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20/23

赤いレインコートの女性(ひと)

 10月の最初の火曜日。

 学校から帰ると、家の200m手前にパトカーが停まり、通行規制がかけられていた。


「――君、ここから先は通れないよ」


 立ち入り禁止の黄色いテープの前に配置された警官は、僕が近づくと厳しい目付きで立ちはだかった。


「あの……僕はこの先に住む嘉山です。家に帰れないんですか?」


 尋ねると、警官の眼力がやや緩んだ。


「――ちょっと待ちなさい」


 彼はトランシーバーで指示を仰ぐと、


「住所と名前を言って」


 ぞんざいな言い方で質問してきた。いわゆる『職質』ってやつか。

 大人しく答えると、警官は態度を一変させて、黄色いテープを開いてくれた。


「……すみません、何があったんですか?」


 警官の脇を通り過ぎ様に、声を潜めて聞いてみたが、案の定彼は首を横に振っただけだった。


 テープの手前には、少しずつ野次馬が集まり始めている。

 警官に促されるまま、僕は自宅に急いだ。


 数日前、怪しい黒い車が停まっていた田中さん家の前には、同じような車が2台停まっていた。

 車の脇に、紺色の背広姿の若い男と警官が一人、立っていて、僕を見ている。


「君、名前は?」


 またか。声を掛けてきた警官の口調にうんざりしながら答える。


「嘉山マモルです。すぐそこの家に住んで――」


 自分の家を指し示そうと伸ばした右手の先の光景に、言葉が途切れた。


 夏美さんの家の玄関から庭までが、ブルーシートで覆われている。


「何があったんですか?!」


 嫌な想像しか浮かばない。厚く大判のブルーシートは、よく事件や事故現場の映像で見掛けるものと寸分違わぬものだった。


「まだ話せないんだ。嘉山くんだね? 家に帰っていいよ」


 警官の隣の若い男――多分刑事だろう――は、言い方こそ穏やかだが、問答無用の眼差しで『家に帰れ』と強制した。


  軽く会釈して、僕はゆっくり歩き出した。

 夏美さん家を、庭を、食い入るように見つめたが、手掛かりを与えるような隙間など1mmもない。


「ただいま! 母さんっ?!」


 玄関にスニーカーを脱ぎ散らかしたまま、リビングに駆け込んだ。


「……マモル?」


 ソファに身を沈めていた母さんは、酷く不安気な眼差しを向けてきた。


「夏美さん、何があったの……?」


「――分からないのよ……」


 乱れた前髪をうるさげに払いながら、首を振る。お洒落ではないが、いつも身だしなみは小綺麗にしている母さんらしくない。

 カバンを床に投げ出して、隣のソファに腰を下ろした。


「夏美さん……今朝、救急車で運ばれて行ったの。大勢の警官が来て、ブルーシートを掛けていたわ……。警察の人に聞いても何も教えてくれないし……」


 母さんは、僕と親父が家を出たあと、いつものように洗濯を始めた。

 自動洗濯の間、鏡台で髪をとかしていたら、突然物々しい音――聞き慣れない男達の怒鳴り声が飛び込んできた。

 何事かと、ザッと髪を纏めてベランダに出ると、既に複数の警官が夏美さん家の庭や家の周りにブルーシートを張っている所だった。

 母さんは急いで2階の僕の部屋に駆け上がった。窓の外を覗き込むと、満開のコスモスの花の中に倒れている人影が見えた。見覚えのある赤いレインコート姿。夏美さんに違いなかった。傍らに、大きなクマのぬいぐるみがあった。


「……小さい子どもが、大切な人形を、ギュッと抱き締めているみたいな格好だったわ」


 僕の肩に身を寄せた母さんは、疲れた表情で目頭を押さえた。


「――あのクマ、宝物だって言ってたよ」


「そう……」


 2階の窓からでは、夏美さんの状態まではよく分からなかった。だが、テレビドラマで見るような鑑識らしき制服姿が、夏美さんや周辺の写真を忙しなく撮っていた。

 母さんがなおも身を乗り出すように覗き込んでいると、気付いた警官が夏美さん達をブルーシートで覆ってしまった。

 それから5分と経たずに救急車が到着した。

 隊員達はストレッチャーを手にしていたが、庭にドカドカ駆け込むと、応急措置を行わずに彼女を運び去ってしまった。

 それきり、黄色い規制テープが張られて、家の中も庭の様子も分からなくなった。


「お隣の門の前に、この間家に来た刑事さんが立っていたから、『大丈夫なんでしょうか』って尋ねたんだけど、全然教えてくれなかったわ。向こうが聞いてきた質問には、ちゃんと答えたのにね」


