第2話 心惹かれて
「来週から2週間、出張になったよ。」
「今度はどちら?」
「タイだ。タイのバンコク。」
商社マンの夫は、時々海外出張で家を空ける。そんなとき紗枝は、実家に行ったり友人と旅行に出かけたりする。勿論、一緒についていくこともよくある。
(ちょうどいいかもしれない)
「ね、来週出かけてきたいんだけど。」
「どこに?」
「仙台。」
「仙台?なんでまた・・」
「ライブを見に行きたいのよ。聴きたいミュージシャンのライブ。」
インターネットで調べたら、『サテンドール』での浩二の出演はちょうど来週の土曜日だった。バンド名は『U・スティック・リズ』(出かけていこう、逢いに行こう。)どうしても仙台に行きたかった。あの思い出の仙台に。苦く辛い思い出の一杯詰ったあの土地に。そして、どうしても彼に逢いたかった。一目でもいいから逢いたかった。こうして紗枝は、どんどん仙台に心惹かれていった。
夫はそれ以上何も訊かなかった。子供のいない紗枝たち夫婦は(確かに仕事人間の夫ではあるが)休みの日には一緒にコンサートに出かけるなど、二人の時間を楽しんでいた。それぞれが自由に生きている夫婦でもあった。そしてお互いにお互いを信頼していた。
紗枝は、今の家に引っ越すまでずっとピアノの講師をしていた。大学を卒業してからずっと、結婚してからも続けていた。しかし、今の家に引っ越すことになり、泣く泣く生徒を他の先生に渡した。
それ以来、自分自身を磨くことに時間を費やしていた。ジャズ・ピアノを習ったり、コンサートに出かけたり、お芝居を見たり、美術館に行ったり。最近では、ボランティアで老人ホームなどに慰問演奏に出かけたりしていた。ずっとずっと仕事を続けてきたその代償のように、いろんなことを観て、やって・・・充実した毎日を過ごしていた。
紗枝たち夫婦は、いつまでも恋人同士のようだった。そんな関係に二人とも満足をしていた。お互いの生き方を尊重していたし、思いやりをもって接していた。
少し心苦しかったが、あえて詳しく訊かれなかったので、紗枝はほっと 胸をなでおろした。(別に悪いことをしているわけではないのだから。)そう思うと、隠すこともないのだが、でもなんだかちょっと心苦しかった。
もしも夫が誰か別の女性に心が動いたとしたら・・もしもそういうことがあったら紗枝はどうか。もし何かがあったとしても、どんなことでもきっと紗枝は許すだろう。なぜなら、夫を愛していたから。心の底で信じているから。それは究極の愛情だろう。そんな自分の心に、彼女はとても自信を持っていたし、常にそうありたいと思っていた。
結婚して17年。いろいろなことがあったとはいえ、この結婚は彼女にとって成功だった。また夫の幸彦にとっても成功だった。それは、二人の性格や考え方、感じ方が、ほとんど同じだったから。だから、きっと何があっても彼女はこの結婚生活を死守するだろう。