新しい季節
あれから3ヶ月が経ち、夏美さんの事件は、ゆっくりと日常の狭間に溶けて行った。
新し物好きのマスコミは、最初の1ヶ月こそ張り付くような取材攻勢で、みな辟易したものだった。しかし、親父を始めとしたご近所から、警察の生活安全課に苦情が相次ぐと、呆気なく撤退した。
結局、渦中の夏美さんが亡くなっていることが、取材を暗礁に乗せたらしい。
更に、彼女が越して来てから数ヶ月しか経っておらず、詳しい事情を知る人もいないことが、世間の関心を失わせたのだ。
目下、ワイドショーを賑わせているのは、クリスマスに発覚した若手人気俳優の二股不倫騒動である。
僕はといえば、高校生活最後の冬休みに入っていた。 新年を迎え――センター試験を目前に控えた、1月5日。
突然、吉田が初詣に行こうと誘って来た。
「……何で、僕らだよ? 長谷川と行かないのかよ」
眼鏡をコンタクトに変えた吉田は、薄紅色のダッフルコートを着込んでいる。フワフワの白いマフラーがちょっと……可愛い。
「相変わらず意地悪ね、嘉山」
吉田は、階段裏に呼び出した、あの翌日から、再び僕を名字で呼んでいる。僕の懐かしい愛称は、あれ切り聞くことはない。
「――で、何でオレも一緒なんだよ」
僕のちょっと後ろをついてくるヨウヘイも、解せないという面持ちで吉田を見た。
「実は……見て欲しいものがあるの。嘉山にも、加賀美クンにも」
一昨日のみぞれが足元を悪くしていたが、僕らは石段を避けて住宅街の砂利道を進んだ。
まだ正午を少し過ぎた時間なのに、空は冬特有の重い雲が低く垂れ込めた曇天だ。
「見て欲しいもの? 何だよ、単なる初詣にしてはヘンだと思ったよ」
隣を歩く彼女の表情を探りながら、オレンジ色のダウンのポケットに両手を突っ込む。
時折吹き抜ける湿った風に、手袋をはめていない指先が冷たくなってきた。
「ごめんね。でも……もうすぐ、どんど焼きでしょ? その前に、来て欲しかったのよ」
『どんど焼き』とは、正月飾りや注連縄などを神社で焚き上げる、小正月の行事だ。この火に乗って歳神様は天に還るとされ、またその火にあたると1年間無病息災で過ごせるとも言われている。
小さい頃は、確かに両親に伴われて境内に来た記憶があるが――いつの頃からか、そんな行事の存在すら忘れてしまっていた。
「どんど焼きが何なんだ?」
紺のモッズコートの襟を立てるヨウヘイ。彼はまだ願掛け中の坊主頭に、ロシア人のような毛足の長い帽子を深く被っている。
彼が尋ねたところで、ちょうど住宅街を抜け、神社の拝殿の裏側が見えて来た。
「……参拝の前に、ついて来てくれる?」
問いに答えずに、吉田は緊張を浮かべた眼差しを僕らに向けた。
ヨウヘイと僕は、チラと視線を交わして、黙って従った。
砂利を踏みながら、拝殿をぐるりと表に回る。
そこに、夥しい数の絵馬が掛けられていた。
「宮司さんに聞いたら、ここの絵馬は元日より前に掛けられたものは、15日のどんど焼きで焚き上げるんだって」
そう言いながら吉田は、狙い定めた一角の絵馬を丁寧に確認し始めた。
訳が分からず、男二人、彼女の行動をじっと見守る。
「……あった!」
吹き抜けた冷たい風に、ちょっと顔をしかめながら、寒さではない何かに頬を上気させて振り返る。
「これ……見てもらえる?」
吉田は、何故か悲し気に目を伏せた。
僕らは頷くと、示された2枚の絵馬をそれぞれ手に取り――揃って固まった。
「――まさか……」
ヨウヘイの声が震える。
「夏美さんだ……」
「元日に由美と初詣に来たの。絵馬を書いて、結ぶ場所を探していて、偶然見つけたのよ」
静かに紡いだ吉田の言い訳は、もう風の音に似て、耳に入らない。
僕とヨウヘイ、それぞれに1枚ずつ――夏美さんからのメッセージが、小さな文字で綴られている。
『マモル君。もし、あなたがこの絵馬を見つけても、その時、私はいないことでしょう。黙って幕を引いたこと、あなたには嘘をついてごめんなさい。』
鼓動が早くなるのを抑えられない。息を飲んで、続きを急ぐ。
『私の正体は、多分色々耳にしていると思います。それが正しいかどうか……私には分かりません。私は幼い頃、あなたの家の隣に祖父母と暮らしていました。それから、色々なことがあって、この町には物語を終えるために戻ってきました。』
