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僕の友人はどこへいったのだろう

作者: 菅家

「世の中の決まりなんて、全部くだらない」

彼は怒ったように、半ば諦めたようにそうはき捨てた。

「腐ってる」

 彼は何かに対していらいらすると、必ずこのせりふを言った。週に三回は言った。だから僕はかれこれ三百五十回くらいこのせりふを聞いたことになる。

 僕たちは高校の屋上に上がり、ささやかな昼休みを送っていた。だが僕は屋上なんて来たくなかった。クラスメイトも先生も誰一人、屋上に行きたがる人はいなかった。彼だけが外の空気に触れたがっていた。

「そろそろ戻ろうぜ」と僕は言った。僕は一刻も早く室内に入りたかったのだ。「今日もなにか警告がでてるしさ」

「なんだよ。光化学スモッグなんかにびびってんのか?」

「別にびびっちゃいないけど」と僕はもごもごと言った。マスクのせいもあって彼には聞こえなかったらしい。僕の声は行き場を失って、マスクのフィルターに吸い込まれていった。彼は僕にかまわず、金網にもたれてタバコをポケットから取り出した。左手で、口を覆っていたマスクをぐいっとあごまで下げる。タバコをくわえて、ライターでかちりと火をつけた。

「おい、退学になるぜ」と僕は一応言った。

 もちろんタバコのことじゃない。マスクを外したことだ。

 彼は何も答えずに、ふうう、と煙を吐いた。僕はあきらめたように彼の隣に腰を下ろす。

「ああ、くだらねえ。くだらねえ」

 彼はうめくようにそう言って空を見上げた。

「見てみろよ、空を。晴れてるはずなのに、青くねえ」

 僕は言われたとおり空を見上げてみた。僕たちのはるか上空は何かもやがかかったようにぼんやりとしている。まるで蛍光灯をカーテンで覆ったように。

「今日は特にひどい」と僕は言った。「まるで未来を暗示しているようだ」

「まるで未来を暗示しているようだ」と彼は繰り返した。「もしくは過去のようだ」

「どういう意味?」

「取り返しがつかない」

「なるほど」

 彼はタバコを地面でもみ消し、排水溝の狭い溝の中に押し込んだ。

「いろんなものが嫌だ。でも、こいつが一番気に食わない。こんなものに縛られて生きたくねえ」

 彼は左手であごに下げてあったマスクを剥ぎ取り、くるくると指で回した。

「お前もはずせよ」と彼が言う。

「やだよ」と僕が言う。いつものことだ。



 僕と彼が友達になったのは、高校に入学して一ヶ月ほどたったころだ。僕はトイレで用を足して、教室に戻るところだった。彼はこれからトイレに用を足しに行こうというところだった。一年生の教室が並ぶ廊下で、すれ違いざまに声をかけられた。

「あれ?たかし?」

「誰だい?それ?」

「あっなんだ。たかしじゃなかったのか。悪い悪い。たかしにずいぶん似てたもんでよ」

「でも僕はたかしじゃない」

「それはそうだな。たかしはもっとボケをかぶせてくるやつだった」

「ずいぶんたかしと仲が良かったんだ」

「そりゃそうよ。俺たちは地元では負け知らずのコンビだった」

「それは素敵だな」

「素敵?」

 彼はしばらく僕の顔を覗き込んだ後でワハハと笑った。

「オーケー、とりあえずトイレにでも行こうぜ」

「僕はさっき行った」

「つれないことを言うなよ。いっしょにトイレに行けば、友達の証だ」

 そうして僕たちは友達になった。



 僕と彼は違うクラスだったから、常に一緒にいるようなことはなかった。だけど、一日に一回は廊下で自然に顔を合わせた。

「おう、たかし」

「僕はたかしじゃない」

 それから、始業のチャイムが鳴るまで、僕たちは窓側の壁に寄りかかり、あるいは窓の外を見ながら、様々な話をした。今の授業の感想から、部活動のことや、趣味のこととか、たわいのないことだ。不思議と彼と会話をするのは苦痛じゃなかった。

「お前はなんでこの高校に入ったんだ?」と彼は言った。

「なんでだろう」と僕は少し考えた。「偏差値が僕に合ってたからかな」

「偏差値?」と彼は聞き返した。「おいおい、偏差値なんかに決められちゃ、ふざけんなって思わない?」

 僕は彼の言葉について考えてみた。

「いや、でもしょうがないことだろ。サイズが合うからМサイズを着る。のどが渇いたけど120円しかないから缶ジュースを買う」と僕は言った。「その状況に適応した、適切な判断だったんだよ」

「なるほどな」と彼は言った。「たかし、お前はなかなか頭がいい。少なくともこの高校の一年の中では。そういう答えを返してくるやつはまずいなかった。大抵はカラスのような反応になる」

「カラスのような反応?」

「右を見て左を見て、ばっとどっかいっちまう」

「なるほど」

「物分りもいい」

「それはどうも」

「もちろん、勉強ができるって意味で言ってるんじゃないぜ」

「知ってる」

「周りの高校生はみんな、ガキさ」

 彼は肩をすくめて、やれやれとでもいうように頭を振った。

「君はどうなのさ」と僕は言った。

「なにが?」

「この高校を選んだ理由」

 彼はうつむいて何かを思案していた。表現する言葉を探しているように。

「都会にある学校に来れば、何か変わると思ったのさ。いわゆる立地条件ってやつだ。ばらばらの場所から様々な生徒が通う。少しは俺と同じロックなやつがいるかなと思ったんだよ。でも、どうやらそんなにいないみたいだ。みんな同じ格好をして、同じマスクをつけてる」

