ノクスの王、ディエラの娘
夕暮れに、実った麦の穂が朱く染まっている。
地平線まで続く金色の絨毯を、ルア・ネス・セリス・ノルディアスは万感の思いで眺めていた。
夜闇と同じ色をした髪の奥で、夕闇を呼ぶ紫の瞳が、初夏の実りの喜びを映している。
今年も大きな災いなく収穫の時期を迎えられた。国を治める王族ノルディアス家の端くれとして、これほど嬉しいことはない。
先ほど、荷車に何杯分もの麦穂を抱えて帰っていった一家の笑顔を思い出して、ルアは思わず頬を緩めた。
ふと、背後から声がかかる。
「ルア様、そろそろ」
「リオスか。うん、戻ろう」
幼少期よりの従者、リオスだ。
剣士としての腕はもとより、穏やかで面倒見の良い気質もあり民からの人気も高い。ルアが生まれたとき、父王によって定められただけの主従のはずなのに、誰よりも忠実に仕えてくれていた。少しばかり、親しすぎるきらいはあるにせよ。
「いやあ、よく働きましたねぇ。ルア様も麦穂苅が上手になって。おれが手取り足取り教えてやってた頃と比べたら雲泥の差だ」
「何年前の話をしてる、もう十五だぞ。十年もこうしてリオスとともに農作業に携わっていれば、嫌でも上手くなるさ」
「あと数日もすれば次は脱穀、少し休ませて種まき……今日の畑も女手しかないからって、ルア様が手伝ってくれて喜んでましたね。いや、王子の仕事としてそれでいいのかはわかりませんが」
「いいんだよ、俺は末子だし、命の重さは皆同じ。民が平和で満ち足りた生活を送れるようにするのが、王家の役目だ。政治は兄上達、社交は姉上達。残った俺には光魔法の才もないし、あと役に立てるのはこういうことくらいしかないからな」
泥まみれの手で額を拭うと、リオスはくすりと笑って腰にかけた布を外し、顔を拭ってくれた。
魔法には、光魔法と闇魔法がある。
光魔法は自らを魔力資源とし、世界に影響を及ぼす魔法だ。自分自身の器の大きさが限界だから、大きな影響を起こすことはできない。だが、人は自らの生活を豊かにすることを厭わない。そのために、人々の力を合わせ、生活基盤を整える魔法に向いている。
闇魔法は他者から魔力資源を奪い、世界に働きかける魔法だ。金で契約するなり、従えるなりして、多くの者から魔力資源を提供させることで、光魔法よりも大掛かりな魔法を使うことができ、その威力は莫大なものとなる。
代々、光魔法をその力の柱とする一族の末裔として、父王は国土を治めることに力を入れてきた。父の功績を讃える声は、ルアにとっては誇らしいものだ。たとえそれが、自分には永遠に手の届かない才能だったとしても。
ルアに光魔法の才覚が欠片もないことは、既にわかっている。
魔法将が言うには、魔力資源がないのではなく、魔力資源から光魔法を汲み上げるための動力機関がないのだそうだ。修復の方法はない。
「光魔法の才ねぇ。ノルディアスの血を引いてるんだから、そのうち開花しそうな気はしますよ、いわゆる動力機関って鍛えれば多少は変わるじゃないですか」
「多少ってもんじゃないぞ。十五で片鱗も見えないんだからな、誰もが絶望的な顔する」
「そうですか。ま、顔はいいんだから、そのうち姫君方の種馬役が回ってきますよ」
「それも、別に俺の血を継いでもなぁ……兄上だけで五人もいるんだぞ。野心だけなら、もっと王位継承権に近いとこを狙った方がいいと思うが」
とは言え、ノルディアス家の継承権にどれほどの価値があるか。最も栄える帝国領からは程遠く、周囲から見ても要衝ではない農業国。両親の仲が良いのだけは自慢の種で、ルアは十一番目の子どもである。自分まで玉座が回ってくることは絶対にない、と信じ切っており、周囲も同じような目で見ているからこそ、民に混じっての農作業が許される地位であった。
首を傾げるルアには答えず、リオスは夜空にふと目を向ける。
「少し急ぎましょうか。夕飯に間に合わない」
王城への道すがら、空はだんだん暗くなっていく。この季節の昼は長いが、日が落ち始めれば夜はすぐそこにやってくる。冷え込む前に、と歩を進め――そして、空が見慣れぬ様子に光るのを見て、眉を寄せた。
夜空が、紅く燃え立っている。
