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卒業

 二度と成就しない想いを抱えたヨウヘイは、自暴自棄になるかと恐れたが、そんな僕の心配をよそに、当初の志望校の合格圏内の成績を悠々と越えた。

 学校では以前と変わらず明るくよく笑っていたが、ふとした瞬間に憂いの陰りを覗かせることがある。


「――お前、大丈夫なのか」


 放課後の図書館。真剣な眼差しで参考書に向き合うヨウヘイの1つ隣の椅子を引きながら、声を掛けた。


「マモルか。何だよ、突然」


 特段驚いた素振りもなく、ヨウヘイは僕を見上げた。


「お前、無理してるんじゃないのか」


「……どうかな。自分でもよく分からないんだ」


 参考書に栞を挟んで、シャーペンを置く。淡いグリーンに白いリボンの栞。夏美さんがくれた、あの栞だ。


「大丈夫じゃないって。お前、こんなにガリ勉じゃなかっただろ」


「ガリ勉か……」


 僕の言葉を繰り返し、ヨウヘイは自嘲気味に笑った。


「気が付いたら、参考書とか問題集を開いてるんだよな。多分――勉強している間は、他のことを考えなくていいから……楽なんだ」


 言葉に詰まった。

 『他のこと』とは、夏美さんのことだろう。


「……ヨウヘイ」


「俺……合格するまで告るのを我慢したのはさ、返事が良くてもダメでも、受験勉強に響くのが怖かったんだよ」


 秋の短い西日が差し込み、図書係の腕章を付けた生徒が、窓にシェードを下ろし始めた。

 茜色の光が、僕らの手元まで伸び、影を落とす。


「だけど、こんな――急にいなくなっちゃうんだったら、ちゃんと告っておけば良かった」


 僕を見ずに、まだシェードの下りていない窓の向こうに瞳を向けている。

 ヨウヘイの横顔には、哀しみの色が浮かぶ。


「あの甲子園の最終回、覚えているだろ?」


 不意に、彼が僕の顔を正面に捉えた。


「あ――ああ」


「追いかけた打球が、真っ直ぐにスタンドに入っただろ。青空を横切ってさ」


 相手チームの逆転サヨナラホームラン。スタンドに響いた悲鳴と歓声が甦る。グラウンドのヨウヘイは、途方に暮れた眼差しで白球を見送っていた。


「……うん」


「あの時と同じなんだ。見えていたのに、掴めなくて。もう――手が届かないんだ」


 そして、参考書から覗く栞のリボンを、そっと指で触れた。

 胸がキュッと苦しくなる。ヨウヘイの胸の内は、どれ程苦しいことだろう。


「……僕、夏美さんは、お前の気持ち、分かってたと思うぜ」


「――そうかな?」


 覗いた瞳の奥が揺れる。


「お見舞いに真っ赤な薔薇はないだろ? あれは……十分告白だったぞ」


「そう……かな」


 彼の頬が微かに色づく。まるであの日の『告白』のシーンのように。


「お前の気持ちが伝わったから――夏美さん、泣いたんだよ」


 彼女の過去がつまびらかになった今だから、言える。

 『優しくされる資格がない』――そんな風に自分を卑下することで、彼女は他人からの優しさを拒絶していたのだ。

 それは、子ども達を失った絶望が築いた防御壁(バリヤ)だったに違いない。

 彼の直球のような恋心は、その防御壁を貫いたのだと思う。


「そうか……伝わったのか――良かった」


 独り言のように呟いたヨウヘイの目が潤み、ポロポロと涙が溢れた。

 机に伏せることもなく、やや俯くだけだが、その肩が背中が小さく震えた。

 男の涙だ。僕はなだめも励ましもせず、ただ並んで少し俯いていた。


 閉館時間の近づいた館内は閑散としており、彼の涙に気付く者はいない。

 やがて閉館5分前を告げる『蛍の光』のオルゴールバージョンが流れてきた。


「まだ――忘れられないけど、オレ、夏美さんへの想いを卒業するよ」


 ヨウヘイは、シャツの袖で涙を拭い、顔を上げた。

 卒業式を連想させる切ないメロディは、僕らの上に優しく降り注ぐ。


「……そうか」


「あの女性(ひと)を好きになって、ずっと嬉しかったし、楽しかったし――幸せだった」


 想いを思い出に昇華させ、彼は爽快に微笑んだ。

 あの甲子園の夏、試合終了を告げるサイレンの中、泣きながらスタンドの応援に一礼した野球部のナイン。彼らが見せた笑顔に繋がっている。

 何かを全力でやり遂げた者だけが辿り着ける境地なんだろう。


「そうだな。お前、羨ましかったよ」


「――え?」


「夏美さんを好きって気持ちが、あんなに力になるんだなって……。お前、活き活きしてたからな」


「ああ……誰にも負けない、一等の宝物だ」


