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プールの神様

「ここのプールにはさ、神様がいるよね」

私はジャグジーに気持ち良く浸かっていて、長老の言葉を軽く聴き流した。

「あなたみたいに綺麗に泳げる人にはよくわかるでしょう」

私はこぎれいに手入れされた花壇で、ふいに金魚のお墓を見つけたような違和感を感じて目を開けた。

「失礼。今なんと仰いましたか?」

長老はふさふさとした真っ白な眉毛の下から面白がっているような目で僕を見た。

「おや、これはおかしなことを言ったかな。ははは、お聞き流しください」


長老はいつもウォーキングコースを歩いてジャグジーに浸かる。

私は『速い人コース』を二千メートル程度泳いでジャグジーに浸かる。

そのうちジャグジーで顔を合わす機会が増え、自然と挨拶をし、お話をするようになった。

長老長老と書いているが、悠々自適の近所のおじいさん、である。

昔社会党が政権を握ったときの村山首相の毛髪を豊かにして真っ白にして、同じく真っ白な口ひげを蓄えたような風貌なのだ。サンタさんの顎鬚を綺麗に剃って、貧相にならないように格好良くダイエットさせると長老のような感じになるのだろうか。


「神様ですか?」

「んん?」

長老は眉毛の下からちらりと私を見た。

それからはっはっはと長老は半ば眉毛に隠れた目を細めて笑った。

「神様がね、このプールにはいるよね」

「どうでしょう?私にはちょっと・・・」

私が腰の引けた様子を見せると、長老はにこりとほほ笑んだ。

「ぼくはね、昔高校の先生をしていたんだよね」

そういって長老は『神様』について話してくれた。



ーーー僕はね、高校でバスケ部の顧問をしていてね。

バスケ部というのは、たいてい体育館が活動場所だ。ほかにもバレーボール部や体操部なんかがいたけど、そこはまぁうまくやるわけだ。

体育館が使えないときは体力錬成なんていって、走り込みをしたりするの。


僕も若かったからね、生徒からは恐れられていたよ。厳しかったからね。まあ当時はそんなのが流行っていたんだよ。知ってる?お前はゼロか?ってね。そういう熱血教師が流行っていた時代だよ。

僕は、そうだねぇ、二十代も後半で、あなたよりちょっと年上くらいじゃないかな?ちょうどアブラものっていたというかね、関東大会も上位が狙えて全国大会なんかもしかしたらいけるんじゃないかなーってね。

生徒にビシビシ指導してね。バレー部も体操部も交渉すると快く体育館を譲ってくれてね。


でね、神様の話はここからだよ。

そこの体育館っていうのがそれなりの歴史があってね。いや、歴史があるなんていうと聞こえはいいけど、要するに古いんだ。あちこち痛んでいてね。

でも、生徒は自分たちの高校の体育館のほうがなぜか頑張れるっていうんだ。

水泳も遠征とか合同練習とかするでしょう?どう?合同合宿はした?

そういうときって、えーと、なんていうんだっけ?ほら、サッカーでいうでしょう?そうそう、アウェイ。なんか違和感を感じるんだって生徒が言うんだよ。

確かにね、僕から見ても、そうだなあ、動きにキレがないんだよ。それにスタミナも続かない。すぅぐばてちゃうんだよなぁ。

それでね、全国大会行くには原因を探らなきゃ行けないぞって、僕は思ったの。若かったからね。何かウラがあるんじゃないかって思ったわけ。

それでさ、キャプテンにちょっと来いって言って話を聞いたらさ。いや、僕は若かったけど、背中がゾワッとしたよ。そのキャプテンがね、僕の目をしっかり見て「この体育館には神様がいます」って言うんだよ。


いや、彼が言うにはさ、何か見えちゃうとかそういう話じゃあないんだ。あなたも練習していてへこたれそうになるでしょう?そんなときに、ここの体育館だと、ちょっとがんばれるんだって。

いや、僕はそういう感覚はよくわからないよ。当時のキャプテンが言うんだもん。彼ももう二児の父だよ。いやー、年賀状なんかよこさないけど、そのへんに住んでるからね。会っちゃうんだよ。はっはっは。