星の輝きすら遮って、紅く――紅く。
血の色に濡れ落ちる空の真下には、王城があるはずだった。
無言で駆け出したルアの後を、リオスもまた無言で追ってくる。
凹凸の多い農道を駆け抜け、森の木々を抜けて見晴らしの良い丘に出れば、そこからは王城が一望できる。
足下の城壁に守られた城郭都市と、その中央に聳え立つはずの城塔や居館は――今や、炎に包まれていた。
「これは――!?」
「ルア様、隠れて!」
リオスに首根っこを掴まれ、地面に伏せる。
草いきれの隙間から覗き見る街では、見知った人々が逃げ惑い、道端にその死体の転がる凄惨な現場と化している。
ところどころ見えるのは、隣国オブスクラ家の紋章が描かれた旗。
「り、リオス……あれは、どういうこと……」
リオスの返答はなかった。
答えの代わりに、駈け出そうとするルアを、リオスは腕力だけで押しとどめていた。
「リオス……! 頼む、せめて父上や母上……あっ、あ、兄上や……姉上たちがどうしてるか!」
「……いけません」
ようやく返って来たのは、これまでに聞いたことのない低い声だった。
「御身を危険に晒すことはできません。無事がわからないうちは、ノルディアス家の存続は、今やあなたにかかっている」
「そんなことはどうでも良い! それより――」
「どうでも良くあるか、馬鹿!」
身体ごと放り捨てられるように地面に投げ出され、見たことのない従者の表情に、ルアは今更ながら目を瞬かせた。
「おれが心身ともに捧げ仕えてきたのは、あんたじゃない、ノルディアス王家だ。あんたの身勝手な動き一つがどこに影響を及ぼすか考えろ!」
「そ、んなこと……」
「わかったら、あんたは大人しくしといてください。偵察はおれの役目だ。いいですか」
地面に膝を突いたままのルアに、リオスはぐっと顔を近づけてきた。
「おれはこれから居館の様子を見に行きます。なにがあってこうなったのか、誰が無事でどうなっているのか、確認してきます」
「俺も……」
「あんたは、一番近くの姉姫様の館に向かってください。もしそこも同じことになっていたら」
全身の血が、一気に抜けたような気がした。
自分がなにを失いつつあるのか、ようやく頭が理解に追いついた。
「あんたは一人で逃げるんだ。ノルディアス家を継ぐのは、もうあんたしかいないってことだ」
突き付けられた言葉は、覚悟した後に来た。
ルアは黙って頷いた。リオスが捧げてきたものの重みを知っているからこそ、ルアができることは頷く以外の何もない。何をすべきかなんて、何一つわかっていなかったとしても。
リオスは最後に笑みを浮かべ、ルアの肩を叩く。
「あなたが思ってるより、おれは楽しかったですよ、ルア様。どうかご武運を」
「――リオス!」
呼んだ声に、リオスは一度も振り返らなかった。
煙と夜闇に紛れ消えていく背中を、ルアは黙って見送るしかなかった。
◆
父王や五人の兄達が皆、炎の中で自刃したとルアが知ったのは、数日の後だった。
姉の嫁ぎ先もまたことごとく炎に巻かれ、今やオブスクラ家の旗が翻っている。
ルアは、フードを目深に被り、多くの孤児たちに紛れながら、一人街を彷徨っていた。
ノルディアスの街ではない。隣国オブスクラの城郭都市である。
リオスは戻らなかった。
家族は皆、死んだ。
光魔法も使えないルアができるのは、せめてオブスクラ家の王と刺し違えて死ぬことくらいだ。
ふらふらとオブスクラの館へ続く裏路地を歩きながら、ルアはどうすれば彼に近づけるかを考えていた。
あの日、ノルディアスを襲ったのは闇魔法だったのだろう。
ルアが人に紛れて聞いた限りでは、オブスクラの一軍は国境から風のように城壁を抜け、城郭都市へ飛び込んでいったのだと言う。
城壁には当然、外からの侵入を阻む光魔法が編みこまれていたが、それを破ってあまりある力だったのだから、どれだけの魔力資源を注ぎ込んだと言うのか。
そして、こうなることすら予想もせず、遊び歩いていた自分の先見の明のなさと言えば。
「……甘えてた、ということだな」
もしもここにリオスがいれば、呆れた調子で叱られるのだろう。
そんな空想が、微かにルアの唇を緩ませた。
