目的の始まり
「――マモル、まだ寝てるの?!」
いきなりドアを開けて、母さんが現れた。
「……休みなんだから、いいだろ。それより、急に開けないでよ」
「生意気言うんじゃないの。母さん、昼から出掛けてくるから、あんた留守番頼んだわよ」
一方的に、僕が出かけない前提で話が進む。
「ご飯は?」
あくびをしながら、ベッドから上半身だけ起こす。
「冷蔵庫に夕べの残りがあるから、適当に食べなさい」
部屋にズカズカ入ってきた母さんは、勝手にカーテンを開けた。
……もう寝かさないつもりだ。
「どこ行くのさ?」
「ほら、公園の向こうの老人ホーム、婦人会のボランティアよ」
「ふぅん」
「あんたも休みだからってゴロゴロしてないで、勉強しなさいよ」
「……分かってるよ」
「じゃ、母さん時間になったら行くから、頼んだわよ」
「はいはい」
僕から眠気を吹き飛ばし、現れた時と同じように、母さんはパタパタ出て行った。
壁掛け時計は、間もなく12時だ。
朝方まで起きていたことを知っているのか知らずか、母さんにしては、寝かせてくれたほうだ。
こんな時間まで僕が家にいるのは、高校の創立記念日だからだ。
休みなのは嬉しいが、どうせなら週末とくっついて連休になればいいのに――今日は木曜日だった。
のんびりできそうで、落ち着かない。中途半端な休日だ。
しばらくベッドの上でぼんやりしていたら、バタンという玄関のドアの音がした。
母さんが出掛けたのだろう。
「あーあ……」
大きく伸びをして、ベッドから這い出る。さすがに腹が減っていた。
パジャマ姿のまま、キッチンに行く。
静かな家の中は、ちょっとよそよそしい。
今更留守番をはしゃぐ歳でもないが、口うるさい監視の目がないのは気楽だ。
冷蔵庫の中から、夕べの残りの唐揚げと、ソーセージ、真空パックの保存袋に入った食パンを持って、リビングのテーブルに置く。
マグカップに牛乳を注ぎ、バナナを一本ちぎり、ティッシュの箱を掴んで、無造作にテーブルの上に追加した。
ソファにだらしなく凭れて、テレビを見ながら食べる。
これは、親のいない休日の特権だ。
平日昼間の番組は、はっきりいって若者向けではなかった。
情報番組は主婦向けのファッションや節約グルメの話題ばかりだし、チャンネルを変えたところで、ローカルニュースか再放送のドラマくらいしかやっていない。
適当にニュースを流していたら、隣町の変死事件が流れてきた。
『――男性の遺体は、死後ひと月ほど経って損傷が進んでおり、警察は司法解剖を行って、死因の特定を急ぐとのことです。また、男性の遺体が見つかった部屋のドアには鍵がかかっており、警察は事件と事故の両方で捜査を進めています。……では、天気予報です――』
この蒸し暑い時期に、損傷か……食欲を無くしそうになるので、考えないようにする。
週末の雨の予報を聞きながら、牛乳を飲み干した。
-*-*-*-
腹が膨れたので、とりあえずシャワーを浴びた。
地肌にまとわりついていた汗が流れて、さっぱりする。
ラフなTシャツと短パンに着替えて、冷蔵庫から出した麦茶を飲むと、初夏の暑さが少し消えた。
仕方ない。この心地好い感覚の内に、机に向かおう。
呑気な僕でも、受験生という自覚はある。
第一志望は、県外の公立大学だ。
特に魅力的なキャンパスという訳ではないのだが、頑張れば手が届きそうなランクであり、この町を離れられることが最大の志望動機だった。
夏休み前の全国模試までに、実力を伸ばさないといけない。
部屋のエアコンのスイッチを入れて、学習机に着く。
気合いを入れて、『数学Ⅱ』の問題集を開いた。
-*-*-*-
「――――っくしゅん!」
エアコンの設定が強すぎたのか、気がついたら肌寒い。
鼻をかんで、エアコンを止め、窓を細く開けた。
冷やしておきながら冷気を逃がすなんて、我ながら何をやってるんだか。
問題集は『英語』を経て、『生物』に移っていた。
時計はもうすぐ4時を指す。
集中していたせいで、気がつかなかったが、母さんはまだ帰ってきていないようだ。
……また、オバ友会かな。
婦人会の活動の後、どうせ仲間達と井戸端会議に花を咲かせているんだろう。
――ザッ……ザッ……
ふと、妙な音にペンが止まる。
――ザッ……ザッ……
不規則なその音は、どうやら外から聞こえてくる。
開けた窓から、屋外の音が入ってくるのだ。
――ザッ……ザッ……
「……何なんだよ」
一度気になり出すと、無視できない。
集中力を削がれて、立ち上がった。
窓から外を見ると、隣の庭に人影がある。
夏美さんだ。
麦わら帽子を被って、ライムグリーンのTシャツに白いパンツ姿で、庭にいる。