「それはそうだ」

「くだらねえ」

「たかしはどうしたんだよ?同じ高校にでもいけばよかったじゃないか?」

 彼は僕のほうをちらりと見てから、首を振った。そして始業のチャイムがなった。

「じゃな」


 二年生になり、三年生になり、僕らは相変わらず廊下でさまざまなことを話した。運がいいのか悪いのか、最後まで彼と同じクラスになることはなかった。

 彼は彼でクラス内で人気のある位置にいたし、僕は隅っこのほうで読書でもしているおとなしい少年だった。彼のクラスをさりげなくのぞくと、ちゃんとマスクを着用して、男女関係なく彼を中心として笑いが起こっていた。だから同じクラスで関わりあうより、ちょうどいい距離感だったのかもしれない。

「ちゃんとクラスではマスクをしているじゃない」

「へ?ああ」

「もしやマスクをはずして授業受けているのかと思ったよ」と僕は冗談のつもりで言った。

「なあ、たかし。なんでマスクなんか使ってるんだろうな?」

「なんだい?急に?」

「わかるよ。使用目的とかさ。ただ、なんで目に見えないものをそんなに盲目的に信じられるんだろうっていう。なんていうか、宇宙人とか、地球以外の生命とか、理論上いないっていう学者がいるじゃん?それは計算から持ち出された答えなんだろうけど、ようは見えないから信じないっていうことだろ?でもマスクをつけるのはその見えないものから身を守るってことで、つまり科学的に証明されてるからってことで。でも数式とか理論とかそういう二元論で当てはめていくことが俺には納得できないんだ。概念の外のことについて考えたい。でももちろん人間の概念には限界があってその壁を越えることはできないわけで。だって俺たちの住んでいる現実世界から外に出ることができないからであって」

「わかりにくいよ。もっと簡単に言ってくれ」




「お前は何考えてんのかわかんねえんだよ」

 中学生の時に、友人だと思っていた人から言われた言葉だ。

 確かに僕は感情を出すことは苦手だった。悲しそうに微笑んだり、笑いながら怒ったりとかだ。

 マスクのせいもあると思う。顔の半分はマスクで覆われているから、ほんの些細な感情なんて出しても出さなくても同じだと思っていた。だから僕は一年のうち十一ヶ月を同じ顔で過ごしていた。

「つまんねえなら、つまんねえって言えよ」

 そう言って彼は、雑談で盛り上がっているグループの輪へと入っていった。

 僕は何かを覆い隠していたつもりではなかった。つまらないから、こういう顔をしているわけでもなかった。ただ、素直にそこにあるものを鑑賞して、自分なりに納得していただけだ。

 むしろ、周りの人たちのほうが不思議だった。たいして面白くもない雑談に、どうしてそこまで熱中して入り込めるのだろうか。

 僕は作り笑いも苦手だったし、ひとつの話題からうまくネタを拾えるほどの話術もなかった。素直にその話に耳を傾けて、率直な感想を言うだけだった。

 僕はぼんやりと自分の席で、今言われたことを反芻していた。

 おそらく、僕は友人を失ったのだ。

 それからだ。僕は知らない人とうまく仲良くすることはできないし、無理してやるくらいならずっと一人で過ごしていたほうがいい。



 高校で、彼が友達になろうと言ってくれたとき、僕は実はうれしかったのだ。



僕は何回も彼の家に遊びに行ったことがある。自主的に訪れたというよりも、無理やり連れて行かれたことのほうが多い。彼の家は高校から電車で三十分ばかりの高級住宅街にあり、馬鹿でかい一軒家だった。でも彼はそんなこと気にもかけなかった。まるで、すべての高校生がこういう家に住んでいるのだと、思い込んでいたみたいに。

 彼の両親には会ったことがない。なんでも講演会やら、企業のプロジェクトやら、とにかく会社のトップがやるような忙しい日程を日々こなしているのだそうだ。だから、僕ら二人は深夜まで酒を飲んで騒いだり、音楽を爆音で流したり、十八歳未満が見れないようなものを見て騒いだりしていた。

 彼の部屋は過去のロックスターのポスターがべたべたと貼られていた。

エリック・クラプトン。ジェフ・ベック。エドワード・ヴァン・ヘイレン。エルヴィス・プレスリー。ジョン・レノン。リッチ―・ブラックモア。イングウェイ・マルムスティーン…。

「すごいね」

「まあな」

「好きなの?」

「音楽も、生き方も」

「それは素敵だ」

 大体彼は家に帰ると、まず真っ先にマスクを顔から剥ぎ取った。僕は初めのころはずいぶん驚いた。衝撃的だったといってもいい。

「よせよ」と、僕は言った。

「何が?」

 彼はなんとでもないという風にマスクをぽいとそこら辺に投げ捨て、制服のネクタイを緩めて、音楽をつけた。

「お前も外せばいいじゃん」

「いや、遠慮しとくよ」

 僕はなんだか居心地が悪くなり、思い切って彼に言った。

「なあ、マスクつけてくれないか?見てるこっちがさ…」

 彼は僕のほうに振り返り、一昔前の古いビデオデッキでも見るかのように僕を見た。

「おいおい。お前マジで言ってるわけ?」と彼は言った。「お前のを外せって強要してるわけじゃないぜ。俺は自分が外したいから外したんだ。いいか?これがなんだかわかるか?」

 彼は自分の口元を指差した。僕はチラッとだけ見て、口、と答えた。

「そう。口だ。なぜみんな覆い隠す?俺らが生まれる前は、マスクとか何とか、何もつけてなかったんだぜ?どこに恥ずかしがる要素がある?どこに文句をつける要素がある?なあ、一度でも疑問に思ったことないか?こんなもの、つけなくたって生きていけるじゃないか、って」

「オーケー。わかったから」僕は素早く降参するように両手を上に挙げた。「ここは確かに君の家だ。好きにすればいい。僕が文句をつけることはなかった。ただ、僕が慣れるまで時間がかかるかもしれない」僕はなにせ口論することがいやだったのだ。