そのとき、ふと道端からルアに向かって呼びかける声が聞こえた。
「あの……」
声に従い振り向く。そこには誰もいない。
そう結論付けて視線を戻そうとしたとき、ようやく気付いた。
足元の壁にぽっかりと空いた穴――そこに厳重にはまった鉄格子の向こうから、少女がこちらへ手招きをしていた。
白銀の髪は薄汚れ、陽光を知らぬ肌は微かに青ざめていたが、隙間から覗く顔立ちは整っていて赤みを帯びた瞳はどこか朗らかささえ湛えている。
「あ、気付かれましたか。良かった!」
「……何か用か。先に言っておくが、そこから助けて欲しいとか言われても、俺はなにも出来ないぞ」
相手がオブスクラの民であるという憎悪も混ざって、ルアは冷たく切り捨てた。切り捨てたつもりだった。
だが、少女はとくにそれを気に掛けた様子はなく、一度手を引っ込めると、黒く焼き締められたパンを片手に握り、もう一度ルアへと差し出してきた。
「ずいぶんお腹が空いている様子ですので。私はここから出られませんから、そうたくさん食べる必要はありませんので……良ければどうぞ」
近づいてしゃがみ込んで見れば、椅子の上に爪先立ちながら、少女はなんとか手を伸ばしているのだった。
ルアと同じくらいの年頃に見えるが、栄養が足りていないからか、あまりにも細い。ぐらついてバランスを崩しそうな様子に、思わず差し出されたパンごとその手を取った。
少女がにこりと笑う。その笑顔がどこか懐かしい気がして、ルアは怯んだ。
「神のご加護がありますように」
「……それは……むしろ君の方に必要なものじゃないか?」
どう見ても、少女の待遇がいいとは思えなかった。
食べるに困るルアではあるが、どこかに閉じ込められている訳でもなく、五体満足であるからには働きさえすれば空腹はなんとかなる。
少女の手の隙間から覗き込めば、鉄格子の向こうには薄暗い石張りの床と壁しかなく、唯一の扉は重たい鉄製で、家具らしきものは床にぽんと放り出された皿くらいしかない。
その皿の上にたった一つ乗っていたのが、このパンだったのだろうことは想像に難くない。
「どういう経緯でこんなところに閉じ込められてるんだ。何か悪いことでもしたのか」
こうなってしまえば、訊ねずにいることは、ルアには出来なかった。
少女はぱちくりと目を瞬かせると、微かな笑みを浮かべた。
「私は、生まれつき他人よりも大きな魔力資源があるのだそうです。その力を正しく使いたいと申し出た方が、幼い頃から私をここで生かしているのです」
「……つまり、闇魔法の魔力資源として君を利用するために、君をここに閉じ込めてるってことか」
契約、支配、服従……闇魔法による魔力資源の奪取は、同意さえあれば可能である。だが、こうして自由意思を奪って魔力資源を提供させるとは。
ルアが顔を顰めていることに気付いてか、少女は慌てて首を振った。
「私自身、納得しています。私は……この卑小な身に余る魔力資源のために、自分の光魔法を暴発させたことがあるのです。私のせいで周りが不幸になるくらいなら、誰かもっと正しく使える方に魔力資源を委ねて、うまく使って貰えた方が……」
「――その魔力資源で、隣国が滅ぼされたとしてもか」
問いかけと共に、ルアは思わず指を掴んだ。冷えた指先は、怯えたように小さく震えた。
「何百人も死に、行き場を失って、昨日の幸福を誰も享受できなくなってたとしてもか?」
「……わ、私の魔力資源が何に使われたかは……わからなくて……」
「何も知らない癖に、君が使うより正しく使われたかどうかなんて、どうしてわかる。せめて」
ルアの指を伝い、少女から流れ込む魔力資源が身体の内側を渦巻く。
接点を通じた魔力資源のやり取りは、同意に依らない。こうして触れている限りは、彼女の同意がなくとも魔力資源を奪取することができる。
自らの魔力資源すら感じられないルアが、初めて魔力資源の存在とその使い方を認識した瞬間、これまで光魔法使いの血筋として教わってきたことが全て身体に実感として定着した。
「――せめて、その目で見て、正しいことを確信した者に力を貸すべきだ」