 話し終えた母さんは、一見冷静さを取り戻したような口調で――けれども、どこか気の抜けたような、独白に似た落胆を含めて呟いた。

 警察が安易に情報を教えないことは、先刻僕自身も経験済みだ。


「……考えたくないけれど、夏美さん……亡くなってしまったのかもしれない……」


 母さんは、自分の膝に身を伏せると、涙声を詰まらせた。


「――まさか――だって」


 だって、約束したんだ。

 黙ってどこかに行ったりしない、って――。


「噂話が出た時……ちゃんと、話を、聞いてあげるんだった……お隣、だったのに……」


 夏美さんの死には、無責任な噂話が関係している――母さんは、そう考えているらしい。

 手を差し伸べれば、届かない距離ではなかった。

 だからこそ、何もしなかった自分が許せないのか、母さんの涙は後悔の色をしている。


「まだ、亡くなったと決まった訳じゃないだろ……」


 小さく震える背に、そっと手を添えた。

 あの日――お見舞いに行った夏の午後、僕とヨウヘイに背を向けて泣いた夏美さんの後ろ姿に重なる。

 掛けた言葉は励ますつもりでもあるが、僕自身が信じたい、そんな思いでもあった。


「――ありがとうね、マモル」


 顔を上げた母さんは、赤い瞳のまま微かに頬を緩めた。


「心配だけど、今は――待つしかないわね」


「うん……」


「……晩ごはんの支度、するわ。お父さん、帰ってきちゃうわね」


 僕の膝にポンポンと手を置いて、母さんは立ち上がった。キッチンに向かう後ろ姿は、空元気を振り絞っているように見えた。


 僕もソファを離れ、電話機に向かう。

 壁に張られたご近所・知人リストから、目当ての番号を拾った。


「はい! ビューティーサロン・カガミです!」


 受話器を少し耳から離したが、それでも頭蓋骨に響く大音量。ヨウヘイのおばさんだ。


「こんにちは、嘉山です。ヨウヘイいますか?」


「あら、マモル君! ちょっと待ってね。――陽平っ! マモル君から電話よ!」


 相変わらずの明るい声。電話口の奥からヨウヘイの返事が聞こえ――。


「おう、マモル?」


 母子(おやこ)共々のバカスピーカーが鼓膜を刺激する。


「声でかいよ」


「……あ、悪い。家帰るとつられてさ」


 笑いながら呑気に答える。

 これから告げる残酷な出来事をどんな言葉にしたら良いのか――一瞬、躊躇した。


「マモル?」


「うん……。ヨウヘイ、実はさ――」


 そのあとの彼の様子は、電話越しでも、はっきり見てとれた。

 何度も彼の側に行こうか尋ねたが、その度に枯れたような涙声が強く拒否した。


「……大丈夫だ、大丈夫だから――」


 とても大丈夫ではない震える声が、呪文のように繰り返し、小さく「ごめん、マモル、切る――」と消え入りそうな呟きを残して、切れた。


 無機質な切電音をしばらく聞いていた。もう一度繋がるはずもないのに、僕自身途方に暮れている。


 ヨウヘイは、親友だ。

 アイツのことなら何でも分かる、とは思わない。僕にさらけださないプライドもあるだろう。

 彼の『大丈夫』が大丈夫だなんて、これっぽっちも信じていない。だが、騙されておくことも、優しさのような気がする。


 正解が分からないまま、受話器を置いた。

 そして、もう1つ難問に気付く――吉田にも話しておくべきだろうか?