 彼は納得したように、頷いてから、音楽プレーヤーの音量をいじった。

「ただ、おまわりさんに見つからないようにな」と僕は背中に向けて声をかけた。

「間違ってるのは俺じゃない。世の中のほうだ」



 それから、彼は僕と二人きりになると、あたりかまわずマスクを取るようになった。そして彼の口元には、何かをやり遂げたような微笑がいつも浮かんでいた。

 僕はだんだんと彼がマスクをとることに馴染んでいった。

 最初は何か間違った光景を見ているようだった。まるで数学の授業中に古典の教科書を広げて授業を受けているような。だが、それも慣れるまでだ。数学の授業中だって、紫式部の物語を読むことはできるのだ。



 学校の帰りに、ある反政治団体が、駅前でデモを行っていた。

「我々はだまされている!明るい未来や、希望に満ちた社会なんて政府の流したデマだ!聴衆のみなさん!今こそ目を覚ますのだ!我々に必要なのは、こんな口を覆い隠すためのマスクではない!口は我々の一部だ!我々は話したり、物を食べたり、表情を作るために口が重要なファクターなのだ!さらけ出すべきなのだ!過去の偉人たち、先人たちは、口によって歴史を作ってきた!今の我々を作ってきたのは過去の口なのだ!必要ない!とってしまえ!とってしまえ!」

 オリンピックの表彰台のような台に上っているスーツの男は、そう興奮して叫ぶと、左手にマイクを握り締めたまま、右手を高々と突き上げた。その勢いに連動して、表彰台を取り囲むようにたっていた人々も右手を上げて、うおお、と叫んだ。その人々の多くは、頭に鉢巻をして、たすきをかけていた。

 僕たちも足を止めて、普通の人たちがそうするように、遠巻きにそのお祭り騒ぎを見ていた。

 ワハハ、と彼はばかにしたように笑った。

 そのお祭り騒ぎに乗じて、大学生ぐらいのグループが、指笛を鳴らしたり、いいぞ、もっとやれ、とはやし立てたりしていた。

 それから表彰台のスーツの男が右手を右から左へと振り回した。なんの儀式かは知らないが、それでその場はさらにヒートアップした。ライブ会場のような叫び声があちこちから聞こえた。

 そしてスーツ男は右手で口元のマスクをつかんで、一気にがっと取り払った。それに続いて鉢巻、たすきの応援団もマスクを脱ぎ払った。

 うわあっ、とその場が大きくざわついた。まるで満員電車の中で嘔吐した人を見るように、一般人はその場を後ずさり、狂気、残虐な叫び声を上げた。さっきまで浮かれていた大学生グループも、うわぁあいつらやっちまったよ、というように急に冷静さを取り戻した。

 僕も非常に場違いな場所に立ち会ってしまったと後悔した。それでも僕は顔をしかめながら、事の成り行きを見ていた。

 駅前は大騒ぎになり、誰かが警察に通報した。パトカーが来る前に、駅員が何人も出てきてその集団を取り押さえようとした。しかし、スーツ男をはじめ、その集団は駅員の制止を振り払い、なおマイクに向かって叫び続けた。

「間違ってはいない!間違ってるのはマスクを取り外すことのないあなたたちのほうだ!人間だ!我々は人間だ!隠すことなんて何一つない!隠す…ガゴッ」

 駅員の一人がスーツ男を後ろから羽交い絞めにした。スーツ男は抵抗して、両手をぶんぶんと振った。鉢巻、たすき集団の一人がその駅員をさらに後ろから羽交い絞めにして、スーツ男を解放させようとした。別の駅員がスーツ男に飛びつこうとする。それを集団の一人が妨害する。妨害する集団の一人を別の駅員が取り押さえようとする。まるでプロ野球の乱闘のように、その駅前は混沌とした戦場のようになっていた。

 パトカーのサイレンが響いた。僕たちの隣にいたカップルが、うわ、生逮捕じゃね、と興奮気味に言った。

 一斉に大量の武装した警官が集団を取り囲み、盾を使っておしくらまんじゅうでもするかのように、力で押し込み、制圧しようとした。集団の一人一人が個別につまみ出され、腕を締め上げられ、端っこに追いやられていった。その大きな山火事のような騒ぎは、少しずつ端から消化され、もう発火地点を押さえれば完全鎮火できるところまで追い詰められた。その巨大な火の勢力がみるみる薄れていくのは誰の目に見ても明らかだった。

 多くの一般人は少し前の混乱状態、自分にも災害が降りかかるのではないのだろうかとういう心配から解放され、安心し、写メをとる者もいた。うわあ、生逮捕だよ。明日の新聞載るかな?ニュースにでるんじゃね?そんな声があちこちから聞こえた。

 それでもスーツ男は戦っていた。マイクを取り上げられ、多くの戦友が警察に制圧され、締め上げられていても、誰かに向かって肉声で声を張り上げていた。

「マスクなど必要ない!必要なのはもっとほかにあるのだ!大切なのは心だ!」

 スーツ男はパトカーに乗せられ、連行されるまで抵抗していた。

 それが終わると、駅前はまるでひとつの行事が終わったかのように、なんの余韻も留保もなく、平凡な日常へと戻っていった。さっきまで足を止めてギャーギャーと騒いでいた連中は、写メをとって満足げにどこかに消えたし、サラリーマンは表情ひとつ変えずに帰っていった。駅員は集団の持ち物だった看板や放送セットを持って持ち場に帰っていったし、たくさんいた警官は現場状況を確認するだけに数人を残して去ってしまった。

 僕たちは何か感動するわけでもなく、動揺するわけでもなく、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。まるで海に沈み行く夕日を眺めるように。

 残っていた警官すら頷きながら立ち去ってしまうと、そのことを知っていて現場に残っているのは僕たちだけになった。みんなどこかへ行ってしまった。僕たちは取り残されてしまった。放映が終了して画面が真っ暗な映画館で、いつまでも座席に座り込んでいたみたいに。

