【N】奪われて失ったもの
白い無機質な壁が、目の前に広がっている。
遠いのか近いのか、距離感がよく分からない。
私は――どこにいるのだろう?
「――夏美……!」
隆志の不安気な顔が、視界の端から突然飛び込んできた。
「……あなた……?」
自分の声の弱々しさに、自分で驚いた。
「良かった……。今、看護師さんを呼んで来るな」
夫はホッとした笑顔を残して、スッと視界から消えた。
腕を動かそうとして、点滴が繋がっていることに気が付いた。
――そうか、私は病室にいるんだ。
壁と思ったのは、天井だったのか。
頭がふらふらしている。身体も重い。
「……大丈夫ですか、八木山さん?」
40代くらいの看護師が、優しく話掛けてきた。
「私――どうしたんですか?」
「2、3日の間……眠っていたんですよ。もう少し元気になったら、これからのことを話しましょうね」
曖昧な答えに、苛立ちを感じた。
彼女に悪気があるはずもなく、これが患者への適切な対応だとは分かっている。
「私も看護師ですから、大丈夫です。どうしてここにいるのか教えてください」
新田、というネームプレートの看護師さんは、困った色を瞳に浮かべた。
「――それでは、ちょっと確認してきますね。少し待っていてくださいね」
布カーテンをシャッと閉じる音がして、しばらく独りになった。
主任かドクターに確認しに行ったのだ。
夫の姿がない所をみると、先に私の容態の説明をドクターから聞いているのかもしれない。
規則的に流れ込む点滴を見ていると、否応なしに職場を思い出す。
夫は連絡してくれたろうか……只でさえ人手不足なのに……岸本主任に迷惑を掛けてしまった――そんなことをぼんやり考えた。
そういえば、サクラの保育園は、ちゃんと夫が送り迎えをしてくれているのだろうか?
「――サクラ……」
何か重大な出来事を忘れている気がする。
必死で思い出そうとするが……分からない。
「八木山さん」
新田さんよりも、もっと落ち着いた声が呼ぶ。
顔を向けると、岸本主任に少し雰囲気の似た年配の看護師が立っていた。
「主任の大村です。あなたが運ばれて来た状況から言って、意識が戻った直後に容態をお伝えすることは相応しくないと判断しています」
眼鏡をかけた丸顔の主任看護師は、穏やかに、しかしきっぱりと説明を始めた。
「――――」
医療従事者として、正しい判断であることは分かるので、反論できずに彼女を見つめた。
「……でも、訳も分からずに病室に置かれる不安も、よく理解できます」
眼鏡の奥の瞳を俄に細め、大村主任は点滴をしていない方の私の腕にそっと触れた。
「もしあなたが興奮状態を示したら、すぐに鎮静剤を打ちます。――それでも宜しければ、お話しします」
覚悟が必要な話なのだろう。そんなに――私の容態は良くないのだろうか。
「……ありがとうございます。教えてください」
ゆっくりと目を閉じた後、大村主任は腕に触れたまま頷いた。
「八木山さん、妊娠されてましたね? 赤ちゃん――残念でした」
スッ……と血の気が引いていくのが分かった。
「母体も危険な状態でした」
まだ心音を実感できるほど育っていなかったが、私の中の小さな命が消えてしまったというの?
