【N】娘が消える夜
翌朝、酔いから目覚めた夫は、泣きながら謝ってきた。
寝室で休んでいた私は、彼の涙にも土下座にも何の感情も動かなかったが、もういいわ、と優しさを演じた。
「私はもう大丈夫。あなたも辛かったでしょう。あの子の始末は、私に任せて」
「――夏美っ」
涙でみすぼらしい犬の如く情けない姿を晒す夫は、感激したように私を抱きしめた。
「あなた……痛いわ」
「あぁ、ごめん! ごめんな」
それでも離さずに、唇を重ねてくる。
鳥肌を堪えて、我慢する。全ては、目的のためだ。この人には油断してもらわなければ。
「――ごめんなさい。退院の時、まだしないように言われているの」
胸に手を伸ばしたので、さすがにそれ以上の行為は拒否した。
「そうか……そうだったね、ごめん」
アルコールの抜けた夫は、あっさりと引き下がった。
「会社に行くよ。有給、使い切っちゃったからな」
呑気に言うと、もう一度唇を押し付けて、寝室を出て行った。
姿が消えると、シーツで唇を何度も拭った。それでもおぞましさは、触れられた腕や胸に染み付いている。
彼の出社を見送ると、急いでバスルームに駆け込んだ。
熱いシャワーで全身を清めるように洗い流す。夫に触れられた部分は、特に念入りにボディソープを泡立てた。
流れ落ちる泡が排水溝に消えていく。
表面的には不浄が取れても、心に刻まれた穢れは削れない。
キスだけで叫びたい程、身体が拒絶反応を示すのに、それ以上は耐えられないだろう。
しかし、流産を理由に拒むにも限度がある。
心が消耗する前に、早く事を起こさねば。
水流に混じった涙をすすぎ、シャワーの栓を閉めた。
外出できない間に、湿布を貼って上肢の痛みを癒しながら、荒れたリビングを片付けた。
更に、サクラの保育園と職場に連絡を入れた。
サクラの保育園には、退園の意向を伝えた。
担任の保育士さんは驚いていたが、私の第二子出産に当たって、親子で故郷に戻るのだ、と理由を告げると納得してくれた。
急なことなので、サクラの持ち物は着払いで発送して欲しいと頼むと、快諾してくれた。2、3日の内に退園書類と荷物が届く手筈を整えて、電話を切った。
問題は、職場への連絡だ。
岸本主任を欺くのは心苦しかったが、大事の前の小事と気持ちを割り切った。
顔の腫れが引くまで、猶予をみて1週間の休みをもらった。
突然の入院で、有給は既に消化している。
猶予の1週間は、岸本主任が病欠扱いの温情処置を取ってくれた。
長期欠勤で迷惑をかけたのに――私は涙声のまま、電話口で何度も頭を下げた。
結局、顔の腫れが引くまでに2日、アザを化粧で隠せるまで、更に3日かかった。
この間にも、サクラの遺体はグズグズと腐敗が進み、人間の原形を失っていった。
この子に何の罪があるのだろう。
生まれてたった3年で、こんなに酷い最後を遂げるなんて。
元凶の夫は、もうすぐ10倍の30歳になるというのに。
アザを厚化粧で隠し、帽子とマスクで露出を減らす。いつもより多く香水を吹き掛け、5日振りにマンションを出た。
春先の日差しは眩しく、暗い目的で外に出た、私の心が照らし出されるような錯覚に、一瞬たじろいだ。
バスに乗り、職場のクリニックを通り過ぎて、大型ホームセンターに向かった。
いくつかの小物やゴミ袋、そして排水パイプ用の強力洗剤と、無香料の消臭剤を持てる限り購入した。
帰りのバスを降り、マンションまで歩く頃には、ヘトヘトだった。
体力が落ちているのは、流産の後だからだろうか。
息を切らして、何とか部屋に辿り着く。
ドアを開けると、微かに異臭が漏れていた。
家の中にいた時は我慢できたが、一時でもフレッシュな外気を味わうと、その独特の刺激臭は鼻に付いて、吐き気を引き起こした。
――もう、限界だ。
今夜、サクラの遺体を処理しよう。
私は覚悟を決めた。