ルアには自らの魔力資源を汲み上げる動力機関がない。だが、他者の魔力資源ならば。
初めて使う闇魔法は、尽きることを知らぬ大河の治水のように、果てしない景色に見えた。
瞬間、二人の間を隔てていた鉄格子が、枯れ枝でも折るかのように乾いた音を立てて折れ曲がっていく。
目を見張る少女の両手を引き、その身体を引き上げると、ルアは少女にマントをかぶせてから告げた。
「君はもっと自分の目で見るべきだ。誰の命より自分を大事にしていいと、そう思えるようになってから、自分の身を預ける先を決めればいい」
「そう……でしょうか」
不安げに、だがルアの手には逆らわないまま、少女はルアの腕に身を任せている。
「君、名前は?」
「……エリシア」
答えた途端、繋いだ手から更に大きな魔力資源が流れ込んでくる。
ルアはその魔力資源をうまく周囲に天幕のように張り巡らし、二人の姿が周囲の人間から見えぬように視界を誤魔化す闇魔法に振り向けたのだった。
◆
エリシアを連れ出したことで、ルアは一つの確信を得た。
彼女を利用していたのは、間違いなくオブスクラ家の者だったようだ。エリシアを探す貼り紙や兵達の様子から、オブスクラ家にとって重要な魔力資源源であることも。
追手から逃れるため、ルアは再びノルディアスの城郭都市に舞い戻った。
一つには、あの日、一族を殺した者に復讐を果たすため。
もう一つは、そのための協力者を募るため。
幸いにして、後者の伝手は多かった。
父王と懇意にしていた者や、ノルディアスに長く続いた平和を取り返したいと望む者。闇魔法の魔力資源として連れ去られた家族を取り戻したいと、オブスクラの治世に不満を抱く者も大勢いた。
エリシアを伴い、元貴族や商家の者たちと密に接触するルアに、彼女は首を傾げて見せた。
「なぜ、私を連れて行くのです? 足手まといになるのに」
「君の力を使って、俺がなにをしているのか見て欲しい。それが正しいかどうか、君が認められるかどうか」
逃げ出したあの日に誓ったまま、ルアはエリシアに全てを見せたかった。
いつか自分が裁かれる日が来るなら、エリシアこそがその天秤だと半ば確信している。
「ま、そもそも君がいないと闇魔法が使えないってのもあるし、後は――」
言いかけた言葉は、途中で止まった。
それ以上の答えが返ってこないことを訝しみつつ、エリシアは挙げられた答えをすべてとして頷く。
「ルアは、私が良いと思ったことに力を使おうとするんですね」
手を繋げば、渦巻くような魔力資源が無限に湧き上がってくる。それは純粋な力に対する欲望を湧き起こすものではあった。
だが、光魔法使いの末子として生まれたルアには、他人の魔力資源はどこまでいってもその人のものだとしか思えないのだった。
「君の力だ。君が判断していい」
「じゃあ、私が私の気持ちに正直に提案します。帰り道が寒いので、もう少し急いで帰りませんか」
「心得た」
流れ込む魔力資源を取り込み、ルアは一つの闇魔法を生み出した。
エリシアの身体を抱え上げ、空気のマントを纏って夜空へ浮かびあがると、真っすぐに隠れ家へと駆ける。
満天の星の下、流れ星の脇を通り抜けながら、エリシアは嬉し気に声を上げた。
「いくらなんでも速すぎます」
「いいよ、スピードも君の思うがままだ。でも、言葉とは裏腹に楽しそうだけど」
「そんなのわかるんですか?」
「まあね、魔力資源を貰ってるからかな」
表情でわかる、とは答えなかった。
単に揶揄う気持ちもあったけれど、言わずとも伝わる、そうありたかったことに、ルア自身が気付いている。
三つ目の答えは、ただ一緒にいたかったからだ。
少しばかり気恥ずかしくて、口に出すのを躊躇ったけれど。
◆
人脈を広げ、計画を立て、準備を進める。
せわしない日々の中、ふと一つの知らせが舞い込んだ。
曰く、従者であったリオスは生きている、と。
城郭都市の中央、ノルディアス家の居館の地下牢に繋がれている。
真偽を確かめる術はない。
だが、それを聞けば、計画のすべてを前倒しせずにはいられなかった。
最短で整った準備をもとに、ルアを中心とする旧ノルディアス軍はかつて自らのものであった城郭都市に向け一斉に蜂起した。
