表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/23

【N】娘が消える夜

 翌朝、酔いから目覚めた夫は、泣きながら謝ってきた。

 寝室で休んでいた私は、彼の涙にも土下座にも何の感情も動かなかったが、もういいわ、と優しさを演じた。


「私はもう大丈夫。あなたも辛かったでしょう。あの子の始末は、私に任せて」


「――夏美っ」


 涙でみすぼらしい犬の如く情けない姿を晒す夫は、感激したように私を抱きしめた。


「あなた……痛いわ」


「あぁ、ごめん! ごめんな」


 それでも離さずに、唇を重ねてくる。

 鳥肌を堪えて、我慢する。全ては、目的のためだ。この人には油断してもらわなければ。


「――ごめんなさい。退院の時、まだしないように言われているの」


 胸に手を伸ばしたので、さすがにそれ以上の行為は拒否した。


「そうか……そうだったね、ごめん」


 アルコールの抜けた夫は、あっさりと引き下がった。


「会社に行くよ。有給、使い切っちゃったからな」


 呑気に言うと、もう一度唇を押し付けて、寝室を出て行った。


 姿が消えると、シーツで唇を何度も拭った。それでもおぞましさは、触れられた腕や胸に染み付いている。


 彼の出社を見送ると、急いでバスルームに駆け込んだ。


 熱いシャワーで全身を清めるように洗い流す。夫に触れられた部分は、特に念入りにボディソープを泡立てた。

 流れ落ちる泡が排水溝に消えていく。

 表面的には不浄が取れても、心に刻まれた穢れは削れない。

 キスだけで叫びたい程、身体が拒絶反応を示すのに、それ以上は耐えられないだろう。

 しかし、流産を理由に拒むにも限度がある。

 心が消耗する前に、早く事を起こさねば。


 水流に混じった涙をすすぎ、シャワーの栓を閉めた。


 外出できない間に、湿布を貼って上肢の痛みを癒しながら、荒れたリビングを片付けた。


 更に、サクラの保育園と職場に連絡を入れた。


 サクラの保育園には、退園の意向を伝えた。

 担任の保育士さんは驚いていたが、私の第二子出産に当たって、親子で故郷に戻るのだ、と理由を告げると納得してくれた。

 急なことなので、サクラの持ち物は着払いで発送して欲しいと頼むと、快諾してくれた。2、3日の内に退園書類と荷物が届く手筈を整えて、電話を切った。


 問題は、職場への連絡だ。

 岸本主任を欺くのは心苦しかったが、大事の前の小事と気持ちを割り切った。


 顔の腫れが引くまで、猶予をみて1週間の休みをもらった。

 突然の入院で、有給は既に消化している。

 猶予の1週間は、岸本主任が病欠扱いの温情処置を取ってくれた。

 長期欠勤で迷惑をかけたのに――私は涙声のまま、電話口で何度も頭を下げた。


 結局、顔の腫れが引くまでに2日、アザを化粧で隠せるまで、更に3日かかった。


 この間にも、サクラの遺体はグズグズと腐敗が進み、人間の原形を失っていった。


 この子に何の罪があるのだろう。

 生まれてたった3年で、こんなに酷い最後を遂げるなんて。

 元凶の夫は、もうすぐ10倍の30歳になるというのに。


 アザを厚化粧で隠し、帽子とマスクで露出を減らす。いつもより多く香水を吹き掛け、5日振りにマンションを出た。


 春先の日差しは眩しく、暗い目的で外に出た、私の心が照らし出されるような錯覚に、一瞬たじろいだ。


 バスに乗り、職場のクリニックを通り過ぎて、大型ホームセンターに向かった。

 いくつかの小物やゴミ袋、そして排水パイプ用の強力洗剤と、無香料の消臭剤を持てる限り購入した。


 帰りのバスを降り、マンションまで歩く頃には、ヘトヘトだった。

 体力が落ちているのは、流産の後だからだろうか。

 息を切らして、何とか部屋に辿り着く。


 ドアを開けると、微かに異臭が漏れていた。

 家の中にいた時は我慢できたが、一時でもフレッシュな外気を味わうと、その独特の刺激臭は鼻に付いて、吐き気を引き起こした。


 ――もう、限界だ。


