第10話 埋められない溝、そして・・・
思いがけないキスの後は、お互いなんだかとても気まずかった。お酒の勢いだとも思いたくなかった。これが、紗枝がまだ独身だったら、もう少し状況は違ったのだろう。
「あの時、君を追いかけていればよかったな。」
浩二はそういって静かに笑った。
「ほんと。私もあの時泣きながらこの胸に飛び込めばよかった。」
紗枝は浩二の胸をポンとたたいて、やっぱり寂しそうに笑った。
「幸せなんだろ?」
「え?・・・まあ・・ね。」
「じゃ、よかった。」
「うん。」
すぐに沈黙が流れる。BGMが寂しく聴こえる。
「聞かせてくれない?」
紗枝が言った。
「え?なにを?」
「学生時代のこと。」
別にそんなに聞きたかったわけじゃなく、話題に困ったので、何となく訊いてしまった。そして、すぐに後悔した。
「〜君と別れてから、何人かの女性と付き合った。まあ、普通の人と同じようにいろんな恋愛経験をして、大人になったってわけだね。〜」
(そういうことを聞きたいわけじゃなくて・・)紗枝は酎ハイを飲み干し、もう一杯注文した。
「紗枝のほうこそ、20年もの間どんな生活してたの?」
紗枝はあまり答えたくはなかったが、でも黙っていることもできず、差し障りのないような感じで、現在の夫の話だけをした。(本当はあの時、サークルの先輩から付き合ってくれといわれて・・・でもすぐに別れてしまって・・・)そんな言葉を自然と飲み込む。
何を話したらいいのかわからず、正直なところ紗枝も浩二も戸惑っていた。要するに、今の二人の間には、何の接点もないのだ。当然といえば当然なのだが、20年という長い歳月は、非情にも二人の間に大きな埋められない溝を作ってしまったようだった。
二人は必然的に新しい話題を探した。
「ね、いつ東京に帰るの?」
「予定では明日と思ってるんだけどね。」
そういいながら、心の中が寂しくなる紗枝だった。
「明日か・・。」
「ううん、明日じゃなくてもいいの、あさってでも。」
とっさに答えた。
「あさって?・・大丈夫なの?」
「大丈夫よ。」
不思議な感じがした。二人は、ずっと昔から一緒にいたような、でも、とても新鮮な気がした。
「最近よくライブに行くのよ。大体がブルーノートね。」
「そうか、いいよね、東京に住んでいる人は。」
「でも仙台も結構盛んよね、ライブハウスが。」
「そうなんだよ。俺もさ、プロ目指してたんだけどね。難しいやね、ははは。」
「浩二、なかなかだったよ、ギターも上手だし、歌も上手いし、ルックスもなかなか渋かったよ。女の子からモテモテなんじゃないのー?」
「あはは!そうだといいんだけどね!」
ライブの話で少しずつ盛り上がってくる二人だった。二人にとって音楽は、とても大切で、特別なもの。自然と話が成り立ってくる。好きなジャンルも一緒だった。それは、昔も今も変わらい唯一のものだった。
「今度ね、ラリー・カールトンに行くのよ。」
「そっか、いいよね、ギタリストにはもう、超魅力的なミュージシャンだよ。」
「そうそう。私あれからフュージョンに目覚めて、ラリー・カールトンとかその辺に落ち着いたって感じ。」
ラリー・カールトンを教えてくれたのは、今の夫だった。夫もギターを弾く。偶然にも、プロを目指していた。大学時代、なかなか上手いギタリストにめぐり合えなかった紗枝は、22歳の時、初めて夫のギターを聴いて、心惹かれていったのだった。浩二のギターも上手だと思っていたが、夫のそれも本当に上手いと思った。(あの時別れなければ、浩二と・・・)ふとそんな風に思った。こうして彼と一緒にいても、なんら違和感がなかった。(もしこのまま夫が浩二と入れ代わったとしたら・・・)そんなことをぼんやり考えてはかき消す。ほんの少し罪悪感を感じる紗枝だった。