 悠に5分は立ち尽くし、やはり結論に自信がないまま、電話機の側を離れた。

 不確かな状況のまま、徒に彼女を傷付けたくなかった。

 夏美さんの事を聞かされたからといって、今の吉田がヨウヘイに出来る事はない。

 それが分かっていても、僕が話したら、彼女は居ても立ってもいられないだろう。

 そんな心境は、想像するだに堪らない――。


 もしかしたら後日、僕は吉田に恨まれるかもしれないが、金縛りのようなジレンマに陥れるよりは、まだマシに思えた。


 床に転がったカバンを連れて、2階へ上がる。

 隣家に面した窓に掛かるカーテンが乱れていて、数時間前の母さんの動揺がまだそこに残っていた。


 部屋の中は薄暗いが、電気を付けず、窓に近づく。

 沈んだ秋の宵闇の中に、何もかもに蓋をしたブルーシートが、白々しく横たわっている。

 その腹の下に、全ての不安の根源を携えて。



 やがて帰宅した親父を含めた嘉山家と、事情に心を痛めたヨウヘイが、まんじりともせず夏美さんの無事を祈り続けたが――翌朝のニュースが希望を打ち砕いた。

 帰宅した頃には、地元テレビ局の夕方の情報番組さえもが、夏美さん――「八木山夏美」さんの死を大袈裟に報じた。


 地方都市で行った奇妙な自殺。

 夏美さんの死因は、自らカリウムを大量注射したことによるショック死と報じられた。

 彼女が宝物と言っていたクマのぬいぐるみの腹からは、陶器の容器に入った幼い子どもの白骨が見つかった。

 それは彼女が、隣町の変死男性の、行方不明だった妻であることも意味していた。

 警察が探していた妻子は、夏美さんと茶色いクマだったのだ。


 数日の内に、僕達の知らなかった夏美さんの過去を、頼みもしないのにマスコミが次々に暴いていった。


 八木山夏美さんは、旧姓が「早川」だった。

 生まれは、県外の拠点都市で、3歳の時に母親が亡くなった。父親に育児放棄された状態で保護され、以降母方の祖父母が暮らすこの街――隣家の「清瀬」家――で幼少期を過ごした。


 その祖父母は、ある日突然失踪する。

 夏美さんが6歳の誕生日を迎える半月前のことだったそうだ。

 両親がいつか話してくれた失踪騒ぎが、ワイドショーの格好のネタだったのか、当時の映像を交えた検証フィルムが繰り返し流れた。


 清瀬老夫婦が消えた後、夏美さんは母方の親戚の家を点々とした。転校を繰り返す彼女に、友達らしい友達はいなかったらしい。

 隣町の高校を卒業した後、働きながら看護学校に通い、やがて地元のクリニックに就職した。

 吉田が言っていた、長谷川のお祖父さんが入院した病院が、そこだった。


 20歳で働き出した夏美さんは、クリニックの入院患者だった男性――八木山隆志と22歳の時に結婚した。

 1年後、第一子が生まれる。職場の関係者の話によると、第一子誕生の前から夫による暴力――DVが始まったのだという。


 DVに耐えながら、子育てと仕事を続けてきた夏美さん。

 ところが、今年の3月。第二子を流産した。

 このひと月程後、夏美さんは仕事を辞め、失踪する。


 第一子の女の子は、夏美さんからの連絡で保育園を退園している。

 だが実際は、退園連絡の少し前から、女の子の姿を見た者はいない。

 何らかの理由で、女の子は亡くなったのだろう。その子のほぼ全身の骨が、茶色いクマの腹から見つかっている。綺麗に薬剤で洗浄されたらしく、死因の特定は困難だそうだ。


 女の子を骨にしたのは誰なのか――夫か夏美さんか――二人ともこの世を去った今となっては、誰も分からない。


 そして、6月の末。

 夏美さんの夫、八木山隆志が腐乱遺体で発見される。

 血中からは致死量を越える高濃度のアルコールが検出され、遺体の様子も急性アルコール中毒の痕跡が残っていた。

 室内に荒らされた形跡はなく、事故か自殺か、はたまた他殺か――特定は困難と結論づけられた。


 夏美さんが夫の死にどれだけ関わっていたかは、分からない。

 死を知る前に失踪したのか、タイミングに決め手がなかった。

 唯一、彼女には、子どもの死亡届を出さずに遺骨を領得した罪――死体遺棄罪の嫌疑だけが残った。


 僕らが知っていたのは「早川夏美」さんで、ワイドショーの画面に映る「八木山夏美」さんは、まるで未知の別人だった。




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