母と息子
健康優良児を絵に描いたようなヨウヘイが、学校を休んだ。
鬼の撹乱――ならいいが、タイミングとしては夏美さんの噂とリンクしている可能性が高い。
普段、ニブイ所も十二分にあるが、あれで繊細な面もある。こと、夏美さんに関しては、心無い噂に深く傷付くに違いない。
「――吉田、帰りアイツの家寄るけど……来るか?」
放課後、掃除の担当場所に散る途中、廊下で声を掛けた。
「ありがと……でも、不自然だわ」
吉田は足を止めず、僕の少し前を歩きながら答えた。
今日1日中、彼女の表情は暗かった。
誰もいないヨウヘイの席を眺めて、ため息を付いている姿を何度も見た。
「――分かった。それじゃ……」
「夜、電話していい?」
振り向かずに、早口で聞いてきた。
「え、あ――うん」
僕の返事を待ってから、吉田は階段を駆け上がった。彼女の掃除担当場所の理科準備室は、階上にある。
「ありがとね、嘉山」
見上げていた僕に、踊り場の所でちょっと微笑んで、駆けて消えた。
ヨウヘイを想って心を乱している吉田は、何故か酷く危なかしく見えた。
-*-*-*-
帰り道を遠回りして、『ビューティーサロン・カガミ』のドアを開ける。
ガラス張りのドアが、カランカランと来客を告げた。
「こんにちはー、ヨウヘイいますか?」
ご近所の見知ったオバチャンが、鏡越しに週刊誌から顔を上げる。
多分、オバ友会のメンバーだから、ちょっと会釈した。
店の奥のシャンプー台で準備をしていた、ヨウヘイのおばさんが振り向いた。
「あらっ! マモル君!」
ヨウヘイのバカスピーカーは、おばさん譲りだ。
大きな通る声を上げ、おばさんは僕に向かって駆けてきた。
「――ちょっと、こっち上がって!」
「……えっ?! は、はい……?」
グイグイ肩ごと抱えるように僕を掴むと、店の奥――住宅に繋がるドアの中に押し込んだ。慌ててスニーカーを脱ぐ。
「――須田さん、ごめんなさいね! ちょっと待っててくださいね!」
おばさんは、僕を家に上げながら、店内のお客さんに声をかける。
はーい、と戸惑った声が返ると、待つか待たずかの内にドアを閉めた。
「座って、マモル君」
勧められるがまま、リビングのソファに腰を降ろす。
おばさんは、冷蔵庫からコーラのペットボトルを僕に渡した。
「このままで、ごめんなさいね」
「いえ、ありがとうございます」
ペットボトルを受け取ると、おばさんはダイニングの椅子にストンと座った。
何か、力の抜けた様子が気になった。
「マモル君、今日、陽平に会ってないのね?」
「……はい、アイツ休みだったんで来たんです」
おばさんは悲しそうに目を細めた。
「あの子、夕べから帰っていないのよ」
「えっ?!」
「……夕べ、ちょっと……喧嘩したのよ」
言いにくそうに、おばさんは口籠る。
ヨウヘイの家は、早くに離婚して、母一人子一人だ。女手ひとつで苦労してきた母親のことを、ヨウヘイは人一倍感謝している。
アイツが地元の大学を志望しているのも、実家から通えることと、母ちゃんを一人にしないようにという気持ちがあるからだ。
「……喧嘩、ですか」
「昨日、警察がうちに来たの。マモル君も知っているかもしれないけど――」
「隣町の事件の……聞き込みですか」
「……ええ、そうなの」
僕が先回りして答えると、少しホッとしたように息を付いた。
「それで、私が早川さんの名前を出したら、あの子……もの凄い剣幕で怒って」
「――――」
想像に難くない。
元々、ヨウヘイが夏美さんの噂をどこまで知っていたかに寄るが……ショックの反動は大きかったに違いない。
「あんな姿、初めてだわ」
いつも明るいおばさんが呟いて、目頭を押さえた。
「ヨウヘイ、手ぶらで飛び出したんですか?」
「――ええ。警察に相談したんだけど、年頃の子どもにはよくあることだから、って……一晩待ちなさいって、動いてくれなかったの」
