第4話 贅沢な時間
ライブ・ハウス『サテンドール』は赤レンガ造りの素敵な概観の建物だった。夜になればきっと、きれいにライトアップされるのだろう。明日の夜、ここで浩二が演奏をする。インターネットのスケジュール上では、ブルースが数曲予定されていた。昔のハードロック・ギタリストのイメージが、今でも紗枝の心に焼きついている。ブルース・・・現在の彼は、どんなギターを弾くのだろうか。あれから20年、お互いに大人になった。期待と一緒に不安が溢れてくる。
サテンドールの場所も確認できたので、そろそろ今晩泊まるホテルに向かうことにした。また地図を片手に。だいぶ気温が下がってきた。時計を見ると、もうすぐ午後の4時になるところだった。ずいぶん仙台駅から離れてしまったので、ちょっと歩き疲れた紗枝は、大通りでタクシーを拾った。
「どちらまで?」
「ごめんなさい、近くて。仙台駅までお願いします。そしてね、ちょっと待っててくれませんか?荷物を取ってくるので。そのあと、ワシントンホテルまでお願いします。」
「はい、了解です。お客さん、ご旅行ですか?」
「ええ、そうなんです。」
「仕事か何か?」
「いいえ、プライベートです。とてもいいところですね、仙台って。」
「そうでしょう、杜の都って言いますからね。」
そんな話をしているうちに仙台駅に着いた。
「じゃ、ちょっと待っててください。」
そういうと、紗枝は駅のコインロッカーに走っていき、荷物を取ると、急ぎ足でタクシーに戻った。
「お待たせしてごめんなさい。」
「そんなにあわてないでもいいですよ。」
タクシーの運転手は優しく言った。
「ありがとう。私って人を待たせるのがいやなものだから。」
「ははは、ワシントンホテルね。」
「はい、お願いします。」
だいぶ陽が傾いてきた。ちょっと寂しい気がした。バッグから携帯電話を出してみてみると、夫からメールが2通も届いていた。なぜか全然気がつかなかった。
『無事に仙台に着いた?こっちは元気にしてるよ。〜』
『バンコク、一緒に来ればよかったね。〜』
さっき、仙台駅とサテンドールの概観、それに、少し雪の残っている市内の景色を携帯のカメラで撮ったので、それをそのまま夫の幸彦に送った。きっと喜んでくれるだろう。
ワシントンホテルに着くと、お金と一緒に東京土産のチョコレートをタクシーの運転手に渡した。
「もうすぐバレンタインデーだから。」
「あらら、ありがとう。仙台、楽しんでください。」
紗枝は笑顔でタクシーを降りた。ちょっとした出会いで人はハッピーになれるものだ。チョコレートもこうして結構役に立つものだ。
プレゼンのチョコレート。どうせ浩二には渡せないのに、何だかあまりにも用意がよすぎるなって自分でも思った。トリュフが3個入った、とても小さな箱を3個。きれいに包装して、かわいいリボンが結んである。東京駅で衝動買いをしたのだった。ひとつはさっきあげてしまった。
20年前、プレゼントなんて何一つ、あげたことももらったこともなかった。二人はただ一緒にいるだけで嬉しかったのだから。本当に何もなかった。ギターとキーボードと、音楽と、二人の楽しい時間だけ。ただそれだけだった。全部がこれからだった。つまり、今から思えば、本物の恋人同士になるのは、これから、という時だったのだ。あのときの仙台での涙の別れは、あまりに早すぎる別れだった。その分傷つきも少なかったのかもしれない。でも、とてもショックな感覚だけは鮮明に残ってしまった。きっと浩二もそうだと思う。
ワシントンホテルにチェックインして、予約していた10階のシングル・ルームに案内された。そして、部屋着に着替えるとベッドの上でゆっくりとくつろいだ。
幸彦にメールをした。
『今ワシントンホテルに着きました。仙台はとてもきれいなところです。今度一緒に来ようね。〜』幸彦は今頃どうしているのだろう。バンコクは今、午後3時半くらいだろうか。大体2時間ほどずれている。ということは、今仕事の真っ最中ということになる。
とても贅沢な時間。煩わしいことは何もなかった。これは、紗枝にとって最高のご褒美だった。そしてそれは、幸彦の紗枝への愛情だった。遠く離れた仙台で、彼女は夫の幸彦に心から感謝した。