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夕食後、夫にバスルームを使わせた。
「一晩かかると思うわ。あなたは休んでて」
夜、ベッドを共にしたくない。サクラの処理を口実に、真意を伏せた。
「いざとなったら女は強いって言うけど、本当だなぁ」
悪びれない言葉に憎悪が深まる。安堵の笑顔で寝室に消えていく背中に、今すぐ包丁を突き立ててやりたい――衝動を抑え込むのに必死だった。
使用後のバスルームを水で洗う。夫の痕跡を流し切り、パイプ用の強力洗剤とポリバケツ、ダブダブ重いゴミ袋を運び入れた。
ゴーグルとゴム手袋を装置し、ナイロン素材のランニングウェアの上下を着る。マスクを二重に付けて、フードを被る。最後にゴム靴を履いて、完全防備だ。
戸外への悪臭放出を恐れたので迷ったが、結局、換気扇を回した。いざ……ゴミ袋の口を解いた。
むせかえるような臭気。
胃の内容物が全て逆流するのを堪えて、1/3程袋の中身をポリバケツに移した。
ドロリとした肉か何か――もう形のよく分からない物体が、どす黒い体汁と共に流れ出した。
娘だと思うと、気持ちが萎えそうなので、心を閉ざして『作業』を遂行することだけを考えた。
バケツに半分入った物体に、パイプ洗浄剤を注ぐ。本来、水で薄めて使う濃縮タイプの原液だ。
シューッと泡立って、塊が崩れ、溶けていく。
『たんぱく質の分解には、強アルカリの薬剤が効く』
看護学生だった時、総合病院での研修中に、一度だけ腐乱した遺体の解剖に立ち会ったことがある。
軒並み顔色を無くしたナイチンゲールのヒヨコ達を前に、法医学の教授はご丁寧にも座学の補講を行ってくれた。
先輩看護師に言わせると、若い女の子を怖がらせて楽しんでいる『ドS趣味』なのだそうだ。
当時は、只々胸の悪い記憶しかなかったけれど、今になって役立つなんて。
グズグズと液状化する人体の成れの果てを、実験経過を観察するように眺めた。
全ての感情は、事が終わった後でいい。
一定の液状化を遂げたバケツの中身を、バスルームの排水口に流し込む。
ドロリ……ドロリ……ブクブク泡を立てながら、サクラは排水口に消えて行った。
バケツの底に小さな骨が幾つか残る。
ゴム手袋で拾い上げ、プラスチックのトレイに乗せた。
――さぁ、次だ。
再び覚悟を決めて、ゴミ袋からバケツに中身を注ぐ。
この作業を、何度か繰り返した。前半こそ、崩れた水分の多い部位が流れ出たが、徐々に腐肉が剥がれていない生々しい下肢や胸になり、それらは溶解に時間がかかった。
最後に、頭が残った。
バケツにゴロンと頭髪が付いたままのサクラが収まる。
「……ごめんね……ごめんなさい」
顔が見えないように頭髪を上にして、合掌する。
頑張って、ここまで作業してきたが、挫けそうだ。
――だけど。これを乗り越えなければ。
サクラの遺骨と、これからも一緒にいるために必要なことなのだ。
涙を飲んで、パイプ洗浄剤に頭部を漬け込んだ。
たっぷりと注がれた洗浄剤の中で、ゆっくりと頭髪が広がり浮かび上がる。
髪が溶け、皮膚も筋肉も眼球も溶けていく。頭部全体を浸す薬剤は、頭蓋骨の内部で脳を溶かしていることだろう。
頭部が白骨に変わるまでの間、トレイに移した骨に、更に洗浄剤をかけ、こびりついた肉片をブラシでこそぎ取る。
洗浄液が飛び散る中、1本、1本、骨が積み上げられていく。
時々、バケツの中身を確認し、濁った薬剤を少し捨て、新しい薬剤を継ぎ足す。
そんな作業を何時間繰り返したろうか。
最後に頭蓋骨もブラシで仕上げ、サクラは綺麗な骨になった。
シャワーの水でバスルームを洗い流す。使ったバケツとトレイも丁寧に洗う。
更に、サクラの骨を水で入念にすすぐ。
洗い終わった彼女の骨は、バケツ一杯に満たなかった。
二重にしたゴミ袋に、腐乱死体を入れていた黒いゴミ袋を入れ、固く縛る。