警察ってそんなものなのか。
親子喧嘩の家出くらいじゃ――事件じゃないと、探してくれないのか。
「心当たりは探したんですか?」
「いいえ……あの子のことだから、夜中にでも帰ってくるかと思って。今日、お客さん帰ったら、お宅に電話しようと思っていたのよ」
なるほど。その矢先、僕の方から来たから、おばさんは驚いたのか。
「僕も、心当たりを探してみます」
ソファから立ち上がる。
「受験の大変な時にごめんなさいね、マモル君」
「いいえ。ヨウヘイは親友ですから」
おばさんは、嬉しそうに笑顔を作ったが、涙が痛々しかった。
「後で電話します」
コーラのお礼と共に、僕は『ビューティーサロン・カガミ』を後にした。
友達が少なくはないヨウヘイだが、一晩転がり込める相手と言えば限られている。
そもそもクラスメイトの家に潜んだのであれば、ソイツが僕に学校でコンタクトを取ってくるはずだ。
それがなかったということは、クラスメイトの所にはいない、という意味だ。
だとしたら――思い付くのは1ヶ所だ。
陽が傾いてきた。秋分の日を過ぎて、昼の時間が徐々に短くなっている。
いつの間にか、小走りになっていた。
「ヨウヘイ! いないのかー?!」
住宅街の枝道から、神社の境内に入る。
縄張りに戻って来たカラスの群れが夕空を飛びかって、ガアガア喧しい。
「おーい、いるかー、ヨーヘー?!」
社務所をぐるりと回り、夏祭りのメイン会場になった広場まで来た。
木製のベンチに、見慣れた坊主頭が揺れた。
「ヨウヘイ!!」
僕が駆け出すと、ヌッと立ち上がり、黒いTシャツ姿の友人はその場で途方に暮れている。
「――マモル……」
「バカ野郎!」
感情に任せて彼の胸板をどついたら――体格差があるのに、ペタンと呆気なく下草の上に尻餅を付いた。
「――ってぇ……」
「何やってんだよ、お前! おばさん――泣いてたぞ!」
見下ろして、思い切り叫んだ。
ヨウヘイの表情が強張った。
「夏美さんの噂でお前がツラいのは分かるけど! お前、大人の男になりたいんじゃなかったのかよっ!?」
「マモル――」
迷子の仔犬のような瞳で、ヨウヘイはこっちを見上げている。
僕は、大きく息を付いて、気持ちを落ち着かせようとした。
「夕べ、家でも母さんが噂に振り回されてさ……キレかけたけど堪えたよ。お前はホレてる分、僕より腹も立つだろうけど――」
「母ちゃんが、夏美さんを悪く言うのが……許せなかったんだよ」
座り込んだまま、ヨウヘイは俯いた。怒りではなく、悔しさが滲んでいる。
「……悪く?」
「『もっとみんなに溶け込んでいたら、警察に名前が上がったりしないのに』って……溶け込まなかった夏美さんが悪いんなら、受け入れようとしなかった『みんな』だって悪いだろ?」
ヨウヘイの憤りは、尤もだった。
僕が、この町――この地域を離れたいと願う理由も、根本は一緒だ。
ちょっとしたつまらない出来事が、大袈裟な尾ひれを纏って、あっという間に駆け抜ける。
運動会での順位や学校の成績、父親が出世したとかリストラされそうとか、母親がパートに出たとか、お婆ちゃんがボケてきたとか――。
プライベートに色を付けられ晒される、こんな地元はうんざりだ。
特に、女のコミュニティは、結束が強いように見えるが、その実態は妬みや批判だらけで陰湿な泥沼みたいだ。
しかもこの町のような片田舎では、厄介な因習やしがらみも加わり、『郷に従わない者』は生きにくいこと甚だしい。
「オレ……母ちゃんには、夏美さんを仲間に入れて欲しかった」
「ヨウヘイ……」
「マモルのおばさんってさ、夏祭りの時も頑張ってただろ? 竹田の爺さんを説得してさ」
そうだ。だから、僕は母さんを誇らしく思っていたんだ。
