0.逃げ出した黒狐
鏡の前には、目をキラキラと輝かせた少女。
真新しい衣装はクリーム色のシフォンドレス、の見た目をした魔術師のローブだ。その性能は戦闘を主として楽しむ者たちにとって、特に魔術師たちにとっては、喉から手が出るほど欲しいものに違いなかった。
「もう、もう、最高! やっぱりコハクに頼んで大・正・解! こんなに可愛くて性能のいいローブ、他の人には作れないよ!!」
「うん。喜んでもらえてよかった」
興奮しきりの少女をよそに、苦笑を浮かべつつコハクは少女を見つめた。
そもそも。
コハクとしてはただ単に、着物を作りたくてゲームを始めたわけで。
ましてや戦闘職の欲しがるような性能を上げる衣服を作るつもりもなく始めたわけだが。
気が付けば、装備品のなんでも屋になっている自分がいた。
衣類のつくり方を学んだ相手が、防具の専門家だったり。
布への様々な刺繍を学んだ相手が、紋章士だったり。
飾りのつくり方を学んだ相手が、戦闘職相手のアクセサリー職人だったり。
生地の事を学んだ相手が、和から洋小物までなんでもござれのデザイナーだったり。
とにかくその道で最も卓越した腕の持ち主に習おうと東奔西走した結果。
気づけば装備品造りのエキスパートとして、周囲にその名を馳せていた。
何せ師と仰いだ者たちが、それぞれの道のエキスパートであり、良くも悪くも有名人ばかりだったので、もはや結果は推して知るべし、知らぬは本人ばかりなり。
お客様の最高の一着を作る。そういう意味では確かに成功といえるだろう。
けれども、しかしだ。
「私は、人のために人生最高の、着物を作りたいのに!」
はっきり言って、想像していた着物を作ったことは、自分のもの以外で一着もない。
魔術師の帰った店の中で、誰に聞かれてもかまわないとばかりに大声で叫んだコハクは悟った。
そうだ、着物だけを作るために、着物だけを作る御勤め先を探せばいいのだ。
幸い、依頼を受けた仕事はもうすべて終えて、後は本人に渡すだけ。
新しい依頼もしばらく受けていないから、特に問題はないだろう。
「よし! そうときまれば善は急げ。誰にも知られずに実行しなきゃ」
そうでなければ、またすぐに仕事を任されるに違いないのだ。
「ミニス、依頼品の受け渡し、後は任せるね!」
「ニャー…。コハクは最近、使い魔遣いが荒いよ、もう」
だいぶ人間臭く成長したこの使い魔とも、もう長い付き合いだ。今ではすっかりなじんで、切り離せない相棒になっている。
「フレンドが来ても誰が来ても、行き先は教えないでね。受け渡し終わったら、私のところまで来てね」
ぴっと指をさしてコハクが言う。
「分かったよ。まったく、相変わらず勢い任せなんだから」
ため息をつきながらも、使い魔であるミニスはコハクの言葉を裏切らない。
コハクは身の回りの物を『魔法鞄』に詰め込むと、仕事道具一式も同じように収納した。
それから、今着ている赤の振袖を、よくある冒険者の服装に変える。
見た目こそデザインは特別凝ったところはないものの、上質の魔法糸でできた魔法の服の上下と、胸当て、肘当て、すね当てとおそろいの加工が施された虹色蜥蜴の皮の防具。ウインドウルフの皮でできたショートブーツは風の加護が付加された身の軽くなる特別製。
衣装が変わるとそれだけで随分と印象は違うが、プレイヤーメイドのそれはかなりずば抜けた性能を誇る、戦闘技術の低いコハクにとって欠かせない装備だった。ちなみに、魔法の服に関してはお手製で、他はオーダーメイドである。
髪はポニーテールに結いあげ、普段は卸している前髪を、ヘアピンを駆使してオールバックに変えた。
現実ではこうもいかないが、この世界でなら全てがあっという間の出来事だ。
「準備完了」
鏡の前でにっこり笑ったその表情は、とても晴々していて眩しいほどだった。
愛用の刀を腰に差し、店から出ていくコハクの姿を見た者は、コハクの使い魔ミニスの他に、幸か不幸か誰一人としていないのだった。