その後三十年四十年と教師をやるとさ、そういうようなことにちょいちょい出逢うわけだ。

それでね、僕はさ、わからんよ、わからんけどねぇ、どうやら古い体育館に神様は住み着くみたいだってわかったの。生徒たちがさ、汗水たらして涙も流したのがさ、長い間かけて床にしみこんだり天井に吸い込まれるわけ。そうするといつの間にか神様が住み着くんだって。

生徒たちは神様って言ったけど、僕なんか話を聞くとザシキワラシみたいな感じに聞こえるね。ここのプールなんか、住み着いててもおかしくないでしょう?僕の子供たちはプールに通わなかったけど、通わせるとしたらここだったねぇ。


でね、神様はがんばろうって思う生徒の背中をちょっとだけ後押ししてくれるみたいだね。

これがさぁ、ほかの体育館に行くと神様はついてきてくれないんだって。でも練習でさ、毎日ちょっとずつでも、がんばれるのとがんばれないのって、のちのち差がついてくるんだよなあ。そういうもんでしょう?水泳も。ねぇ。



ーーーそういって、長老は額の汗を手で拭うと、「じゃ」と言ってスッキリした顔でジャグジーから上がっていった。

私は両手を広げてジャグジーに背中を預けた。

天井はシミだらけで四隅は錆が浮いていた。プールサイドに目をやると、同じようにペンキの剥がれや赤いフロアが白っぽく脱色され古びた感じが目についた。プールそのものもFRP材の白かったであろう部分が黄色っぽくなって年季を感じさせる。


私は長老の言葉を繰り返し咀嚼していた。

私が生まれてから定期的に通ったプールを思い出してみた。たぶん十一だ。小さいころ兄と通った初めてのプール、小学生の高学年で引っ越してゴーグルに涙を溜めたプール、にきびの脂を流して初めて恋をした高校のプール、硬派を気取って塩素漬けになった大学のプール、会社の寮の近くで適当に選んだプール、一人暮らしを始めて通い出したプール、都心に異動になって美しい女性たちに囲まれたプール、女性関係がこじれて前のプールに居づらくなって止む無く通ったプール、結婚して妻を誘って通ったプール、そして、引っ越して娘も泳ぐ今のプール。

ジャグジーがあったところ無かったところ、サウナがあったところ無かったところ、友人知人がたくさんできたところ、美人のコーチがいたところ、古かったプール新しかったプール。しっかり泳げたプール。がんばれたプール。


なんとなく、長老が言わんとしていたことがわかるような気がした。

例えば、百メートルを十本泳ぐ。

ところが私は仕事が忙しくて疲れている。途中六本目でもうやめたいなと思う。七本目では次にタッチしたら今日は終わりにしようと思う。

タッチ。よし、ダウンをしよう。これが普通のプール。

ところが、ここのプールだと、うーん、やっぱりもう一本行くか、と思ったりする。


しばらく前に通っていたスポーツクラブを思い出した。新しく、設備も豪華。爽やかな笑顔と白い歯がよく似合うスタッフ。コースロープの波消し効果は申し分ない。レッスンやプログラムは参加者がいっぱいで、活気が溢れている。

ところがそこは、なにか、どこかが足りない。

がんばろうと思えばがんばれるし、たくさん泳ごうと思えばたくさん泳げる。しかし、ちょっと弱気になったとき、ちょっとやる気を失ったとき。そのままスルリと気力が失われてしまうのだ。


ここのプールでは、もうだめだと思ったとき、たまに何かが引っかかってがんばれる。

長老が言うのもあながち嘘じゃないのかもしれない。



長老と神様の話をした数日後、私はそこそこ泳いで気持ちよくダウンをしていた。さて、これで帰りにバドワイザーかコロナを買って、と思うと、うきうきして気持ちは完全に店じまいモードに入った。