「行こうぜ」と、とりあえず僕は言った。

 彼は首をひねって僕のほうを見た。

「なあ、どう思う?」と彼は聞いた。

「なにがさ?」と僕は一応聞き返した。

「さっきの出来事だよ」

「馬鹿げてるよ」

「馬鹿げてる?」

「必要のないことだ。だってどうやって世の中の決まりを覆そうとしてるんだ?」

「なあ、あれは何かに対する抵抗なんだぜ。やつらは変えたくて仕方ないんだ」

「僕はね、君に会ってからマスクを取り外したい人がいることを知った。そういう人も世の中にはいるんだってことを。ただ、あの人たちが間違ってるのは、それをこういう場で主張するってことだ。問題なのは内容じゃなくて、表現のほうにある」

「だけど主張しないと、変えられない」

「そういう世界を作りたいならば、別の国に行けばいい。もしくは山の中にでもこっそりとコミュニティーを作ってそこで生活すればいいんだ。なぜ大勢の人に影響を与えたがる?なぜすべてを自分たちに同調させようとする?自分たちの小さくささやかな世界を守っていればいいんだ」

「いいか。知らせたいんだよ。そういう世界があるってことも。知らない人が多すぎるんだ。知った上で選べばいい。ただ、知らないで理屈を押し付けるのが一番罪だぜ。なあ、やつらは、現在を変えたいんじゃない。ほんの0,1秒先でもいいから未来を変えたいんだ。俺にはわかるんだ」

 それから僕たちはポケットに手を突っ込みながら、しばらく黙っていた。

「帰ろう」と僕は言った。

 僕たちは駅へと足を進めた。

「世の中の決まりなんて、全部くだらない」と彼ははき捨てるように言った。



 自分の部屋に帰って、かばんをぽいと投げ捨てた。勉強机に着いて、頬杖をつき、ぼんやりと何かを考える。ああ、数学と英語をやっておかなくちゃな。

 ふと、口元を覆う白いマスクに気付く。もはや、自然に身につけるものだと体が感じていた。違和感などなかった。耳かけ部分のゴムをすっと外して、手の平にマスクを置いてみた。四角い布の四隅からゴムが出ていて、耳にかけるようになっている。フィルターは高密度の不繊布フィルターの一層構造。伸縮性に優れていて柔らかい。細菌やほこり、花粉など、体内への侵入を許さない高いバリア性。真っ白というより、全体的にやや黄色みを帯びていて、バニラ色という感じだ。使い始めのぴしっとした新品さはなく、ぐったりとやわらかくなり、今日の疲れを物語っている。つけるとぴったり鼻と口をふさぐが、通気性だって文句なし、息苦しくない。ただつぶやくように何かを言うと、もごもごとマスクの中で反響してしまって、相手に聞こえづらいだけだ。

 デメリットなんて、どこにある?


 僕たちが生まれるずっと前は、マスクなんてつけていなかったのだそうだ。考えられない。野蛮人だ。

 マスクの着用は個人の意志にゆだねられていた。つけたければつければいい。気にならないなら、何もしなくていい。

 僕たちの祖父が小学生ぐらいのとき、ある病気が大流行した。それは空気感染し、なおかつ殺傷能力が高かったので、それから外出の際にはマスクの着用が不可欠になった。実際、外なんて出歩きたくもなかった、と祖母はおびえるように話してくれた。

 外にはありとあらゆる見えないものが空中をさまよっている。菌、花粉、ほこり、砂、スモッグ、排気ガス、他人の息…。昔はそんなの気にならなかったんだろうか?

 やがて政府は、外出の際にはマスクをすることを義務付けた。権利から、義務に変わったのだ。反対する国民は一部だけだった。安全なら、そうするほうがいい。空中の見えない危険物なんてすべて除去できるはずがないのだ。

 いつしか、家の中でもマスクはつけられるようになった。下着と同じだ。陰部を隠すために下着をつける。ただ家の中では脱いでいてもかまわない。下着を着けずに外出すれば、猥褻物陳列罪でつかまる。普通に考えれば、恥ずかしいから、下着を身に着ける。家の中でもそうだ。むしろ身に着けるのが自然であり、マナーであり、モラルである。

僕は、マスクをつけていない人なんて生まれてから見たことがなかった。他人の性器や口もまじまじと見たことはなかった。そんなことしたら変態だと思われる。

だから、彼がマスクをはずし始めたとき、僕は抵抗感を持ったのだ。

祖父は、昔はよかった、とことあるごとに僕に言った。昔はマスクをつける必要なんてなかったんだ、と口をもごもごさせながら。彼みたいだ。

「でも、つけなきゃじいちゃんも病気にかかってたかもしれないよ」

「確かにな。確かにそうだ。でもな、そんなんだから体が弱くなるんだ。いろんなものを吸い込んで、体は強くなっていくんだ」

「でもさ、考えてみてよ。口をふさがれてるわけじゃないんだよ。使うなって命令されてるわけでもない。不便なことなんてないじゃない」

「物が食いづらい」

「食事中は外したっていいんだよ」

「まあまあ、安全な世の中になってよかったじゃないですか」と祖母がなだめるように言った。

 祖父は口をもごもごと、何か言いたそうに動かすが、言葉は出てこない。いつものことだ。



 ヒマか!?

 日曜日の朝、彼からのメールで僕は目を覚ました。僕は目をこすりながら携帯電話の画面をにらみつけた。僕はベッドの上にあぐらをかいた。

 なんなんですか?

