頃のことみたいなんだ」
テーブルに頬杖をついて、彼女はちょっと小首を傾げる。
僕は所在なく店内に視線を投げた。夕方が近づき、だんだんと賑わいが引いていく。潮騒のように。
「――何か、秘密があるのね」
吉田が不意に呟いた。
そこに好奇心の気配は感じない。恋敵の情報を、彼女はどんな気持ちで受け止めているのだろうか。
「……言うなよ。長谷川にも」
「分かった。約束する」
「おう」
「今日はありがとね、嘉山。貴重な休みの日に」
真面目な顔で頷いた後、少し照れたように吉田は微笑んだ。
睨んだり、涙ぐんだり、はにかんだり……くるくる変わる彼女の顔を、こんなにじっくり見たのは初めてかもしれない。
「いや、いいよ」
「そろそろ出る? あ、弟達にシェイク買って帰るって言ってきたから、先に行って」
空になった紙コップをヒョイと取り上げ、自分のトレイに乗せて立ち上がる。
こういう然り気無く気が利く辺り、実に吉田らしい。
「あ、サンキュ。それじゃ、ご馳走さま」
ポニーテールを揺らして、彼女は再びレジに向かった。
店外に出ると、昼間の暑さの名残が肌にまとわりついた。
夕暮れには、まだ早い。帰ったら受験生に戻らなくては。
来週――9月には新学期だ。夏休み明け早々、模試がある。この成績を元に、三者面談があり、8割方の進路が決まる。
様々な思いが交錯した夏が終わろうとしていた。
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もうすぐ。
もうすぐよ、サクラ、ソラ。
今朝、最初の一輪が咲いたわ。
桜色の小さなコスモス。
濃いピンクや淡い桃色、白い花も咲くわ。
ふわふわとした黄緑色の茎葉が風に揺れると、大小沢山の小花も揺れて――さわさわ……さわさわ……天使達が囁いているみたいなの。
ねぇ、サクラ、ソラ。
もうすぐ、あなた達にも見せてあげるからね。
おじいちゃん、おばあちゃん……あの庭を取り戻すから、私達を見守っていてね――。