 照れたように白い歯を覗かせたヨウヘイは、青臭い恋を卒業した、ちょっと大人の匂いがした。

 また眩しく感じたが――それは悔しいから教えてやらないつもりだ。


「すみませーん、閉館ですー」


 入り口付近の貸出カウンターから、図書係の女の子が呼んでいる。


「あ、すみません! すぐ出ます!」


 僕らは立ち上がって頭を下げると、そそくさと館を後にした。

 校舎を出ると釣瓶落としの秋の宵で、柿色の夕陽に代わって、黄金色の満月が実っていた。


-*-*-*-


「――嘉山、ちょっといい?」


 掃除当番の音楽室で黒板を消していると、長谷川由美が僕を呼んだ。

 彼女は、同じ掃除班だ。


「何?」


「掃除終わったら、屋上階段の裏に来てって。彩花が」


「吉田が?」


「そう。忘れないでよ」


 ツンとした澄まし顔は普段と変わらないが、僕を見遣った彼女の眼差しは、何故か厳しい。

 吉田に呼ばれて行かなきゃならない義理などない。とはいえ、無視する理由もないので、「分かった」と短く答えた。


 10分後――掃除を終えたその足で、指定された場所に行くと、既に吉田が階段裏に座り込んでいた。


「――吉田?」


 制服のスカートをパッと払って、立ち上がる。くせ毛のポニーテールもフワリと揺れた。


「呼び出して、ごめん」


 長谷川の雰囲気だと、責め立てられそうな予感が走ったが、意外にも吉田は殊勝な面持ちで頭を下げた。


「いや、いいけど……何だよ?」


「うん――あのね、加賀美クン、何かあった?」


 吉田は眉間に小さな迷いを刻んで、困ったように僕を見た。

 彼女が僕を呼び出す時は、やっぱりヨウヘイの情報を求めている時だ。

 それでも――夏休みのマックの時と違い、彼女は随分遠慮がちだ。僕を情報源とすることに、少しは罪悪感らしきものを抱いているのだろう。


「何か、って?」


「……あの事があってから、ずっと悲しそうだったでしょ。でも、昨日くらいかな……ちょっと明るくなったじゃない?」


 相変わらず、恋する女の観察眼は鋭い。

 ヨウヘイが図書館で『卒業』宣言をして、3日も経っていない。僕が見た所、彼の表面上の変化なんて気付かないが、吉田には分かったようだ。

 内心、感嘆したが、ヨウヘイの心の変化を僕が教えるのもどうかと思う。


「……答えにくいよね。ごめん、嘉山」


 言葉を選んでいると、その沈黙の意味を察した吉田が先回りした。


「でも、気になって。私、励ますことも、慰めることもできないから」


 馬鹿だな、とつくづく思う。思うんだけれど――恋心を持て余している彼女が、酷く可愛らしく感じた。そして、放っておけなかった。


「……アイツさ、夏美さんにちゃんと告らなかったこと、ずっと悔やんでいたんだ。今は――吹っ切れたけど」


「え……」


 不安なままの瞳が揺れる。


「僕が偉そうに言う立場でもないけどさ、お前のタイミングで構わないから、いつか、ちゃんと気持ちを伝えろよな」


 吉田の表情が強張った。

『できるなら、とっくにしてるわよ!』――いつかの彼女の本音を忘れた訳じゃない。


「勇気のいることだとは分かるよ。でも、伝えずに後悔するより、伝えて後悔する方がいいんじゃないか」


 じっと僕を見つめていた吉田の頬が濡れた。突然、ポロポロと溢れた涙に、彼女は慌てて眼鏡を外した。


「……やだ、私っ」


 急いで取り出したハンカチで涙を抑えているが、耳まで真っ赤になっている。


「それと――あのさ」


 言うべきか否か躊躇したが、僕自身も、勇気を絞り出した。


「お前、コンタクトにした方が可愛いよ」


 涙を拭く手がピクリ、止まる。


「嘉山……?」


 潤んだ瞳が、ちょっと上目遣いに訝しむ。僕の真意を掴みかねる――そんな戸惑いを満面に滲ませて。

 改めて見つめられると、心臓が動揺して跳ねた。


「こんなことしか言えないけどさ……頑張れな、吉田」


 女同士の友達なら、泣いている彼女に触れて、多分もっと上手に元気付けられるんだろう。

 友情を素直に表せない、男と女は厄介だ。


「……じゃあ、先に帰るよ」


 僕は、まだ泣いている彼女を残して、ゆっくりと踵を返した。

 万一、こんな所を誰かに見られたら――根も葉もない噂が立つだろう。傷付くのは、吉田だ。


「――待って……! ありがと、マークン……」


 数年振りに聞いた懐かしい響き。照れ臭くなった僕は、振り向かずに片手をちょっと上げて、階段裏を後にした。




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