 今夜、サクラの遺体を処理しよう。

 私は覚悟を決めた。


-*-*-*-


 夕食後、夫にバスルームを使わせた。


「一晩かかると思うわ。あなたは休んでて」


 夜、ベッドを共にしたくない。サクラの処理を口実に、真意を伏せた。


「いざとなったら女は強いって言うけど、本当だなぁ」


 悪びれない言葉に憎悪が深まる。安堵の笑顔で寝室に消えていく背中に、今すぐ包丁を突き立ててやりたい――衝動を抑え込むのに必死だった。


 使用後のバスルームを水で洗う。夫の痕跡を流し切り、パイプ用の強力洗剤とポリバケツ、ダブダブ重いゴミ袋を運び入れた。


 ゴーグルとゴム手袋を装置し、ナイロン素材のランニングウェアの上下を着る。マスクを二重に付けて、フードを被る。最後にゴム靴を履いて、完全防備だ。


 戸外への悪臭放出を恐れたので迷ったが、結局、換気扇を回した。いざ……ゴミ袋の口を解いた。


 むせかえるような臭気。

 胃の内容物が全て逆流するのを堪えて、1/3程袋の中身をポリバケツに移した。

 ドロリとした肉か何か――もう形のよく分からない物体が、どす黒い体汁と共に流れ出した。


 娘だと思うと、気持ちが萎えそうなので、心を閉ざして『作業』を遂行することだけを考えた。


 バケツに半分入った物体に、パイプ洗浄剤を注ぐ。本来、水で薄めて使う濃縮タイプの原液だ。

 シューッと泡立って、塊が崩れ、溶けていく。


 『たんぱく質の分解には、強アルカリの薬剤が効く』


 看護学生だった時、総合病院での研修中に、一度だけ腐乱した遺体の解剖に立ち会ったことがある。

 軒並み顔色を無くしたナイチンゲールのヒヨコ達を前に、法医学の教授はご丁寧にも座学の補講を行ってくれた。

 先輩看護師に言わせると、若い女の子を怖がらせて楽しんでいる『ドS趣味』なのだそうだ。


 当時は、只々胸の悪い記憶しかなかったけれど、今になって役立つなんて。


 グズグズと液状化する人体の成れの果てを、実験経過を観察するように眺めた。


 全ての感情は、事が終わった後でいい。


 一定の液状化を遂げたバケツの中身を、バスルームの排水口に流し込む。

 ドロリ……ドロリ……ブクブク泡を立てながら、サクラは排水口に消えて行った。


 バケツの底に小さな骨が幾つか残る。

 ゴム手袋で拾い上げ、プラスチックのトレイに乗せた。


 ――さぁ、次だ。


 再び覚悟を決めて、ゴミ袋からバケツに中身を注ぐ。


 この作業を、何度か繰り返した。前半こそ、崩れた水分の多い部位が流れ出たが、徐々に腐肉が剥がれていない生々しい下肢や胸になり、それらは溶解に時間がかかった。


 最後に、頭が残った。


 バケツにゴロンと頭髪が付いたままのサクラが収まる。


「……ごめんね……ごめんなさい」


 顔が見えないように頭髪を上にして、合掌する。

 頑張って、ここまで作業してきたが、挫けそうだ。


 ――だけど。これを乗り越えなければ。


 サクラの遺骨と、これからも一緒にいるために必要なことなのだ。

 涙を飲んで、パイプ洗浄剤に頭部を漬け込んだ。


 たっぷりと注がれた洗浄剤の中で、ゆっくりと頭髪が広がり浮かび上がる。

 髪が溶け、皮膚も筋肉も眼球も溶けていく。頭部全体を浸す薬剤は、頭蓋骨の内部で脳を溶かしていることだろう。


 頭部が白骨に変わるまでの間、トレイに移した骨に、更に洗浄剤をかけ、こびりついた肉片をブラシでこそぎ取る。

 洗浄液が飛び散る中、1本、1本、骨が積み上げられていく。


 時々、バケツの中身を確認し、濁った薬剤を少し捨て、新しい薬剤を継ぎ足す。


 そんな作業を何時間繰り返したろうか。


 最後に頭蓋骨もブラシで仕上げ、サクラは綺麗な骨になった。


 シャワーの水でバスルームを洗い流す。使ったバケツとトレイも丁寧に洗う。

 更に、サクラの骨を水で入念にすすぐ。

 洗い終わった彼女の骨は、バケツ一杯に満たなかった。


 二重にしたゴミ袋に、腐乱死体を入れていた黒いゴミ袋を入れ、固く縛る。

 別のゴミ袋には、トレイと遺骨を納めたバケツごとすっぽり入れて、この口も縛る。