この暑い日に何をしているのかと更に覗くが、隣との境界にあるブロック塀に阻まれて、よく分からない。
――ザッ……ザッ……
僕は窓を閉めて、机に戻ろうとしたが――そのまま階下に向かった。
どうせ気になって、集中できない。だったら……。
ベランダから、狭い我が家の庭に出る。塀からちょっと身を乗り出すと、夏美さんがスコップで土起こしをしているのが見えた。
「――暑くないんですかー?」
――ザッ…………
「……あ。ごめんなさい、うるさかった?」
気づいた夏美さんは、僕を見て手を止めた。
そして首に巻いたタオルで顔の汗を拭く。彼女はほとんどノーメイクだ。
「まだ日が高いのに、熱中症になりますよ?」
「そうね……でも、週末は雨の予報だから、今日の内に済ませたくって」
少しどんよりした空を見上げて、眩しそうに目を細める。
何気ない仕草にドキドキしていた。
「野菜でも作るんですか?」
夏美さんは、スコップを土に刺し、僕に近づいてきた。
「……マモル君、だっけ?」
「え、はい」
突然名前を呼ばれて、ますます鼓動が早くなる。
「前に住んでた人は、余り手入れしていなかったのね。それとも空き家が長かったのかしら」
「そうですね……空いていたのは2、3年くらいだけど、庭は……子ども達が走り回っていたから。ヒマワリを植えていたくらいかな」
「やっぱり。だから土が固いのねー」
彼女はたった今まで耕していた庭を振り返り、ふわりと笑った。
「あの、早川さん」
「夏美でいいよ」
「……夏美、さん」
言い直すとクスッと笑う。小動物みたいな口元で。
「なぁに?」
「あれ――夏美さんのですか?」
「――え?」
僕が指した先には、早川家のベランダがあり、そこには白いテーブルセットが置いてある。
椅子が二脚、テーブルの左右にあり、その左側の椅子に、大きな栗毛色のクマのぬいぐるみが座って、僕らを見ていた。
「――ええ、私の宝物」
一瞬、絶句した。
「あ。子どもっぽいって思ったでしょ?」
彼女は拗ねたように、僕を見上げた。
冗談めかして誤魔化しているが、どうやら『宝物』というのは、本当のことらしい。
「え、いや……名前、あるんですか」
「あるよ――面白いね、マモル君って」
「えっ……? あ、そうだ」
何だか急に気恥ずかしくなって、ベランダにかけ戻る。ガラス戸の向こうに用意していた、レモンティーの缶を手に、取って返した。
「夏美さん、これ良かったら」
「……いいの? 君のオヤツじゃないの?」
「違います。うちは……母さんが色々取り揃えているから」
オバ友会用に、飲み物やお菓子なんかが常にある。
その意味を汲み取ったのだろう、夏美さんは表情を崩した。
「じゃあ……いただくわね。ありがとう」
彼女はまだ冷たさの残る缶を受け取ると、その場でパキッとプルトップを開けた。
それから、なんのてらいもなく、コクコクと中身を流し込んだ。
一瞬視界に入った白い喉が、やたらとちらつき、目のやり場に困る。
耕したばかりの庭に視線をさ迷わせた。
「――ふぅ。ありがとう、生き返ったわ」
爽やかに笑うから、収まっていた心臓がまた騒ぎ出す。
年上の女性はヒカリ姉ちゃんで慣れているはずなのに、夏美さんにはイトコが見せるがさつさがない。
昔から知っている身内と、何もかも新鮮な他人との違いだろうか。
「――それじゃ、そろそろ片付けちゃおうかな」
少し日が傾いたとは言っても、夏至が過ぎたばかりの6月は、まだ当分明るい。
夕飯までにもう一仕事するには十分だ。
「何を植えるんですか?」
戻りかけた彼女の背中に、もう一度問いかける。
「……コスモス。庭一面に咲かせるの。昔みたいに」
顔だけ、ちょっと振り返り、微笑まずに答えた。
少し遠い目をしたように見えた。
「――え?」
「それじゃ、ごちそうさま!」
元の笑顔に戻って、夏美さんは僕に手を振った。
刹那覗いた表情に、僕は言葉を失っていた。
しばらく、土起こしをする夏美さんを眺めたが、彼女の向こうからこちらを見ているクマの視線に気づいて、ドキリとした。
――バカだな、生き物じゃないのに。
妙な居心地の悪さを感じて、僕はノロノロと家の中に戻った。
机の前に座ったものの、集中力はすっかり萎えてしまい、問題集を片付けた。
『昔みたいに』――。
ふと漏れ出てしまった真実なのか、何かをはぐらかしたのか……不可解な呟きが、耳の奥に染み付いていた。
-*-*-*-
その夜。
親父と僕は、ナイターを観ていた。
母さんが風呂に入っているので、男二人切りのリビングは、さながらスタジアムだ。
「あーー! 何で打ち上げるかなぁ!」