すると、たまに見かける若いのがプールに入ってきたのを見かけた。彼はプールに一礼すると、プールサイドをすたすたと歩いて私に気がついて目礼した。


「よお、久しぶり」

「こんばんは。お久しぶりです」

彼は礼儀正しく挨拶した。

「これから?」

「ええ。ちょっとウェイトしてきました。泳ぎました?」

なんとなく正しく繋がっていない会話だが、こんな会話が成り立つような関係で気楽だ。

「うん。もう上がろうかと思ってね」

「そうですか。いかがです?ダウンがてらもう少し」

わたしはちょっと悩んだ。私はコロナからバドワイザーに傾いていた気持ちを少し整理した。そうだな。もう少し。

「そうだね。きみはアップついで、私はダウンがてらか。よし、いいよ」

「じゃあ五十を十本、五十秒とかでどうですか?」

私は軽く頷き、同意を示した。

「では六十から」

彼はアップを始め、私はダウンを始めた。


の、つもりだった。

結局彼に付き合ってダウンと言いつつスイムで百を五本(彼は十本で私は二本に一本)を泳いだところで、さすがにギブアップした。いつもよりたくさん泳げたという満足感を帯びてジャグジーに浸かった。今日もシンハービールがとびきりおいしく感じられるだろう。

私はジャグジーの気泡に包まれながら、ふと先日の神様の話を思い出した。

こういうことかな。私はなんとなく納得がいった。



秋も深まったある日、フロントでお手紙を渡された。

『プール改装工事に伴う他店舗ご利用のご案内』

とある。

「プール改装工事って、どれくらい改装工事するの?」

私は顔見知りのフロントスタッフに聞いた。

「全面改装ですよ」

「ふーん、古いからなぁ。プール本体の、うつわも?」

「ええ、うつわも、もちろん新しくするらしいですよ。ボイラー周りも最新にするので、熱いとか冷たいとかの苦情もなくなりますよ」

私は、こりゃまずい、と思った。


数日後、私は長老がいそうな時間にプールに行けるよう仕事を切り上げた。

泳ぎながら、長老を今か今かと待った。不思議と気は散らず、かなり集中して泳げた。

今日は来ないのかなぁとダウンをしていると、ようやく長老がやってきた。

私が長老に会釈すると、長老はやあやあと手を挙げ、ウォーキングコースに入り、ゆるゆると歩き出した。

私もウォーキングコースに入り、長老とペースを合わせて歩き出す。

「なんだい?もう終わり?」

「はい。もう結構泳ぎましてね」

長老は、ぶんぶんと体をねじっている。

「今度、プール改装ですって」

「おおお、そうらしいなぁ。おたくはプール休みの間、どうするの」

「まあ近くの店舗か、別のスポーツクラブに移りますかね」

「そうかあ、じゃあまたどこかで会うだろう」

「ときに、神様の話ですが」

「おおお、神様ね。体育館の」

「私にも、仰っていた意味がわかりました」

「うんうん、そうだろそうだろ」

長老はさもありなんと頷いた。

「それでね、このプールが綺麗にされちゃうと、神様はどうなるんでしょう?」

「そぉんなこと知らないよ」

かっかっかと長老は笑った。

私たちはのっしのっしとプールを歩いた。長老は後ろ向き。

「そうだなあ。体育館を建て替えたときがあったけど、なんかこう、しばらく生徒たちのプレイに粘りがなくなったな」

「どこかにいなくなっちゃうんですかね」

