心の汚れ判定試験(第2題) 濡れているのでよく滑ります
昨日の一件で、俺は学んだ。
黒崎主任の説明は、内容だけ聞け。
言い方まで聞いたら負けだ。
なのに翌朝、主任は作業台に並んだ部品を前に、開口一番こう言った。
「今日は潤滑剤で濡れているので、ヌルヌルしてよく滑ります。気をつけてください」
開始三秒で終わった。
倉持が変な音を漏らし、田所が天井を見た。
そして、この場でいちばん危ない女が、案の定、口元を押さえた。
篠宮ひより、二十三歳。仕事はできる。気も利く。愛想もいい。
ただし、主任の説明が妙な方向に聞こえそうな時だけ、目が輝く。
「主任、そんなに滑るんですか?」
「かなり滑ります」
即答だった。
黒崎主任は今日も何一つためらわない。
「油断すると手元が狂います。しっかり押さえてください」
倉持が背を向けた。
俺は目を閉じた。
主任は気にせず、透明ジョイントとシリコンキャップを持ち上げる。
「見ていてください。こういうものは焦ると良くありません。濡れているので、片手だけでやろうとしないでください。両手の方が安全です」
田所がぼそっと言う。
「朝から濃いな」
「濃くはありません。適正量です」
違う。そこじゃない。
だが主任はもう止まらない。
「いいですか。まず位置を合わせて、急に押し込まないでください。先に軽く当てて、感触を見てから、ゆっくり入れます」
倉持がついに作業台に突っ伏した。
篠宮が真顔で聞く。
「主任、ヌルヌルしてると、やっぱり入りにくいんですか?」
「いえ。入りにくいというより、狙ったところに入りにくいですね。滑るので」
倉持が肩を震わせた。
俺は頭痛がしてきた。
「ですから、変なところに当てないように」
「変なところ」
「はい。傷がつきます」
もう駄目だ。今日も長い。
「では篠宮さん、やってみてください」
「ええー、うちがですか?」
「はい。最初は皆さん怖がりますが、慣れれば大丈夫です」
「慣れれば大丈夫」
「はい。濡れていても、ちゃんと押さえれば逃げません」
帰りたい。
篠宮はにこにこしながらジョイントを持ち、もう片方の手でキャップを構えた。
「主任、これ、ヌルヌルして持ちにくいです」
「だから両手で、と言いました」
「両手でやっても滑ります」
「そのくらいなら普通です。もっとしっかり持ってください」
「しっかり」
「はい。中途半端だと、途中で抜けます」
きっぱり。
俺はフォークリフトの陰に消えたくなった。
田所が低い声で言う。
「昨日から“途中で抜けます”の安定感がすごいな」
「安定しないから確認しているんです」
その時だった。
引き戸が開いて、総務の女性事務員が書類を持って入ってきた。
「佐伯さん、承認印を——」
そして、止まった。
最悪の間で、主任が言う。
「篠宮さん、まだ駄目です。そんなに滑るなら、一回拭いてください」
「えー、拭いていいんですか?」
「いいです。少し拭いた方がやりやすいです。ただ、完全に乾くと、今度は引っかかります」
女性事務員の表情が消えた。
篠宮が追い打ちをかける。
「主任、じゃあどのくらいが一番いいんですか?」
黒崎主任は、今日も美しいほど真面目だった。
「適度に湿っているくらいが一番です」
沈黙。
倉持がその場にしゃがみこんだ。
田所がつぶやく。
「被害者が増えたな」
俺は前に出た。
「これはですね、潤滑剤を使った仮組みの——」
だが、また主任の方が早かった。
「接続確認です」
主任は透明の部品を女性事務員に見せながら、朗々と続ける。
「潤滑剤で濡れていて、ヌルヌルしているので、片手だと滑ります。両手で押さえて、位置を合わせて、ゆっくり入れます」
女性事務員の顔が引きつった。
「途中で慌てると抜けますので、一回落ち着いて、拭くか、そのまま続けるか判断してください」
長い。
致命的に長い。
女性事務員は俺を見た。
俺は何も言えなかった。
主任は首をかしげる。
「……何か、おかしいですか?」
その瞬間、篠宮がきらきらした目で言った。
「主任、うち、適度に湿ってるくらいを目指して頑張ります」
「はい。そのくらいが一番やりやすいです」
総務の女性事務員は静かに書類を作業台に置いた。
「……印、あとで大丈夫です」
そう言って帰った。逃げた。完全に逃げた。
引き戸が閉まった瞬間、倉持が爆発した。
「無理だって! “適度に湿ってるくらいが一番です”は無理だって主任!」
「なぜですか?」
「なぜって!」
「乾きすぎると滑りが悪くなりますよね?」
正論。
完璧な正論。
だから誰も勝てない。
篠宮が目元の涙を拭いながら言う。
「主任、うち、主任の説明ほんと分かりやすくて好きです」
「それは良かったです」
田所が検品済みの部品をコンテナに並べながら、ぽつりと言った。
「昨日は奥まで入れて、今日は濡れててよく滑る、か」
少し間を置いて、続ける。
「この職場、取り扱い説明書より先に会話の注意書きが要るな」
黒崎主任は真面目な顔でうなずいた。
「それは必要かもしれませんね」
全員が一瞬だけ安心した。
やっと終わった。そう思った。
だが主任は、次の部品を持ち上げて言った。
「では次、口の方も確認します。ここ、ちゃんと開いていないと入りません」
作業場の空気が、また死んだ。
篠宮が俺を見て、にっこり笑う。
「佐伯さん」
「何だ」
「今日も長い一日になりそうですね」
まったくだ。
梱包発送課の朝は早い。
そして黒崎主任の説明は、今日も朝から順調に、誰かの理性を壊していた。
ご拝読ありがとうございました。
本作は、真面目な会話なのに妙な方向へ事故を起こしてしまう人たちによる、健全な現場の不健全コメディです。
たぶん今後も、似たような言葉の事故は各所で発生します。
少しでも笑っていただけたなら嬉しいです。