 と僕は返信した。

 出かける。とりあえず今からお前んち行くから。

 彼が家に来るまで少なくても45分の余裕はあった。僕はその文字を見ながら、さっきまで見ていた夢の続きを思い出していた。確か真っ白い空から大きな木造の船が降ってきて、小学生の僕はジャングルジムの途中に腰掛けながら、その船が着地した瞬間にふわっと浮き上がり、ぱたぱたと両手を上下させ…。

 僕はぼそぼそと立ち上がり、洗面所で顔を洗い、寝癖を直し、ジーパンとTシャツに着替えた。

 僕がちょうどオレンジジュースを飲み終わるころに彼はやってきた。僕は両親に一言声をかけてから、玄関を出た。

 彼は遠足にでも行くように、中くらいのリュックサックを背負い、サングラスをかけていた。マスクとサングラスのせいで彼の顔はぜんぜん見えなかった。でもこれが最近の流行なのだ。

「どこかに行く予定なの?」と僕は聞いた。

「山だ」と彼は適当に指を差して答えた。

 僕と彼は電車に乗り、一時間ほど急行に揺られ、田舎くさい駅に降りた。休日のせいもあって、古ぼけた駅は僕たちのような登山客で幾分にぎわっていた。それでも、年老いた夫婦や、町内のハイキング旅行にまぎれると、僕たちはずいぶん異物のように感じられた。

 そういったツアーが向かう一般的な登山道に向かおうとすると、彼はシャツのすそを引っ張って引き止めた。

「こっちだ」

 彼は笑った目をしながら、一般客のコースとは反対の道を指差した。僕はおとなしく彼の背中についていくことにした。

「あっちは確かに都内じゃ有名な山で、初心者でも登りやすいんだ。誰でも登れて、なおかつ自慢できるような」と彼は説明した。「こっちの山はまったくの無名だ。自慢にもならないし、登っていても面白くない」

 僕は目の前を歩く彼の靴を見ながら、もくもくとついていった。なかなか急な勾配だった。

 何か言いたいことがあるに違いない。

 彼は何か僕に言いたいことがあると、僕を普段と違う場所に誘った。屋上だったり、公園だったり、海だったり。

 僕はそのたびに文句ひとつ言わずについていった。そして彼の口から語られる言葉に真摯に耳を傾けた。親のことを相談されたり、僕の生活態度のことを指摘されたり。

「前に駅でデモをやっていた団体があるだろ?」と彼が言った。

「ああ」

「ユーエムっていう名前なんだって」

「そうか」

 またしばらく登山道を歩いた。普段見慣れない風景が新鮮に感じられた。木々の緑や、大地の茶色や、木々からもれる太陽の白さ。たまに風がそよそよと吹いて、僕らの髪を揺らした。少し汗ばんだ肌や顔に当たり、それが心地よかった。

 山頂の少し手前に大きく開けた公園のような平地のスペースがあった。

「山頂よりもここのほうが休みやすいし、景色が見渡せるんだ」と彼が言った。

 僕たちはその平地の端っこのほうへ行き、芝生の上に腰を下ろした。息が荒くなっていたので、ゆっくりと息をした。少し呼吸しづらかったが、マスクの上からでも十分に酸素を取り込めた。僕らはしばらく息を整えた。彼は周りを見渡して、人がいないのを確認し、マスクを外した。それからタバコを取り出して、煙をふかした。

 僕はぼんやりとそこから見える景色を眺めていた。周りは山だらけだが、少し離れたところにはずらっと町並みが見える。それから目を凝らして遠くを見ると、僕らの住んでいるだろう都会的な町が見える。

 彼はタバコを地面でもみ消すと、両手を後ろにして足を伸ばした。

「空気が美味しいと思わないか?都会の排気ガスだらけのよりも」

「そうかな。変わらないよ」

「そんなものつけてるからだ。外せよ」

「やだよ」

「こんなに自然の空気はうまいのにな。大きく肺で呼吸すると良くわかる」

 僕はマスクの上から深呼吸してみた。肺に入ってくる空気はいつもと変わらなかった。

「俺はマスクなんて必要ないと思ってる」と彼は言った。

「それは前から知ってるよ」

「そういう意味ではそのユーエムって団体と、思想は似ている」

 僕は黙って聞いていた。

「気にはなっていたんだ。あの団体が駅前でデモ活動をしたときから。ユーエムと俺は、何が似ていて何が違うのか。ネットを使って調べてみた。直接、集会にも行ってみた。それでわかったんだ。やつらと俺は何も変わっていないってね」

「どういう意味で?」

「同一であり、現状維持。俺はユーエムの思想や活動に賛成だ。マスクなんてなくなればいいと思ってる。そのためには活動が必要だ。世の中の仕組みを変えるための活動が。そのためには多くの人に知ってもらい、協力を得なければいけない。それでも、俺らがそんな活動をしたって、何も変わらない。今までがそうだったように」

「歴史なんて、そう簡単に変わらない」

「それでも歴史を変えるためには、何かを犠牲にしなきゃならない。俺たちは犠牲者でいいんだ」

 俺たち?

「なあ、ちょっと待てよ。もしかして君はそのユーエムって団体に入ったのか?」

 彼は頷いた。

「冗談じゃない」と僕は声を荒げて言った。「わかってるのか?駅前であんなテロみたいな活動する団体だぜ。何をしでかすかわからない。下手な宗教団体と同じだぜ。何かに巻き込まれる前にさっさとやめるんだ」

「お前は勘違いしてるだけなんだよ。もっと世間にマスクの必要性のなさを知ってもらわないと。そのためにはこうやって何かの媒体を使って…」

「なあ、目を覚ませよ」僕は彼の話をさえぎるように言った。「いいか、マスクが必要ないと思う。それはそれでかまわない。君はマスクを極力つけないように生活すればいい。なんでその団体に属したいと思った?君も見ただろう。君が属している団体は精神的な暴力を使って世の中の秩序を乱そうとする反逆者だぞ」

「おい、待ってくれよ。マスクは世界に必要ないんだぜ。日本だけだぜ。おかしいと思わないか?なぜおかしいと思わないんだ?なぜ疑わないんだ?今の日本人なんて腐ってる。そういった別次元の世界があるってこと自体に目を向けない。目をそらして生きてる。それじゃあ俺たちは政府の操り人形だ。誰かが変えなくちゃいけない。この腐った社会を」

「それならもっと別の方法があるはずだろ?君が総理大臣にでもなって決まりを変えればいいんだ。なんでそんな団体に頼る?なんで自分を売る?」

「お前、言い方が悪いよ。もちろんユーエムには政治関係者もいて、政治から変えようとしている人々もいる。もちろん俺たちは応援する。彼らは彼らの分野でがんばってもらう。俺たちは生活の部分から変えていこうという支部なんだ。だから日ごろからマスクをつけないで生活することのすばらしさを多くの人々に知ってもらおうと…」