別のゴミ袋には、トレイと遺骨を納めたバケツごとすっぽり入れて、この口も縛る。
残ったパイプ洗浄剤を、排水口にゆっくり注いで、パイプが詰まっていないことを確かめた。
空になった洗浄剤の容器をゴミ袋にまとめ、ようやくマスクを外した。
腐敗臭はもはや消え、代わりに強烈な薬剤臭が染み付いている。
自分の完全防備を外すと、これもまた別のゴミ袋に入れた。
――第一段階は、終わった。
体力的な疲労より、精神的に参っている。
バスルームの換気扇を回したまま、複数のゴミ袋をとりあえず子ども部屋に運んだ。
悪臭原は消えたが、室内に染み付いた腐敗臭は消えていない。
ここの掃除は、明日にしよう。
毛布にくるまって、リビングのソファに身を沈めたのは、窓の外が白み始めた頃だった。
長い夜の果て、夢すら見ないで眠りに落ちた。
-*-*-*-
頭の重さに目が覚めると、既に日は高く、夫の姿もなかった。
ふらつく身体をゆっくり起こし、キッチンで水を一杯流し込んだ。
一息付いて、バスルームを確かめる。換気扇を回したままにしていたが、まだパイプ洗浄剤の薬剤臭が鼻に付いた。
それから、子ども部屋に向かう。まだ腐敗臭は相変わらずきつい。今日はこの部屋を片付けなくては。
早速、新しいゴミ袋にサクラの寝具一式を入れていく。
夕べのゴミ袋と一緒に、暗くなってからゴミ置き場に持っていこう。
ベッドのマットも剥がして、木枠を壁に立て掛けた。机とカラーボックスと小さなタンスは、木枠の横に寄せ、床の桜色のカーペットをくるくると丸める。
部屋全体に積もった埃を取り除き、出しっぱなしだったオモチャや絵本を片付けると、窓のない6畳の空間は、思った以上にガランとした。
このマンションに越して来た日のようだ。
あの日、まだサクラは生まれていなかった。私の妊娠が分かり、安定期を待って新居を探したのだ。
夫が暴力を振るうこともなく、未来は明るい光に満ちていた。
あの日から、何が狂ってしまったのだろう。
何がいけなかったのだろう。
もし――時間を戻してやり直せるのなら、どの日どの時に戻れば、優しい夫と愛しい娘を取り返せるのだろうか。
空っぽの私の映し鏡のような子ども部屋の中で、床に突っ伏し、わんわんと泣いた。
夫に殴られた夜、この部屋に滑り込んで声を殺して泣いていると、気付いたサクラに髪を撫でられたことがある。
本当に、優しい娘だった――。
その娘は今、片付けた家具の向かいの壁際で、ゴミ袋の中、骨になってしまった。
腐っていたとはいえ、この手で、肉体に見切りをつけたのだ。
昨夜の悪夢のような作業が、今になって鮮明に思い出される。
きっと、あの光景を忘れることはできないだろう。
堪らなくなり、骨の入ったゴミ袋の元に這う。
縛った口を解くと、洗浄剤の臭いがした。腐敗臭はほとんど消えている。
バケツの一番上に置いた、バレーボールよりも小さな頭蓋骨を胸に抱く。壊れないように注意しながら、何度も何度も頭頂を撫でた。あの夜――彼女が私にしてくれたみたいに。
あの小さな温かい掌は、もうこの世にはない。そう思うだけで、心臓が握り潰される程苦しい。
いっそ、このまま狂えたらどんなに楽だろう。
――まだ、だめだ。
折れそうな心の一方で、やはりマグマのような怒りも渦巻いている。
「約束を果たすから……待っててね」
呟いて、サクラの頭蓋骨をバケツに戻した。部屋に染み付いた腐敗臭が移らないように、すぐに口を縛った。
涙を拭いて、立ち上がる。
卵色の壁紙に無香料の消臭剤を吹き掛けた。
何度か繰り返すと、しぶとかった腐敗臭がようやく薄らいだ。
リビングのクローゼットから扇風機を運び、最強の風力で首を振らせる。
ようやく、第二段階だ。
リビングに戻り、夕食の支度までの間、ソファで身体を休めた。
岸本主任と約束した職場復帰の日が、明後日に迫っていた。