絶好の先制チャンスを潰した5番打者に向かって、親父は声を上げた。
6回のウラが終わり、グラウンドが整備されている。この間に、地上波の放送では、スポンサーアナウンスに変わり、CMが流れていた。
「もう一本、ビール、いる?」
「お、気が利くな」
冷蔵庫から、追加の缶ビールとコーラを持って、ソファに戻る。
「……あのさ、親父」
「うん?」
唇に泡髭をつけて、親父が視線を向けてきた。
テレビでは、今夜の試合のハイライトが流れている。
「お隣って、僕が生まれた頃は、どんな人が住んでいたの?」
「何だ、突然?」
「今の早川さんの前は……秋吉さんだったけど、その前って? 覚えてないんだよな」
親父は腕組みして、眉間にちょっと皺を寄せた。
「秋吉さんの前な……お前が生まれた頃は、空き家だったんだ」
「えっ、そうなの?」
「ああ……その前は、清瀬さんっていうお爺さんとお婆さんが二人で住んでいたんだが、ある日突然居なくなってしまってな」
「どういうことさ? 引っ越したんじゃなくて?」
「あれは、違うな。家財道具全部残して、身体だけ消えたんだよ」
親父の表情から、からかっている訳ではないことは明らかだ。
我が家の身近にそんなミステリーが転がっていたとは……。
「ニュースにならなかったの?」
「なったさ。うちにも警察が来て、不審者を見なかったか、って色々聞かれたな」
「あら! あんた達、やけに静かね?」
母さんがバスタオルを頭に巻いたまま、リビングにやってきた。
ナイター観戦の時、僕達は勝敗に関わらず、いつも大騒ぎしている。
テレビそっちのけで話し込んでいる雰囲気に、違和感を抱いたらしい。
「マモルが変なことを聞くからな……」
「ちょっと気になっちゃって」
妙にバツが悪くなり、二人して言い訳をした。
「何よ、変なことって」
グラスに麦茶を注ぐと、母さんもソファにやってきた。
「隣な、秋吉さんの前に誰が住んでいたかってさ」
「……お父さん、清瀬さんのこと」
「話したさ」
母さんは、仕方ないというように首を振った。
「ねぇ――消えたって、どういうことさ?」
ご近所事情に関しては、母さんの方が遥かに詳しい。
僕は視線を母さんに向けた。
「消えたのよ……ご近所に一言も挨拶しないで、黙ってね」
僕が生まれる前のことだ。今より地域の結びつきが強かったことは、想像に難くない。
ご近所に一言もなく『居なくなった』ことは、相当な異常事態だったろう。
「家にあった物はどうしたのさ?」
母さんはちょっと考ながら、麦茶を飲んだ。
「確か……遠縁のお孫さんだとかっていう人が引き上げていったんじゃなかったかしら?」
親父がウンウンと頷いた。
「しばらくしてから『売家』になって、5年くらい経って秋吉さんが購入したんだよなぁ」
「そうそう! 不自然な立ち退き方だったから……どうしても噂が経っちゃって、なかなか買い手がつかなかったのよね」
「――噂って?」
話の盛り上りに水を差す質問だったのか、一瞬、両親は顔を見合せた。
「お隣に、新しい人が入ったんだから、ここだけの話にしなさいよ」
他人の耳があるはずもないのに、母さんは声を潜めた。
「……だから、何のことさ」
再度、両親は視線を交わした。
敢えて触れなかった出来事を、仕方なく紐解くような躊躇いが見て取れた。
「――殺されたんじゃないかって」
「ええっ!」
「だから、噂だぞ」
「遺体は出なかったのよ、だけど警察が庭を掘り返したりしたものだから、噂になっちゃって、大変だったわ」
結果的に何事もなかったのだ――と、言外に二人は強調している。
当時を知らない子どもには、聞かれなければ封印しておくつもりだったのかもしれない。
「その庭って――花とか咲いていた?」
何か、予感めいたものが胸の奥から沸き上がる。
ここまで聞いたら、確かめずにいられない。
「花? ――あぁ、そう言えば、何か一杯咲いてたわねぇ……」
「マモル、お前、急にどうしたんだ?」
親父が訝しむ。
僕は「そんな気がしただけ」と曖昧に答えた。
ぬるくなったコーラを飲みながら、密かに確信した。
夏美さんが言った『昔』は、清瀬さんという老夫婦が住んでいた頃のことだろう。
きっと、清瀬さんがいた頃は、庭一面にコスモスが咲いていたに違いない。
――だとしたら。
夏美さんは、いつ、そのコスモスの庭を見たのだろう?
そして、どうして今、当時の庭を再現しようとしているんだろう?
直接、夏美さんに尋ねれば分かるかもしれないが、訊いてはいけないような気がした。
しかし――この疑問の答えは、しばらくすると意外な形で明らかになった。