「だから、そういうことを言ってるんじゃなくて!」

 僕は頭をがりがりとかいた。自分が彼に伝えたい適切な言葉が出てこない。僕が思っていることが何一つ彼に伝わらない。彼にしたって、僕の言葉を受け入れようとする体勢じゃない。僕が何を言ったっておそらく十分に理解してもらえないだろう。わかっていないのは君だ。いやわかっていないのは君だ。いやわかっていないのは君だ。それの繰り返しだ。両方とも自分が絶対に正しいと思う。何をどうしたって、二人の間に適切な境界線の線引きなどできないのだ。幽霊はいる。幽霊はいない。じゃあ墓場にはいることにしましょう。そうしましょう。できるわけない。

 僕たち二人は分かれてしまった、と僕は感じた。

 でも、僕は分かれたくはなかった。

 こんなことで、今まで積み木のように静かにゆっくりと重ねてきた友情を壊したくはなかった。

「わかった」僕は何一つわかってはいなかったけど、そう答えた。

「わかってくれるか。どうだ?お前も一緒に…」

「悪いけど、僕には勧誘とか、その団体の話はしないでくれ。いつもどおりの君でいてくれ」

 僕ができる最大限の譲歩だった。

「…オーケー」と彼は言った。

 しばらく僕たちはそこから見える景色を眺めていた。それぞれがお互いのことを考えていた。僕にはそれがわかった。僕は彼を納得させ、説得させる効果絶大の言葉を探していたし、彼は僕を納得させ、共感させる感動的な言葉を探していた。僕たちが見ている景色から、そういった言葉を探し出して集めたかったが、僕たちは若かったし、互いを中傷するような言葉しか浮かんでこなかった。だから僕たちは黙って座り込んでいた。怒りや落胆やもどかしさが、順番に心に浮き出てきては、波のように引いていった。それを表に出さないように、静かにその波を眺めていた。

 やがて彼がマスクをつけなおして立ち上がった。

「電車が混む前に、帰ろう」

 僕も黙って立ち上がり、登ってきたときと同じように、彼の背中を見ながら帰り道を歩いた。

「世の中の決まりなんて全部くだらない。間違ってるのは世の中のほうだ」

 彼はつぶやくようにそう言った。僕は聞こえなかったふりをした。



「じいちゃん。本当にマスクなんてなくなればいいと思ってる?」

 僕は彼の件があった後、祖父に尋ねてみた。

「あたしは嫌ですよ。怖いもの」

 お茶を運んできた祖母がそう口を出した。

「なくなればいいんじゃない。なくてもかまわないんだ」

「じゃあさ、その、マスクをなくそうとする運動についてはどう思う?」僕は言葉を選びながらそう言った。

「やりたきゃ勝手にやればいい。考え方は自由だ」

「じゃあ、実際にマスクをつけなくてもいいってことになったら、うれしい?」

 祖父はしばらくの間、お茶を飲みながら考えていた。

「どうだろうな。それほどうれしくはないのかもしれないな。もう、どっちが正しくて、どっちが正しくないのか判断できない時代になったからな。お前の答えにはならないかもしれないけど、そうやって何かに反抗したいんだ。マスクなんかつけたくないってな、文句言って怒鳴ってストレスを解消させたいんだ」酒を飲んでいない祖父は、いつもよりまじめに答えてくれた。「だからな、いざマスクをつけなくてもいいってなったら、そのはけ口がなくなって、俺なんかはボケるだろうな。目的がなくなっちまうからな。定年退職したときみてえによ。ゴールしたはいいが、何をすればいいかわかんなくなっちまってな。少しぐらい昔を振り返って、あのころは良かったって言ってもいいじゃねえか」

 僕はそれについて考えをめぐらせていた。

 彼はどこに行きたいのだろう?

 たどり着いてどうするのだろう?

「時代は変わるよ」と祖父は言った。「もう過ぎたことは戻らないし、すべては日々進化してるんだ。間違ったことなら、訂正して方向を正せばいい。正しいことなら、もっと良いものに育てればいい。マスクにしたってそうだ。決まったことは決まったことだし、俺たちはその道を進んでるだけだ。まあ、マスクがどういう存在になるかは、わからないけどな。少しは役に立てたか?」

「うん。ありがとう」

「お前も色々考える年になったもんだ」



 彼と会うときはいつもと変わらない僕を僕は演じていた。

「よう、たかし、めし食いに行こうぜ」

「いいとも」

 いつもと同じように誰もいない屋上へ行き、僕たちは昼食をとった。そして彼はマスクをはずしたままにし、タバコに火をつけた。

「お前もはずせよ」

「やだよ」

 いつもと変わらない、毎日。

 でも僕の胸中はずっとざわざわしていた。

 彼は変わってしまった。いや、彼は悪くない。悪いのはあの団体だ。じゃあ、どこが悪い。自分の意志で入会した彼は悪くないのか。彼とどういう風に接すればいいのか。彼をどうしたら、普通の人間に戻せるのか。そもそも普通とはなんだ。僕が間違っているのか。僕が洗脳されていて、それに気付いていないだけなのか。彼が普通なのか。いや、僕は間違っていない。マスクをつけることこそ普通の証なんだ。彼の考えはおかしい。いや、彼は彼だ。彼の好きにさせておけばいいんだ。僕には関係ない。でも彼とは友達でいたい。彼を引き戻さないといけない。でも意見は相容れない。どうすればいい。放っておけばいい。嫌だ。僕は彼とつながっていたい。

 彼は僕といるときは、ユーエムという団体のことは一切口に出さなかった。彼としても、その話題を出せば僕が嫌な顔をすると思ったんだろう。

 彼は僕に気を使っていたし、僕も彼に気を使っていた。それでいい関係が保たれているのだから、問題ないとは思ったが、以前はそんなことに気を使わなくても僕たちはすべてうまくやれていたんだ。そう思うと、僕は少し悲しくなった。