あの日と同じ丘に布陣し、ルアは眼下をじっと見降ろしていた。
再び炎と煙に包まれつつある城郭都市の各所で、軍勢はルアの指揮を待っている。
自らの闇魔法は使わず、ルアは後方からの指示に専念していた。
戦況は一進一退。
隣国からオブスクラの本隊が迫る前に、城郭都市を占領してしまいたいものだが、襲撃後にそのまま駐留していたオブスクラ軍は、なかなか退く様子を見せない。追いやった者たちを前に、退けないというのが本音だろう。
夕焼けを前に、ルアの前にふとエリシアが立った。
指先をこちらに伸ばし、手を、と小さく呟く。
「エリシア、いいのか」
ルアにとって正しくとも、これは、一度おさまった戦火を再び広げる行為とも言えることだ。
訊ねるルアに、エリシアは頷いて見せる。
「あなたの愛する人を助け出すため、なのでしょう? それは、正しい行為だと思うのです」
ルアの手を取り、魔力資源を委ねてくる。
二人の身体が、ふわりと宙に浮いた。
ルアは慌てて近くの魔法将に後の指揮を頼むと、エリシアの背を抱えて空へと飛び立つ。
流れ星よりも速く奔る二人に向け、弓矢が、魔法が四方から放たれるが、追いつくものはなかった。
「ルア! もっとスピードを!」
「前と言ってることが違うぞ」
「状況が違うのだから仕方ありません」
居館のバルコニーに足を突き、勢いのまま室内へと飛び込む。
扉を走り抜け廊下に出れば、勝手知ったる以前の自宅は、破壊された箇所はあっても大きく構造の変わるところはなかった。
子どもの頃から館中を探索して回った甲斐もあり、ところどころで出会った兵を撒きながら、二人は地下牢へと走る。
崩れかけた牢の奥、湿った床に、彼は座っていた。
「――リオス!」
名を呼び、駆け寄ろうとしたルアの手を、だがエリシアは後方へ引いた。
思わず足を止めたルアの足先を、一瞬の差で白刃が掠めていった。
「チッ、失敗した」
低く吐き捨てた男の姿は、ルアにはどこから見てもリオスにしか見えない。
だが、そのリオスが、ルアに向かって剣を振り下ろしたことは間違いなかった。
「……リオス、どうして」
「無事で良かったって言ってやれたら良かったんですがね。どうしてノルディアスに舞い戻ってきたりしたんですか」
「お前が……言ったんだろ。もう俺しかいない、ノルディアスには……」
「それ位言わなきゃ、あんた、一人で逃げようとしたりしないでしょうが」
リオスがひどく顔をゆがめた。
まるで、空間が一緒に歪んだかのように感じる。手を握るエリシアの手だけが、ルアにとってはただ一つ確かなものだった。
「あのまま逃げててくれりゃ、殺さなくて済んだんだ」
言いながら、リオスの握る刃が再び宙を裂く。
同時に放たれたのは、光魔法による炎。地下牢の暗がりに一瞬、眩い光が走り、ルアは思わずたたらを踏んだ。
「な、んで……お前が俺を殺すなんて、どういうことだ!」
「いくら軍備の少ない国だからって、あんな簡単に城郭都市が落ちるなんて、おかしいと思いませんでしたか? 内側から引き入れた者がいたから、ああなったんだ」
「裏切り者がいた……」
「そうです。末の王子の従者なんて立ち位置、城門を降ろして外の敵を中に入れるには、あまりにも便利過ぎましたよ。兄王子達の周辺と違って、継承権争いとも無関係な分、疑われることもありませんでしたしね」
「お前が、裏切った……?」
「――ルア、駄目! しっかりして!」
思い切り引かれた手から、膨大な力が流れ込んでくる。
ルア自身の身体を、動力機関を無理にでも動かそうとするその魔力資源の奔流に、一瞬意識さえ持っていかれそうになる。すんでのところで踏みとどまり、ルアは突き出されたリオスの剣を弾き飛ばした。
「おっと。今の魔法は、闇魔法かな? 光魔法の出来損ないが、立派な魔法を身に着けたもんじゃないですか」
リオスはちらりとエリシアに視線を向けると、唇を捻じ曲げてルアに向き直る。
「その子が魔力資源、なんだろうな。こんなとこまで大事に連れて来て……狙いやすいったらありゃしねぇぞ」
ルアの頭上へ向け振り下ろされたはずの刃は、しかし一瞬の間を経て、真横へと切り払われた。