婦人会のオバチャン達が、火の粉を浴びぬよう、遠巻きに見ぬ振りをしていた中で、母さんは果敢に仲介を試みた。
上手くはいかなかったけれど、あれは『正しい大人』の振る舞いに見えたんだ。
「ヨウヘイ、僕らさ……母親に『理想の大人像』を押し付け過ぎなのかもしれないな」
昨夜の母さんへの態度を思い出し、僕自身、反省の気持ちがこみ上げてきた。
「理想の大人像……」
「僕らが小さい時、親が言うだろ。『みんなで仲良くしなさい』って。だけど嫌なヤツとかいるからさ、親とか大人がいる前だけ上手く仲間に入れた振りしてさ」
地域でも町内でもクラスでも――沢山の人間が属する集団で、『みんな仲良く』するなんて幻想だ。
「結局、表面的な関わりだけで、深くは付き合わないんだよ。それを『友達になれ』って押し付けられたら、ウザいよな」
僕らは幼い内から集団生活に組み込まれ、『仲良く』することが期待される。
だけど、身につけていくのは親和性のスキルではなく、軋轢が表面化しないよう、狡猾に隠蔽するスキルばかりだ。
「多分――僕らが母親に期待したのも、同じことなんだと思う」
そもそも、僕らは間違っているのかもしれない。
夏美さん自身は、『仲良く』受け入れてもらうことを望んでいたのだろうか?
「オレ、どんな顔して帰ったらいいか、分かんなくてさ……気がついたらここに来てたんだ」
「バカだな、お前。だったら、家に来いよな」
「――――」
顔を上げたヨウヘイに、右手を差し出した。
ちょっと戸惑ってから、僕の手を握ったので、グイと引き上げる。
「……重いよ」
ぼやくとヨウヘイは苦笑いして、立ち上がった。
途端、彼の腹の虫が豪快な音を立てた。そりゃそうだ。ほぼ1日、絶食状態に違いない。
「あ。……これ、やるよ」
ふと、カバンに入れてきたコーラの存在を思い出した。腹には溜まらないかもしれないが、無いよりはマシだろう。
「悪いな、サンキュ」
「いいって。元々、お前ん家のものだから」
「え――」
受け取ったペットボトルをじっと見つめる。
それからキャップを捻ると――ジュワーッとハデな音を立てて、コーラが噴き出した。
「わっ?!」
「あ! 走ったから……ごめん!」
噴いた中身はヨウヘイの手を濡らし、1/3近く減ってしまった。
呆気に取られた僕らだったが、どちらからとなくクックッと笑いが込み上げてきた。
「ちえっ――ひでぇなぁ」
ひとしきり笑い合った後、彼は残りを一気に飲み干した。
「オレ、やっぱガキだ。お前の方が、大人だな」
「そんなことないよ」
ヨウヘイや吉田を見ていて、つくづく思う。
僕はまだ、本当に守りたい人がいないんだ。
ヨウヘイが、大切な母ちゃんを悲しませたように。
吉田が、形振り構わず情報を得ようとしたように。
守りたい誰かのためならば、他の全ての人が傷付いても構わない――そういう感情に振り回された経験がないから、僕は怒りを自制できたのだろう。
「……大人なんかじゃ、ないよ」
繰り返した僕を、ヨウヘイはチラリと見たが、触れずに大きく伸びをした。
「この季節ってさ、夜中は結構冷えるんだぜ。布団が恋しいよ」
おどけたように両手で自分の腕を抱える仕草をしてみせる。
コイツなりの気遣いに、苦笑いで答えながら、
「ちゃんとおばさんに謝れよ」
背中をポンと叩いて、その場から歩き出す。
「おう……。ありがとうな、マモル」
『サンキュ』と言わない友人の言葉がこそばゆい。 隣を歩くヨウヘイは、多分僕よりも数歩『大人』の領域に踏み出しているのだろう。
彼の家までは送らなかった。
親子の対面を見られるのは、きっと気まずいと思ったから、『ビューティーサロン・カガミ』の回転灯が見えた所で、僕は足を止めた。
「じゃ、明日な!」
「おう!」
いつもの笑顔を残して、彼は大きく手を振った。
駆け出した彼の後ろ姿が、宵闇に溶けて小さくなった。