この子の妊娠があったから、夫との生活も続けよう、頑張ろうと心に決めたのに……。
「……八木山さん、大丈夫ですか?」
「赤ちゃん――どこにいるんですか……身体は――」
大村主任は無言で首を振った。それは私の身体から切り離されただけでなく、既に手の届かない所へ、失われてしまったことを意味している。
「そんな――どうして」
「12週未満でしたから……ご主人が判断されたんです」
妊娠12週未満の胎芽は、まだヒトではない。
日本の法律では、死亡届も不要、葬儀も行う義務はない、とされている。
でも。
「嫌……私の……一部だったのに……! 姿も見られないなんて……酷い……」
涙がポロポロとこぼれた。わあっと声を上げて泣きたかったが、その力すら残っていない。
私が眠っている間に、夫の独断で全てが終わっていたなんて――受け入れられるはずもなかった。
「――新田さん、お願い」
すぐ側で、大村主任の鋭い指示が飛んでいた。
触れられていた腕に微かな痛みを感じ、鎮静剤が打たれたことに気が付いた。
「待って……まだ、聞きたいことがあるの――」
自分の声が遠い。
看護師二人の白衣姿がぐにゃりと歪み、白い天井に同化した。
私は、また現実の岸辺から引き剥がされ――混沌の波に飲み込まれてしまった。
-*-*-*-
再び目覚めると、辺りは薄暗かった。
パーティションの布カーテンの外から、仄かに明かりが差し込んでいる。
左腕は、まだ点滴に繋がれている。
右手を持ち上げたが、自分の身体とは思えない程、重く、感覚が鈍かった。
ゆるゆると慎重に動かして、引きつった瞼の周りに触れる。
乾いた涙の跡が、ザラザラとこびりついていた。
「――サクラ……」
お姉ちゃんにしてあげられなくて、ごめんなさい。
誰に似たのか、おしゃまな娘は、小さなきょうだいがやって来るのを楽しみにしていた。
まだ1年近く先の第二子の誕生を伝えていなかったのに、絵本もオモチャも架空のきょうだいと一緒に遊んでいた。
きっと、可愛らしいお姉ちゃんになったことだろう。
――サクラに会いたい。
周囲の様子から、今は夜に違いないだろう。サクラはどうしているのか――一人で眠れているのだろうか?
夫の姿が近くにない所をみると、ちゃんと側にいてくれているのだろうか。
ちょっと甘ったるい匂いのする娘を、無性に抱きしめたかった。
――カラ……。
軽く静寂を揺らして、病室の扉が開閉した。
ペタペタとスリッパの足音が、リノリウム張りの床を鳴らす。
「……目が覚めたのか、夏美」
布カーテンを眺めていると、疲れた表情の夫が滑り込んで来た。家に帰っていた訳ではなかったようだ。
「あなた……赤ちゃんが」
サクラの様子が気掛かりなのは確かだが、口を衝いて出たのは失った悲しみの報告だった。
「うん……ごめんな」
ベッドサイドのパイプ椅子に力なくへたり込み、彼は両手で頭を抱えた。謝りの言葉は、涙声にも似て、震えている。
「――どうしてあなたが謝るの?」
私に無断で、流れてしまった遺体を破棄する決断を下したことを、謝っているのだろうか。
確かにこの禍根は、私達が夫婦で、家族であることを続けるにせよ、一生涯消えることはないだろう。
今はショックが強すぎて、思考が麻痺しているし、何より私自身、夫を責め立てるような力が出ない。
人は怒りを表すにも、燃料となるエネルギーが必要だ。
今の私には、発火の機会を伺っている動機だけが虚しく燻っている。
「夏美……覚えていないのか?」
夫は、殻から触角を伸ばすカタツムリのように、両手で覆っていた顔を、指の隙間から恐る恐る覗かせた。
「え……?」
「あ――いや。何でもない」
彼は心底ホッとした表情を見せながら、言葉を濁した。
感染した不安が、胸の奥でさざ波のようにゆっくり広がっていく。
「あなた……?」
「看護師さん、呼んでこようか」
まるで追及を逃れんとするかのように、ぎこちなく立ち上がる。
「待って。サクラは、元気なの?」
気掛かりを口にすると、再び夫の瞳が泳いだ。
「――夏美」
「あの子の顔を見たいわ。一人切りで、ちゃんと眠れているのかしら」
「……大丈夫、家で眠っているよ」
私を安心させようとしてなのか、側に立ったまま、夫は前髪に微かに触れた。
「会いたいわ」
「うん……まずは、君が元気になってくれないと」
彼の掌は肉付きが少なく、細く骨ばっているが、優しく髪を撫でる長い指先から、暖かい体温が伝わってきた。
その瞬間、何度目かの涙が込み上げてきて、喉の奥がキュッと詰まった。
「……そうね」
点滴の水分が全て涙に変わったのではいかと思うくらい、一度堰を切った悲しみはポロポロと止まらなかった。
指を、手を濡らしたまま、夫は髪と頬をゆっくりと撫でてくれた。
私はその行為を彼の優しさ、愛情だと受け止めていた。
ずっと病室に付き切りで居てくれたことも、傷付いた私を労ってのことだと信じて疑わなかった。
入院から1週間後、退院してマンションに帰るまでは――。




