第11話 切ない思い
時計の針は午前0時をさしていた。
「私、そろそろ・・」
「そうだね・・・じゃ。」
伝票を手に浩二が言った。
「遠くから見に来てくれた御礼。」
「ありがとう。」
紗枝は後から付いていった。レジの手前で、浩二がふっと振り返った。
「ね、明日デートしない?」
突然の言葉に、紗枝はただうなずいていた。
「やったー!」
「ふふっ」
紗枝は何だかおかしかった。子供みたいな浩二を前に、紗枝はとても幸せを感じていた。
店を出ると、ホテルまで二人は並んで歩いた。外の空気はとても冷たかった。自然と浩二は紗枝の肩を抱く。何も違和感がない。二人は昔恋人同士だった。でも、今初めて恋人同士になったような錯覚を起こしていた。もう決して離れてはいけないと思った。それは、実は錯覚。現実ではないのだ。それを知っていた二人は、今だけは、決して離れてはいけないと強く思うのだった。
二人はだいぶ歩いた。すぐそこの角を曲がったところに、紗枝の宿泊しているワシントンホテルがある。急に紗枝が足を止めた。同時に浩二も止まる。
「明日は何時に迎えに来てくれる?」
「そうだな、11時ごろっていうのはどう?」
「OK。じゃ、おいしいものでも食べましょうね。」
抱きしめようとする浩二の腕から、紗枝はするりと抜け出した。そして、小走りに走ると、振り返って手を振る。
「明日ね!」
「わかった。」
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
二人は完全に恋人同士だった。それも、これからだんだん仲良くなれそうな気配の、とてもいい関係。こうして別れた後も、ドキドキ、わくわくするような、そんな関係だった。二人ともとても幸せな気分だった。ただ・・・ふっと思うのだった。これが、あの時、そう、20年前のあの時の出来事だったらどんなによかっただろう、と。
部屋に戻ると、紗枝の心臓はどきどきしていた。もしも、あのまま浩二と離れなかったなら、どんなに幸せな夜を過ごすことができただろう。でも、それをあえて制止したのは、紗枝だった。
窓の外を見る。いくら見下ろしても、10階の窓からでは、しかもこんな夜の暗がりに、浩二の姿など見えるはずがない。そう思いながら、窓の外を見る。
ところが、ほんのり街頭の明かりに照らされて、誰かが手を振っているのがなんとなくわかった。こっちに向かって大きく手を振っている。誰なのか全然わからない。でもきっと、浩二に違いない。
「浩二・・うそ。」
紗枝は驚いた。何度も目をこすった。そして嬉しかった。浩二に嫌われてなかった。むしろ、その反対。(もう一度浩二の胸の中からやり直したい。)紗枝の目から涙が溢れた。浩二はいつまでもいつまでも手を振っていた。カーテンから顔をのぞかせながら、浩二のことを本当に好きだと紗枝は思った。(浩二、ここよ、私はここにいるのよ。わかる?こんなに遠くから見つめているのよ。)ステージで見たのより、もっともっと遠くから、今紗枝は浩二を見つめている。
自分の気持ちが彼にどんどん惹かれていくのを感じた。でも今更、どうにもならない二人の関係。(やっぱり、逢いに来なければよかった・・かな)切なさと、悲しさで胸が張り裂けそうなくらい苦しくなる。
とても疲れていた。でも、なんだか眠れそうになかった。冷蔵庫から缶ビールを1本取り出して、少しだけ飲むと、ベッドに深く腰を下ろした。そして、ゆっくりとブーツを脱ぎ、疲れた足を投げ出した。
ふと見ると、携帯電話にメールが入っていた。
『〜どうだった?コンサートは〜♪・・・』
夫からだった。もう2時間も前に入っていた。全然気がつかなかった。大体マナーモードにしているので、こういうことはよくある。
「ごめんごめん。ちょっと待ってね。」
そう独り言を言いながら、紗枝はメールを打ち始めた。急に現実に戻ったような気がした。
『〜ありがとう、とてもよかったです。〜明日東京に帰ります。〜おやすみなさい・・・ZZZ』
これが現実。紗枝の日常の幸せなのだ。浩二との出来事は、全部全部夢なのだ。それにしても今日は、長い長い一日だった。紗枝は、ゆっくりと服を脱いでバスルームに向かうと、少し熱めのシャワーを全身に浴びながら、やっぱり明日、予定通り東京に帰ろうと思うのだった。