サラリと書かれた『色々なこと』とは――マスコミの報道で聞き及んでいる内容を指すのだろう。
丁寧に記された文字が微かに滲んでいるのは、一昨日のみぞれに濡れたせいだろうか。
『あなたは、初めて庭で話した時から、勘のいい子だと思いました。そして話す内に、とても優しい子だと知りました。こんな私を気遣い、優しくしてくれて、本当にありがとう。多感な時期に、私なんかと関わり……悪い影響がないことだけを願います。どうか、あなたの目標が実現しますように。コスモスの風に乗せて、幸せを祈っています。ナツミ』
いつの間にか流れ出した涙が、止まらない。悲しみでも同情でもない。ただただ、悔しかった。
彼女の思惑や真意、そんなものは何も分からなくて構わない。それでも、あの女性ともっと沢山、話しておけば良かった。
彼女が近くで生きていた数ヶ月間、僕が思い出せる彼女の表情、彼女の姿は、余りにも少なくて――それが、どうしょうもなく悔しい。
「……吉田、教えてくれて、ありがとう」
ヨウヘイの声が震えている。顔を上げると、僕以上に号泣していた。
夏美さんからのメッセージに何が書かれていたのかは分からないが、覗き込むような下世話な真似はしたくなかった。
ひっそりと夏美さんがしたためたように、それぞれの胸に刻み残せばいい。
「……ううん。間に合って、良かった」
そして、僕らの前で佇む吉田も、瞳を真っ赤にして頬を濡らしていた。
「何で……お前が泣くんだよ」
「――だって。絵馬を書いた時の早川さんの気持ちを考えたら、堪らないもの……」
僕に問われた吉田は、ポケットから出したハンカチで、溢れる滴を拭いながら答えた。
恋敵だったはずなのに。吉田の優しさが、更に僕の胸を締め付けた。
「……お前、いいヤツだな」
コートの袖でゴシゴシと顔を拭う。吉田という存在が、遅まきながらヨウヘイの心に届いたらしい。
「加賀美クン……気付くのが遅いわよ?」
涙のせいか、恋心のせいか、吉田は真っ赤に照れた笑顔を浮かべた。
ここに居ない夏美さんの見えざる手が、吉田とヨウヘイの間の歯車を少しだけ動かしたみたいだ。
「ヨウヘイ、せっかくだから、参拝していこうぜ」
「ああ、そうだな」
僕らはもう一度涙の痕を消して、大きく息を付いた。
松の内でもあり、冬休みでもあるせいか、境内には疎らながら人の姿がある。 彼らに混じって、参拝をする。
受験を目前に控え、合格祈願をすべきなのだが、僕は――夏美さんの冥福を祈った。あのクマの中にいた夏美さんの子どもも含めて、どうか魂が安らげますように――。
宗教や神仏への信仰が厚い訳ではない。けれども、夏美さんが参拝したこの神社の神様なら、耳を傾けてくれそうな気がした。
参拝を終えたタイミングでみぞれが降り出した。地上に触れると瞬時に溶けて、積らない小さな氷水。
夏美さんが泣いているのかもしれない。その涙は、嬉し涙であって欲しい。
鳥居をくぐった僕は、敬虔な気持ちで振り返り、もう一度拝殿に一礼した。
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センター試験を終え、僕らは2月に志望校の二次試験を受けた。
3月――。
僕は、本命だった隣県の国立大学の文学部に合格した。
ヨウヘイは、地元で一番偏差値の高い国立大学の社会学部に合格した。センター試験の前まで志望していた教育学部から、いきなりの変更だった。彼の学力からいうと、更に難関の経済学部でも合格確実と見られていたが、「学びたい目標ができた」というしっかりとした動機で社会学部を志していた。
「心理学?」
神社の境内を並んで歩く。僕らは満願成就の報告とお礼を兼ねて、再び参拝に来たのだ。
「ああ。オレさ……DVを無くしたいんだ。DVの被害者に支援ができるような仕事に就きたい」
ヨウヘイは、芝生のように短髪が生え揃った頭を掻いた。合格発表の翌日から、ついに伸ばし始めているのだが、まだ葱坊主みたいだ。
「そうか……頑張れな」
参拝を済ませたものの、すぐに帰る気にはならず、境内の広場を何とはなしにそぞろ歩く。
「おう。こっちに帰って来る時は、連絡しろよ?」
