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【N】夜勤明けの悪夢

 夕方から降り出した雨が、日付を越えて、まだ続いていた。


「八木山さん、お疲れ様」


 岸本主任がナースキャップを外しながら、ナースステーションの椅子に腰を降ろした。

 緩いウェーブの髪に、また少し白いものが増えた気がする。

 夜勤が堪える年齢に差し掛かっているのだろう。


「お疲れ様です、主任」


「ごめんなさいね、遅くまで。お嬢ちゃん、具合悪かったんですって?」


 日誌に走らせていたペンが、思わず止まる。


「いいえ、ありがとうございます。主人が見てくれているので大丈夫です」


 昨日から、娘のサクラが風邪を引いていた。家を出る時は熱が下がっていたので、夫に書き置きを残してきた。それでも不安なので、4時で早上がりさせてもらう予定だった――のだが、朝方容態が急変した患者さんを看取って、結局通常勤務の6時を回ってしまった。


「そう? ……ご主人、大丈夫なの?」


 主任はポットから湯呑みに2つ、お茶を注いで然り気無く私に勧めた。


「すみません。……最近は落ち着いてきたみたいなんです」


 椅子には座らず、暖かいほうじ茶を一口含む。


 夫――隆志は、普段は穏やかで優しい人だ。

 ところが、一度リミッターが外れると、手が付けられない暴力を振るい出す。目が座り、モノを壊し、私の髪を掴んで殴る、蹴る。

 特に、アルコールが入ると暴力は長時間続いた。興奮が収まるまで、嵐が過ぎるまで、悲鳴と嗚咽を堪えながら耐えるしかなかった。


 顔のアザはメイクで隠した。足の傷は濃い白のストッキングで隠した。

 しかし、下腕の内出血に気付いた主任に、見抜かれてしまった。

 プライベートを明かしたくはなかったが、彼女には夫のDVを打ち明けた。


「二人目も出来たんだから、本格的に治療した方がいいわよ」


 まだ2ヶ月にもならないが、妊娠検査薬で陽性反応が出た。

 主任は、経験上、DVは根本治療が必要だと教えてくれた。

 暴力は私にしか向かないけれど、いずれ子どもにまで及ぶかもしれない。だから、今の内に専門機関に委ねるべきだとアドバイスしてくれている。


「そうですね……話すタイミングがなかなか難しくて」


 私は空いた湯呑みを片付けようとしたが、素早く主任に取り上げられてしまった。


「お二人だけで難しければ、いつでも力になるわよ。さ、後は任せてサクラちゃんとこに急ぎなさいな」


 目尻の小皺を深めて、主任は肩にポンと触れた。

 幼い頃に母を亡くした私に取って、女親の温もりを想像させる存在だ。


「すみません、お言葉に甘えます」


 頭を下げて、ロッカールームに急ぐ。

 着替えもそこそこに、バッグを抱えて、赤いレインコートを羽織った。


 クリニックの外に出ると、冬の雨が冷たく頬を叩きつけてきた。

 3月になって、そろそろ日の出時間のはずだが、天候のせいかまだ薄暗い。


 バス停のひさしの下で始発を待つ。

 マンションは、停留所を8つ、バスで20分の距離にある。


 手袋をはめた手を更にポケットに入れたが、凍えていた。


 ほどなく、バスが来た。

 始発の車内には、通勤客が数人乗っていて、皆カバンを抱えた姿勢で座席に身を沈めている。

 私も疲れた身体を投げ出して、ぼんやりと視線を車外に向けた。

 滲む車窓をオレンジ色の街灯が染めている。


 バス停を進むに連れ、住宅街はゆっくり眠りから覚めていった。通勤通学の傘が歩道に増え、車内の空席もふさがっていく。


 降車客より乗車客が多い中、8つ目のバス停で降りた。

 雨空は、やや光度を増しており、マンションの手前で街灯が消えた。


「――ただいま……」


 4階の廊下の一番端、406の自宅に入る。

 玄関の奥のリビングが暗い。時間的には、夫が当然起きているはずなのに。


 濡れたレインコートを玄関の壁に掛けて、急いでリビングのドアを開け――異変に気が付いた。


 カーテンを引いた夜のままのリビングは、床のラグが乱れ、棚が倒れ、ローテーブルもひっくり返っている。

 そして、一番大きなソファの上から、唸るような低いいびきが響いていた。


 また、飲んだのだろう。

 私のいない夜に、暴力を振るう対象がいないので、家具に当たったのだろうか。


「――サクラ……!」


 惨憺たるリビングの有り様に気を取られてしまった。


 ダイニングを横切って、子ども部屋に向かう。


 部屋のドアを開けて、咄嗟に違和感に包まれた。

 部屋の明かりが消えている。

 幼いサクラが怖がるから、いつも机の側の間接照明だけは点けているのに。


「サクラ……?」


 慌てて天井の明かりを点けた。


「――サクラっ!?」


 乱れたベッドの上で、掛け布団も被らずに、ピンクのパジャマ姿が横たわっている。

 不自然に曲がった腕、広がった髪から覗く土色の肌――。


「嫌……嘘よ……サクラっ!!」


 夢中で駆け寄って触れ、すっかり体温のない娘を抱き上げる。

 細い華奢な首に、紫色の太い指の跡がくっきりと付いていた。


「サクラ……! サクラ……!! いやあぁぁぁ……!!」


 何度名前を呼んだのか、身体を揺すり、抱きしめたのか、分からない。

 ただ、頭の芯が燃えるように熱いのに、どこかで事切れた娘がもう還らないことを強く感じている自分もいた。

 死者に幾度となく向き合っている、看護師としての知識が恨めしかった。


「サクラ……サクラぁ……ごめん、ごめんね……!」


「――夏美……?」


 ベッドの前で泣き崩れている私の背後から、戸惑った夫の声がした。

 頭の芯から、身体中に炎が広がった気がした――。


「……ひ、人殺し……! あなた、サクラを返して!! 返してよぉ……!」


 娘を抱いたまま、気が付けば夫に詰め寄っていた。


「――夏美……サクラ?」


 夫の顔から、みるみる血の気が引いた。

 腕の中の変わり果てた娘の姿を、信じられないという眼差しで見つめている。


「書いたのに……! 熱があるから、お願いしますって、あなたに書いたのに!!」


 涙声が詰まる。

 看病をしてくれ、とまでは書かなかった。そこまで期待しなかった。なのに、まさか殺してしまうなんて。


「どうして?! こんな……この子は、こんなに、まだ小さいのに!!」


「――何も……覚えてないんだ……」


「人殺し……! サクラを返してよ!! 返してぇ……!」


 一歩、更に詰め寄った時だった。


 ――バンッ!


 鋭い音が響き――目の前が一瞬、真っ白になった。

 夫に突き飛ばされた私は、サクラを抱いたままバランスを崩して、子ども机の角に腰を強か打ち付けた。

 更に、倒れた拍子にベッドの枠に乗り上げるように、下腹を叩き付けた。


「――ぐうっ……!」


 ぶつけた痛みとは異質の――何かが引きちぎられるような、異常な痛みが下腹から波のように広がった。


 身体から力が抜け……抱いていたサクラがゴロリと床に転がった。

 抱き上げようと腕を伸ばしたかったが、叶わない。

 サクラの身体越しに、部屋の入り口で呆然と立ち尽くしている夫の姿がぼやけ――間もなく意識が途切れた。




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