私の大好きな2.5人
からからと、引き戸を滑らせる音がする。
洗っていた風呂場から顔だけ突き出して覗いてみれば、田舎特有の鍵の施されていない玄関を開けたのは、幼なじみのユカだった。最近急に目立ち始めたお腹をカバーするような暖かそうなワンピースにもこもこしたレギンス、分厚いオレンジのカーディガン、そして靴底のしっかりしたスニーカーで防護は完璧だ。
彼女は私と目が合うと、扉から手を離して、
「ん」
こちらを招いた。
「……はいはい、お呼びですか」
私は風呂洗いを後回しにして廊下を歩き、三和土のサンダルを突っかける。妊婦を長く待たせるわけにもいくまい。
「何?」
「──それじゃない」
ユカはまずダメ出しをした。
「どれが?」
「寒いし、歩くから靴で」
寒空の下何出歩いてんですかね妊婦。
「どこ行くの?」
素直に自分もユカに倣ってスニーカーに足を突っ込むと、その当人は無造作に懐かしい地名を告げた。
「山」
──私の、二十うん回目の誕生日の出来事である。
『山』、それは私たち──幼なじみ三人組が幼き日々を過ごした児童公園の通称である。子供の目には立派に構えたぴかぴかのジャングルジムや、何人も一度に乗れる棒型のブランコなんかは、上級生や元気な集団に占領されてなかなか遊べなかったけど、砂場でちまちまと山やトンネルを作ったり、あるいは錆の浮いた鉄棒にもたれ掛かって何時間もたわいないお喋りに興じたりしたものである。
もっとも、私とユカはともかく、幼なじみのもう一人、司郎にとっては、女の子の──しかも下級生とのお話なんて何が楽しかったのだろうと今になっては思うが。……結構、あやつはノリノリだった。
私とユカは緩やかなアスファルトの坂を上ってゆく。子供の通称とは言え、山というからには少し高低差があるのだ。万一のことがあってはと私は逡巡したが、ユカ曰く『少しは運動したほうがいい』とのことで足どりもしっかりとしたものだ。まだ彼女の目的は見えない。いつものことだから私も気にしない。
見上げれば懐かしい、記憶よりくすんだ色のジャングルジムの向こうは、似たような灰色の空だ。うっかり目にしてしまうと余計寒さが染みてくる気がする。
「ユカ、あんた寒くないの」
「大丈夫、すみれに貰ったカーディガンあったかいから」
……うん、このオレンジ色の太い毛糸のカーディガンは何を隠そう私が編んだものである。
マンダリンオレンジ、ゆずの黄色、ベルガモットの緑。ユカには柑橘系の色が似合うと昔から思っている。
オレンジのユカと菫色の私。なかなか似合った組み合わせではなかろうか。大学時代には私も遅めの反抗期を迎えて、この田舎や二人を見ていたくなくて、遠くの街に住んだりもしたが…… 結局、戻ってきた。
で、今、こうやって二人で歩いている。
坂を上りきると鉄棒がある。見事にペンキは色褪せている。
いつかのように、でもあの頃とは違い、高めの棒を選んで、寄り掛かる。
「……いつか、さ」
私は柄になく感傷的な気分になって口を開く。
「あんたのその、お腹の子供も、ここで遊ぶのかな」
「……ん」
「そしたらさ、その時。あたしの子供と、仲良くしててくれたらいいなあ」
願望と、ある種の確信を持って続けた。ユカは小首を傾げた。
「じゃ、早く産まなきゃ」
「……相手がいねーことわかってんだろこのやろー!!」
しまった、妊婦には技を掛けられない。
「──で、何しに来たの? あたしの誕生日だからって、昔を振り返りつつ夢語りしに来た訳じゃないでしょ?」
っていうかそれは私が始めたのである。
「ん。プレゼント」
「へ、どこに?」
「すみれ、天気予報は?」
話題が繋がっていない。
「や、今日は出勤でも買い出しでもないし、洗濯物は冬は室内干しだから……別に」
「ん」
うなずいた顔つきがどことなく満足げだ。
「そろそろ……のはず」
「へ」
言われて周りを見回した私は、──しかし、ぜっっっっったいにユカの用意した贈り物ではないものを見つけてしまった。
「し、司郎」
なんでここに。先程たどってきた小道に佇む、ウィズ微笑みの幼なじみその2である。
──私が大学に行くためにこの町を離れる前なら、いや、いっそ半年前なら、司郎はそんなところで微笑を湛えているわけはなく、血相変えてこちらに走り寄っていただろう……身重の、妻に。
だが、今はもうそれはしない。二人の左手に光る同じデザインの指輪がそうさせるのかもしれないし、ユカに宿った小さな命がそうさせるのかもしれない。
「子は愛知県の一都市……」
「?」
「……ごめんわかんないよね忘れて」
真正面から表現するのが恥ずかしかったんだい。いやそもそも夫婦喧嘩の時の言い回しだから微妙に違うか。この二人の間に喧嘩なんて起こるはずもない。昔も今も。
いつだって、言葉少なに突き進もうとするユカの片手を捕まえ、一緒に彼女の背を追いかけながらはらはらしている司郎を宥めるのは私の役目だった。
いつしか、司郎がその目で追いかけているのがユカだと、ユカだけだと気付いて、ユカはどこまで突き進もうと決して司郎を置き去りにしないと気付いて、私は手を離した。
……私には必要なことだった。
二人にとってもいい機会だったなどと、傲慢なことを言うつもりはない。
「司郎」
隣のユカが鉄棒から身を起こした。そのまま土を踏んで、旦那の元に向かってゆく。
「ユカ?」
これだって、昔はなかった行動だ。ユカは突き進んで、司郎を置いていかないとしても、振り返りはしなかっただろう。
「迎え、来たから。帰る」
「おいおい」
あたしゃまだあんたのプレゼントとやらを拝んでもいないんですけど。
「すみれは、ここにいて」
「はい?」
「わかるから」
司郎の元にユカはたどり着き、二人揃って手を振って、そのまま背中を向けやがる。
「どーしよ……」
ああお風呂洗い。
──けれど、遠ざかりゆく二人の後ろ姿を見送りながら、私はふと、申し分なく満たされた気持ちになってゆく自分に気付いた。
私はこの手を、二人を捕まえておく手を離してしまったけれども、これから、この先二人が携えていく手、その余った方とならもう一度繋ぎ直せるんじゃないかと、そんな展望が浮かぶ。
三人でまんまるの輪を作ろう。誰も引っ張らず、誰も置いて行かれない。
そして二人の子供、私の子、……もしかしたらまだ見ぬ私の旦那様、いっぱいいっぱい仲間に入れて、輪はどんどん広がってゆく。
そんな妄想をした。私はかなりにやけていたかもしれない。
ぽつりと、ひんやりしたものが頬に当たって、私は我に返る。
「雨?」
手をかざし、空を仰ぐ。
……しばらくすると、音もなく天からの客が舞い降りて来た。
「まさか……雪?」
すぐに、客はそれなりの団体客となった。
「初雪……だよね」
あっと気づく。
ユカが言っていた天気予報。これのことだったのだ。
「妊婦め……」
本人がいないので口に出して悔しがる。小癪なことしやがって。
小さな山から見渡す町にも雪は降り注ぐ。認めておこう、なかなかの眺めだった。
「待ってろよ、来週のバレンタインデーには……」
ケーキを焼こう。雪のような真っ白な粉砂糖を掛けたケーキを。そしてアイラブユーとか刻むのだ。
私の大事な、大切な二人と半分に。
fin