「どうだろうね。昔話に貧乏神のどうたらとか、そんな話があったけど、知ってる?」

「どんな話でしょう?」

我々はプールの端に到達し、今度は私が後ろ向きで歩いた。

「貧しい老夫婦がいて、大晦日に年を越すお金がない」

「よくある話ですね」

「そりゃ昔話だからね。それでじいさんはばあさんの着物を作るために取っておいた反物を売りに行く」

「ほほう?それで売れなくて笠と取り換える?」

「惜しい。炭と換える」

ターン。ずんずんと歩いた。

「ああ、残念。では炭をお地蔵さんにお供えする?」

「だぁから違うって。茶化さず少し聞きなさい」

長老はニヤニヤしながら言った。

「失礼いたしました」

「うん。でね、帰ってばあさんに反物を炭と換えたというと、ばあさんがぷりぷりする」

ばあさんがぷりぷりした様子を示すべく、長老はぱしゃぱしゃと水を叩いた。

「ふむふむ。そうでしょうな」

「で、ばあさんはふて寝する」

「おぉ、昔話にしては意外な展開ですね」

「で、じいさんも怒って炭を全部燃やしちゃうんだな」

「ええっ??全部燃やさなくてもいいのに」

「全部燃やすのがこの話のポイントでね。家が熱くなってね」

「それで布団にくるまっていたばあさんも暑くなり・・・?」

私はちょっと桃色の想像をしてニヤリとした。が、同じコースで歩いていたおばあさんを見てげんなりして、想像を打ち消した。

「違う違う。梁に貧乏神が住んでいたんだけど、それが暑くて逃げ出すんだな」

「ほほーう。よい話ですな。含蓄に富んでいる」

私たちはプールから上がり、ジャグジーへ向かった。

「神様は出ていくことがある、そういう話ですね」

「昔話ではよくあるでしょう。貧乏神が来たり、福の神が来たり」

「ふむ。そうですね。日本の神様はリムーバブルなんですね」

長老はふさふさの眉をくいっと上げた。

「リムーバブル?」

「removable」

「ああ、リムーバブルね。ポータブルじゃないかね?」

「ははあ。そうかもしれません」

「まあ引越しだ」

「ああ、そうでした。引越し」

私たちは暖かい気泡にぼこぼこと包まれていた。

「まあここの神様も引っ越せるだろう。どうだか知らないけど。まあでも水を飲みたがらない馬に水を飲ませることはできないって言うしね」

「そうですねぇ。水飲み場がどうたら、じゃありませんでしたっけ?」

私たちはジャグジーから上がり、ではまた、と挨拶をした。



私は合理性と論理性を重んじるたちだ。しかし信仰と論理性は別のところにあるのだ。パスカルの賭け。

私はミネラルウォーターを二リットルのペットボトルで買ってきて、がぶがぶと飲んで空にした。

四本ほど空にして、改装工事の直前、スポーツクラブへ持って行った。


私はごく模範的な社会人のつもりなので、こういうとには、後ろめたいというか、悪いことをしているような気持ちになってしまう。いや、恥の意識だろうか。

よほど事情をプール監視の子に話して正々堂々とやろうかと思ったが、結局、監視の目を盗んでこっそりと一本ずつ空のペットボトルをプールに持ち込んだ。

監視の目を盗んで空のペットボトルを持ってウォーキングコースに入る。ぼこぼことプールの水でボトルを満たす。疑惑を抱かれない程度にボトルを水中にぶら下げたまま歩き、頃合いを見て次のボトルを持ってくる。