 ネットでユーエムの話題が出るたびに、僕はその文を熱心に読んだ。書いてあることはいつもほぼ同じだった。新興宗教、カルト教団、詐欺…。

 一方で、ユーエムによって自分がいかに狭い視野の中で生きているか気付かせてもらって感謝している、というような文もあった。今ではマスクなんて使ってもいないし、買ってもいない。今までマスクを購入してきた費用がばかみたいだ。我々は政府に金を貢いでいたんだ、と。

 なるほど、と僕は思う。なるほど、世間には様々な考え方、感じ方があるものだ。その中からひとつの正解を導き出すのは想像以上に難しい。

 もちろん僕は彼を説得するのにふさわしい文句をその中から探し出そうとしていた。でも彼の中にがっちりと埋まっている、まるで屋久杉の根っこのようなものは、ちょっとやそっとでは引っこ抜けないだろう。

 僕はいつも何かにあきらめたようにパソコンの電源を切る。



 珍しく彼は学校に来ていなかった。

 僕は仕方なく食堂で昼食をとることにした。予備校の自習室のように、左右と前に仕切り板のついている机がある。これなら、他人に口を見られなくてすむという寸法だ。食堂はこのようにひとつずつ机は区切られているが、仲のいい友人たちと隣り合わせに座ったりして、わいわいと会話でいっぱいになっている。

 ちょんちょんと肩を叩かれた。僕はあごにずらしてあったマスクをつけなおしてから振り向いた。そこにはあまり話したことのないクラスメイトの男子がいた。

「なあなあ。お前、D組のやつと仲いいじゃん?あの…」

 彼のことだ。

「そうだね」

「あいつさ、もしかしてなんかやばいグループに入ってる?」

 僕はぎくっとしたが、何も知らないような風に答えた。

「さあ?何かあったの?」

「いや、昨日さ、俺、あいつんちと近いんだけど、夜中にさ呼び鈴がなったわけよ。んで俺が出たんだけど、10人くらいのマスクつけてないやつらがそこに立ってるわけ。もうびっくりしてよ。びっくりするだろ?」

「それは驚くね」

「そんでよ、にこにこしながら、マスクは必要ないんです、みたいなことを言うわけ。俺、もうあせってるし、わけわかんねえし、チラシも受け取らずに、速攻、バンってドア閉めたんだけど、そんなかに、見覚えのあるやつがいたもんだからさ。見間違いかなあ」

「グループ名とか、言ってた?」

「なんだったかな?ユーマとかヨーマとか…」

「ユーエム?」

「ああ、そんなんだったかな。知ってんの?」

「いや、前に駅前でデモやってるのを彼と見たんだ。ばからしいって言って」

「そっか。じゃああいつじゃないんかなあ」

「とりあえず、警察に通報すべきだったね」

「そうだよなあ。してないんだよ。もうパニクッちゃって」

「そういう状況になれば誰でもあせるよ。多分見間違いじゃないかな?」

「そっか。そうだよなあ。まあいいんだ。めし食ってる最中にすまんかった」

「別にいいよ」

 そう言って彼とは別れた。

 しばらく考えたあとで僕は思った。

 間違いない。それは彼だ。

 なあ、君は何をしているんだ?


「なあ、いったい何をしているんだよ?」

 僕は翌日、登校してきた彼を捕まえて屋上に連れ出した。

「クラスの友人が言ってたぜ。マスクをつけずに家を訪問して、勧誘してるって。自分が何やってるのか、わかってるのか?」

「お前こそわかってないのか?」と彼はマスクをはずして言った。「世の中の人々は、本当はマスクをはずしたくてしょうがないんだ。でも、世間体や、モラルがどうとかではずせずにいるんだ。素直になればいいんだ。はずしていることこそ、人間のありのままの姿なんだから。みんな自分を偽りすぎてる」

「正直とか、そうじゃないだろ。マスクをつけなきゃ、自分が病気にかかるし、周りの人に空気感染するかもしれない危険性もある。自分はいいかもしれないが、周りの人のことを考えろよ」

「たかし、お前も気付いてるんだろう?どっちの側が正しい世界なのかって」

「正しいとか正しくないとか、そんなのどうだっていいだろう。決まったことは決まったことなんだ。僕らがその道を進んで、それが正しかったって言える…」

「違うだろう?」彼はさえぎるように言った。「本当は世の中の決まりは腐ってるって思ってるだろう?」

 僕は彼をぶん殴ってやりたかった。ぶん殴って、夢から覚ましてやりたかった。でも、これが現実なのだ。

「おい、授業が始まるぜ」

 僕は何も言わず、彼の後ろをついていった。



 強くなりたかった。

 僕が彼に影響を与えられないのは、僕が弱いからだ。僕の言葉に力がないからだ。

 僕がエリック・クラプトンやジェフ・ベックやエドワード・ヴァン・ヘイレンやエルヴィス・プレスリーやジョン・レノンだったりしたら、彼に一言声をかければ、彼は神からの声を聞いたようにおとなしく従うだろう。

 でも僕はエリック・クラプトンでもジェフ・ベックでもエドワード・ヴァン・ヘイレンでもエルヴィス・プレスリーでもジョン・レノンでもなかった。僕は何者でもなかった。僕は力を持たない一般市民の一人だった。