「ああ。お前も遊びに来いな」
今は若葉が芽吹く雑木林だが、所々――神社に重なって思い出が甦る。
恋守りを買いに付き合わされて、夏美さんと会った初夏。
浴衣姿の夏美さんを見掛けた夏祭りの夜。
家出したヨウヘイを怒鳴り付けた、初秋の夕暮れ。
吉田と三人、号泣した冬の午後――。
「そうだなー、お前の作るマズイ飯でも食いに行くかな」
「あー、近所でうまい店探しておくわ」
「……ちゃんと自炊しろよ?」
「うるせぇよ」
僕らは小突きあいながら、敢えてくだらない会話を続けた。
間もなく訪れる卒業の別れを感じて、しんみりしないように、殊更笑い合った。
「……そういえば」
鳥居に向かって歩き出した足を止め、ヨウヘイは真顔で振り返る。
「うん?」
「オレ、吉田に告られた」
「ふうん――って、えええ?!」
受け流し掛けて、慌てて叫んで、むせ返る。
吉田は、隣町の薬科大学に合格したと聞いている。実家を継ぐことを視野に入れ、更に実家から通える大学を選んだ。家族想いの長女らしい――彼女らしい進路選択だった。
「アイツ……眼鏡外してから、綺麗になったよな」
「そ……そうか……な?」
冷静な彼の態度に、答えを測りかねる。何故か、僕が告ったみたいにドキドキしている。
「オレさ、アイツはお前のこと好きなんだと思ってた」
「――はぁっ?! 何でそうなるんだよ?」
「朝のHR前に、二人でどこかに消えたって噂。オレが知らないとでも思ったか?」
「あ――あれか! あれはお前のせいだぞ」
噂に疎いヨウヘイにしては、余計なことを耳にいれたものだ。
「オレ?」
僕に指差された彼は、キョトンと瞬きした。
「お前が無断欠席したから、吉田が心配したんだよ」
ヨウヘイが、この神社で一夜を明かしたあの時のことだ。彼自身思い出したのか、ハッとした表情になった。
「……大体。吉田にしてみたら、僕はお前の情報を得るための検索エンジンみたいな扱いなんだぜ」
「はは……そうか、そりゃ悪かった」
気が抜けたような弛んだ頬。これは――噂を本気にしていたな?
「――で、お前、返事は?」
ヨウヘイは、遠ざかった拝殿横の絵馬奉納所を振り返った。
夏美さんからのメッセージの絵馬は、今年のどんど焼きで空へ還ってしまった。
想いの最後を見届けようと、こっそり境内にやって来た僕は、吉田の弟達に出くわして吉田に見つかり、そのドタバタでヨウヘイにも発見された。
示し合わせた訳ではないが、三人とも胸の内は同じ思いだったのだ。
「……うん。分かるだろ?」
穏やかな横顔。卒業したとはいっても、次の恋に向かうには、まだ早すぎる。
「そうか……」
振られた吉田のことを思うと、切なくなった。
長谷川が慰めてくれているといいが。
「だけど、オレ、ツバつけられたんだぜ」
「へ……ツ、ツバ?」
ヨウヘイは、悪ガキ染みたニヤケ笑いを浮かべ、僕の眼を覗き込んでいる。
「20歳まで互いにフリーだったら、もう一度真剣に考えてほしい、って」
満更でもない得意気な笑顔は、吉田の気持ちが嬉しかったことを表している。
いつか僕がけしかけた言葉以上に、彼女は自分の勇気の背中を蹴飛ばして――微かにヨウヘイの心の尻尾を掴んだみたいだ。
もう、僕が幼なじみの特権で心配する必要はないのだろう。
「そうか。やるなぁ、吉田」
清々しい気持ちでウンと背伸びすると――視界の端に、春の綻びが見えた。
「……桜だ」
「ああ……もう、春なんだなぁ」
鳥居の朱色に隠れるように、薄桃色の花弁が4、5輪。
見上げる僕らの頭上で、温くなった風にくすぐられて、クスクス笑っているみたいだ。
巣立つ者、残る者、じっと変わらずに見守る者――それぞれに新しい季節が訪れる。
噂好きで閉鎖的な片田舎の風土は相変わらずだが、僕は前よりこの町が疎ましくはなくなった。
暮らしている家族がいるし、友達との思い出が転がっている。
川底で木漏れ日に反射する小石のように、思い出は時折記憶の中で眩しく煌めいている。決して、手に取ることは叶わないが、永遠にその輝きは失われないだろう。
「行こうぜ、マモル!」
先に鳥居をくぐったヨウヘイが、爽やかな白い歯を見せた。
「おう!」
答えて、朱色の境界を抜ける。僕らはもう、振り返らなかった。