間が悪く、顔なじみの監視の子に交代になった。最後の一本だからと、そのまま持ち込んだ。


「こんばんは」

「こんばんは」

彼はじろじろと好奇の目をボトルに注いだ。

私は無遠慮な視線に耐え兼ねて、思わず白状した。

「いや、水をね」

「はい」

「改装工事前の記念にね、もらおうかと」

彼は一瞬考えてから、合点がいった顔になった。

「ははあ。甲子園の土みたいなもんですか」

「ああ、そうそう」

彼はやけに感心したようすで頷いた。

「いやぁ、ぼく不思議だったんですよ。あの土たちはどうなるんだろうって。小さい頃から思ってました。そもそもあれを持って帰るのは、どういう訳なんだろうって」

私は軽く頷いて同意を示すにとどめた。

「どうするんですか?そのお水」

彼は好奇心で目をきらきらさせた。

私はちょっと鬱陶しさを感じたが、端折りながら説明を試みた。

「ここの水はね、いいんだよ。たぶん」

「泳ぐ話ですよね。飲むとかって話だとオエーって感じです」

「だいじょうぶ。泳ぐのにいいんだ」

「まえに本社から、子どものスクールの進級率が他の店舗に比べて良いからって、監査がてらの視察があったらしいですよ。水ですかあ」

私の説明はごくわずかな部分しか終わっていないのだが、彼は大満足のようだった。

「たっぷりどうぞ。もったいないですからね。お風呂の残り湯みたいなもんですから」

残り湯と聞くといい気はしないのだが、大手を振って水の確保ができるようになった。

私は、なるべくプールの中心の、底の水をボトルに入れた。


改修期間中、水は二本が冷凍保管され、冷凍スペースの関係で二本が冷蔵された。神様たちは突然真っ暗で冷たいところに追いやられ、死んだりしないのだろうか。

冷蔵庫の食べかけの瓶詰めや湿布の奥で、そして滅多に使わない小さな保冷剤やアイスノンの下で、ペットボトルたちは神様をコールドスリープさせた。


振替営業の期間は、通勤経路にある別店舗で泳いだ。ぴかぴかしてがちゃがちゃとやかましく、どこかひんやりとしてよそよそしかった。

そんな日は、私は神様のペットボトルを冷蔵庫から出し、神様を眺めながらバドワイザーを飲んだ。


一刻も早く、神様を返してあげたくて、新装オープン初日、朝いちばん、営業開始前にスポーツクラブに並んだ。すでに列は高名なラーメン店のような、ちょっとした行列になっていた。


行列に並んでいると、少し遅れて長老がきた。

「いよう、久しぶり」

私は列から一度はずれ、長老と並び直した。

「お久しぶりです。お元気そうで」

「いやいや、この冬は風邪が長引いちゃって大変だったよぉ」

長老はかっかっかと気持ちよく笑った。

元気そうな長老に会えて、私もうれしかった。

「その、それは?」

長老は私が抱えていたペットボトルを指差した。

「神様ですよ」

長老はふさふさの眉を寄せた。

長老はしばし考えてから言った。

「おー、神様か」

長老は晴れ晴れと眉をひらいた。

「なに、それはなに、あれかい?前のプールの水?」

「ええ、そうなんです」

「なんだい、腐ったりしてないの?」

「冷蔵庫に入れてましたからね。来るとき匂ってみたけど、塩素のいい匂いでした」

長老は、若いの、やるじゃないか、という不敵な笑いを浮かべた。


長老は、ふっと真面目な顔になり、すっと手を出した。

「重いだろう。はんぶん持とう」

こんな白髪の紳士にペットボトルを持たせる訳にはいかない。私は固辞した。

「そうはいきません。先輩にこのような重いものを持たせるわけには」

「いやいや、持たせてくれよ。ぼくも体育館の神様が今頃どうしてるか、気になってきた。ぼくは体育館の神様には何もしてやらなかったから。せめてプールの神様には」

私は、長老の申し出をありがたく受けることにした。



改装工事のおかげでスポーツクラブは、ロッカーも、シャワーも、プールサイドも、もちろんプールも、ぴかぴかになっていた。

新しいブランドものの靴を買った、新しい水着を買った、新しい車を買った、新しい家に引っ越した、新しい彼女ができた、うきうきわくわく、そんな晴れがましい気持ちになった。

プール監視員は、幸運にも甲子園の土の彼だった。

長老と私は、手に手にペットボトルを持ち、甲子園くんに挨拶した。

「いよう、久しぶり」

「おはよう」

「おはようございます」

さわやかに挨拶して、甲子園くんはじろじろと私たちの持つペットボトルを見た。

「あれ?なんか見たことある光景ですね。デジャヴュ?」

「いやいや、甲子園の土さ」

「ああ、甲子園の土でしたか」

「返しに来たんだよ」

「はあ」

甲子園くんは、完全には承服しかねると言った様子ではあったものの、私たちを釈放してくれた。


「なんだい?甲子園の土って」

「よくわかりませんが、彼が言ったんですよ」

長老と私はプールサイドに仲良く並んで、どぼどぼと甲子園の土であり、神様でもある水をプールに返した。

「如何です?軽く泳いでから昼酒など」

「おお、いいねぇ。会ったら誘おうと思ってたんだよ」

「では、のちほどジャグジーで」

「おう、まあごゆっくり」


波を吸い込む真新しいコースロープ、天井を二等辺三角形にギザギザと鋭利に切り取る五メートルフラッグ、二十五メートル向こうの壁がパキッと見えるほど透明な水があった。

プールに足を滑り込ませ、ざぶんと潜る。アクィナスやカントを悩ませたと言う神様というやつを、私は感じなかった。

それでも神様かもしれない水をお預かりして酒の肴にして、元に返すなんて素敵じゃないか。天然記念物をたまたま保護したみたい。お昼のニュースの三十秒ネタになる。

長老との昼酒に備えて、いつもよりきっちり泳ぐつもりになって、私はするりと泳ぎだした。


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