 悔しい。

 僕は何も持っていない。

 莫大な財産も、人の心に訴えかける声も、考えさせる論理も、天才的なギターの技術も、何もない。

 だから僕の声は、彼に届かないのだ。



 彼はそれから学校に来ない日が多くなった。

 僕は一人で誰とも顔を合わせずに昼食をとって、授業を受けた。進路だって決めなければいけない時期になってきた。

 マスクは一日毎に取替えられ、多くのマスクが消費された。

 おかげで、風邪も花粉症も僕の体とは無縁だった。



 ある朝、登校して教室に行くと、やけにクラス全体がざわざわと落ち着きがなかった。

「おい、聞いたか?」とクラスメイトの一人が僕に話しかけてきた。「D組の一人がな、今朝マスクをつけてなかったらしくて、駅前で補導されたんだって」

 僕は彼の名前をぼそりとつぶやいた。

「そいつだ」とクラスメイトは人差し指をぴんと立てた。

「職員室で、朝から大騒ぎだと」

「それで」と僕は興味なさそうに言った。「どうなったの?」

「なんでも、退学するとかで騒いでるらしいぜ」

「今?」

「どうなんだろうな?もうおさまったのかな」

 その出来事は事実だったらしく、朝のホームルームは十五分遅れて始まった。

 先生の口からは彼の名前は一切出てこなかった。ただ、一時間目は十分遅れで始めるとだけ伝えられた。

 ホームルームが終わると、クラスメイトの一人が、最新情報を誇らしげに語っていて、その周りには大衆の輪ができていた。僕はその輪に入りたくはなかったけれど、聞かないわけにはいかなかった。席を立って、そのクラスメイトの話が聞こえる場所に移動した。

「どうやら、退学したらしいぜ」とクラスメイトは興奮気味に語った。「校長や教頭相手に論争したんだってよ。それで、意見が聞き入れてもらえないからって、じゃあ自主退学しますって言ったらしいぜ。もちろん校長はあわてて止めたけど、マスクをはずしたまま、シカトして帰ったって」

「どうせ二、三日すれば戻ってくるだろ。高校辞めてどうすんだよ?」と誰かが言った。

「ホントだよな。すぐ戻ってくるべ」

 それぞれが好き勝手な意見を出し合っていた。自分は会話すらしたことのない彼のことを。僕は何も言わずに席に戻った。



前に、彼が僕に語ってくれた。

「たかしはさ…。お前じゃなくて、中学のたかしな。たかしとはよく一緒に夜遅くまで騒いでたんだけど、ある騒いだ次の日、急に高熱を出してな。俺と一緒にマスクをはずしてたのが原因だって医者にいったんだ。でもそんなの関係ないだろ?確かにマスクはつけてなかった。でもはずしたのは自己責任だし、俺はぴんぴんしてた。ようは自分の体調管理の問題だ。それから、たかしはずいぶん長い間入院してて、気がついたら卒業式だったよ。一通の手紙がきたんだ。俺宛に。しばらくあってないけど元気か?俺はマスクの重要性をつくづく認識した。いつか必ず、どんな菌も侵入させない完璧なマスクを作ってみせる。君とはそのときにもう一度会おうって。俺は悲しくなったよ。あれだけ二人でマスクをはずして意気投合してたのに、何かひとつの事柄でまるっきり変わってしまうんだから。返事は書かなかった。俺は昔のたかしが好きだったんだ」

 彼は右手に持っていた缶をぎゅっと握った。



 次の日も、その次の日も、一週間経っても彼は学校には来なかった。

 携帯電話もメールもつながらなくなっていた。おかけになった電話は現在お客様のご都合により…

 僕はクラスメイトに彼はどうなったのか、思い切って聞いてみた。

「さあ?」とクラスメイトは言った。一週間前のことなんて、誰も覚えてませんよ、とでもいう風に。

 僕は昼休みに彼のクラスを訪れてみた。彼の席には荷物やかばんなど一切なく、彼の空気というものが感じられなかった。

 思い切って彼のクラスの人にも声をかけてみたが、誰も彼がどうなったのか、詳細を知っている人はいなかった。

 僕は急に寂しくなり、悲しくなった。

 おそらく、彼と会うことは、もうないだろう。

 僕は、確実になくしてしまった。

 学校にいることが急に嫌に感じた。僕はかばんを持って、そのまま校門を出た。

 駅に向かい、電車に飛び乗った。彼と前に行ったことのある、あの山に向かう電車だ。

 急行列車はあらゆる風景を一瞬で置き去りにした。

 僕は駅に着くと、急ぎ足で改札を出て、彼と登った山に一目散に向かった。

 地面をけって、懐かしい記憶を頼りに、ひたすらに登った。

 制服に土が飛び跳ねる。ズボンの裾のあたりはぐちゃぐちゃになる。かまうものか。

 なあ、君とはもう会えないのだろうか。君とはもう分かり合えることはないのだろうか。君はどこへ行ってしまったんだ。

 唐突に、怒りがこみ上げてきた。僕は友達だと思っていた。君は、僕のことを友達だと思ってくれていなかったのか。友達なら、普通、一言ぐらい言ってから別れるよな。がんばれよ、ああ、お前もがんばれよ、とか。なぜ、僕には一言もないんだ。これが僕たちの絆の結晶か。僕たちはその程度だったのか。君はなんとも思っていないのか。僕はこれほどの喪失感を抱えているのに。

 呼吸がぜいぜいと荒くなり、肩が上下に揺れた。重い足を奮い立たせながら、前に進んだ。

 いつかの平地にたどり着いた。当たり前だが、そこには誰もいなかった。

 僕は前と同じ場所に行き、景色を見渡した。

 なあ、どんなにがんばったって、世の中の決まりを変えることなんて無理じゃないか。

 僕はマスクに手を掛けて、力任せにはずした。

 大きく深呼吸をして、肺に空気を入れる。

 ほら、うまくもなんともない空気だ。



 








 なあ、誠…。

 君が今どこにいて何をしているのか僕は知らない。

 でも僕はずっと友達だと思ってる。

 いつか、戻ってくるときがあったら、連絡をくれ。

 番号もアドレスも変えてない。

 そしたら、また、夜遅くまでくだらない話をしよう。

 そのときは、僕もマスクをはずしてもかまわない。

                   

                                終


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― 新着の感想 ―
[一言] 独特の世界観ですね。 彼の生き様にあこがれを覚えました^^
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