 残ったパイプ洗浄剤を、排水口にゆっくり注いで、パイプが詰まっていないことを確かめた。


 空になった洗浄剤の容器をゴミ袋にまとめ、ようやくマスクを外した。


 腐敗臭はもはや消え、代わりに強烈な薬剤臭が染み付いている。


 自分の完全防備を外すと、これもまた別のゴミ袋に入れた。


 ――第一段階は、終わった。


 体力的な疲労より、精神的に参っている。


 バスルームの換気扇を回したまま、複数のゴミ袋をとりあえず子ども部屋に運んだ。


 悪臭原は消えたが、室内に染み付いた腐敗臭は消えていない。

 ここの掃除は、明日にしよう。


 毛布にくるまって、リビングのソファに身を沈めたのは、窓の外が白み始めた頃だった。

 長い夜の果て、夢すら見ないで眠りに落ちた。


-*-*-*-


 頭の重さに目が覚めると、既に日は高く、夫の姿もなかった。


 ふらつく身体をゆっくり起こし、キッチンで水を一杯流し込んだ。

 一息付いて、バスルームを確かめる。換気扇を回したままにしていたが、まだパイプ洗浄剤の薬剤臭が鼻に付いた。


 それから、子ども部屋に向かう。まだ腐敗臭は相変わらずきつい。今日はこの部屋を片付けなくては。


 早速、新しいゴミ袋にサクラの寝具一式を入れていく。

 夕べのゴミ袋と一緒に、暗くなってからゴミ置き場に持っていこう。


 ベッドのマットも剥がして、木枠を壁に立て掛けた。机とカラーボックスと小さなタンスは、木枠の横に寄せ、床の桜色のカーペットをくるくると丸める。


 部屋全体に積もった埃を取り除き、出しっぱなしだったオモチャや絵本を片付けると、窓のない6畳の空間は、思った以上にガランとした。


 このマンションに越して来た日のようだ。

 あの日、まだサクラは生まれていなかった。私の妊娠が分かり、安定期を待って新居を探したのだ。

 夫が暴力を振るうこともなく、未来は明るい光に満ちていた。


 あの日から、何が狂ってしまったのだろう。

 何がいけなかったのだろう。

 もし――時間を戻してやり直せるのなら、どの日どの時に戻れば、優しい夫と愛しい娘を取り返せるのだろうか。


 空っぽの私の映し鏡のような子ども部屋の中で、床に突っ伏し、わんわんと泣いた。


 夫に殴られた夜、この部屋に滑り込んで声を殺して泣いていると、気付いたサクラに髪を撫でられたことがある。

 本当に、優しい娘だった――。


 その娘は今、片付けた家具の向かいの壁際で、ゴミ袋の中、骨になってしまった。

 腐っていたとはいえ、この手で、肉体に見切りをつけたのだ。


 昨夜の悪夢のような作業が、今になって鮮明に思い出される。

 きっと、あの光景を忘れることはできないだろう。


 堪らなくなり、骨の入ったゴミ袋の元に這う。

 縛った口を解くと、洗浄剤の臭いがした。腐敗臭はほとんど消えている。

 バケツの一番上に置いた、バレーボールよりも小さな頭蓋骨を胸に抱く。壊れないように注意しながら、何度も何度も頭頂を撫でた。あの夜――彼女が私にしてくれたみたいに。

 あの小さな温かい掌は、もうこの世にはない。そう思うだけで、心臓が握り潰される程苦しい。

 いっそ、このまま狂えたらどんなに楽だろう。


 ――まだ、だめだ。


 折れそうな心の一方で、やはりマグマのような怒りも渦巻いている。


「約束を果たすから……待っててね」


 呟いて、サクラの頭蓋骨をバケツに戻した。部屋に染み付いた腐敗臭が移らないように、すぐに口を縛った。


 涙を拭いて、立ち上がる。

 卵色の壁紙に無香料の消臭剤を吹き掛けた。

 何度か繰り返すと、しぶとかった腐敗臭がようやく薄らいだ。


 リビングのクローゼットから扇風機を運び、最強の風力で首を振らせる。


 ようやく、第二段階だ。


 リビングに戻り、夕食の支度までの間、ソファで身体を休めた。


 岸本主任と約束した職場復帰の日が、明後日に迫っていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