「きゃ――!?」
剣の向かう先がエリシアであると直感した途端、魔力資源が爆発するような勢いで内側からこみ上げてくる。先ほどは押しとどめた魔力資源の横溢を、今度こそ止めることが出来なかった。
ルアはなんとかその暴力的な力に、動力機関で力を加え、一方向へ向け奔らせる。
向かう先はリオスの身体。溢れ出た魔力資源は、そのまま凶暴な一閃となって、リオスの腹を食い破り、地下牢の壁に食い込んで止まった。
「……リオス!」
駆け寄ったルアに向け、リオスは血と泥で汚れた顔を上げる。
それはこれまで一度も見たことのない、長年の従者の泣き顔じみた表情だった。
「……死ぬ前に……一つだけ謝らせてほしい。おれぁ……あのとき、嘘をつきました。おれが仕えてきたのはノルディアス王家であって……あんたじゃないって」
ははっ、と息が漏れるような笑い声が響いた。
「謝ります。十五年も従者やってて、そんな訳……そこだけクッソ下手な嘘になっちまったな……」
「馬鹿、そんなのとっくにわかってる! 治療するから弱音を吐くな!」
「十五年前に妹が生まれて……嬉しかったなあ、可愛かった。なんかミルクの匂いがして……小さな手で一生懸命おれの指を掴んでねぇ……」
虚ろな視線で、繰り言じみた話を始める。
聞いたこともない従者の過去に、ルアは思わず目を見開いた。
「……オブスクラ家に人質に取られた。妹を助けたくて、こんな大それた……ふ、どっちを取っても、おれには後悔しかない……せめて妹を……」
「待てよ、助けてやる! お前の妹だって俺が――だからっ!」
腹から吹き上がる血を必死で抑え、なんとかリオスの命を繋ぎとめようとする。
だが、顔色はどんどん青ざめ、体温は下がっていく。
「……じゃあ、助けてやってください。あんたが王になって……」
リオスは最後に宙を見て、「どうか幸せに」と誰にともなく呟き、その一息を最後に動かなくなった。
「リオス!」
名を呼んで揺さぶっても、もう返事はない。
治療のために送り込もうとした魔力資源は霧散する。
零れ落ちる汗を拭おうと無意識に手のひらで擦れば、血まみれの手が涙に濡れ、頬が紅く染まっていた。
「ルア」
エリシアに手を引かれ、ルアはゆっくりと顔を上げる。
目の前の少女の赤い瞳が、血にまみれたルアの姿を映していた。
「エリシア、ごめん。せっかく力を貸してくれたのに、救えなかった……」
「ううん」
汚れた手を両手で掴み、エリシアは首を振る。
「ルアは会わせてくれたんです。私の兄、リオス・ヴァルディ……生まれてすぐに引き離されたって、聞いてました」
「じゃあ、リオスが人質に取られたって言ってたのは」
あと一瞬、ほんの一瞬遅ければ、互いにそのことを話し合って、わだかまりなく抱き合うことができたのだろうか。
こんな状況でなければ。どこか別の落ち着いた場所で会えたら。
だが、そのどんな想像も実現には程遠く、結局ルアの心にただ一つ残ったのは、リオスの最期の言葉だけだった。
「エリシア、俺は玉座につく。そのためにはこの城郭都市をもう一度、ノルディアスの手に取り戻さなければ」
エリシアの手を離し、立ち上がる。
さっきまで繋いでいた手の中に、リオスの剣を握りしめた。
ふと、手を繋いでいないのに、魔力資源が流れ込んでくるのを感じ、ルアは振り向く。
「――うん、私も」
エリシアは、まっすぐにルアの目を見つめていた。
「私も、あなたと戦います。これは、私の戦いでもあります」
強大な魔力資源を糧に、ルアは地上へ向かう。
エリシアは少し離れてその背を見ていたけれど、手を握っていた時以上に、その魔力資源が自分のものだと実感していた。
オブスクラの兵を殺し、この地にノルディアスの名を取り戻すのが、自分自身の選択によるものだということを。
◆
城郭都市にノルディアスの旗が翻り、オブスクラの残党を追い出して籠城の準備が整った頃、隣国よりオブスクラの本隊が到着した。
だが、既に城門は固く閉ざされ、今度こそ内から開ける者はない。以前は無遠慮に利用できていた魔力資源は、なぜかこの一大事に使えなくなっている。
周囲を取り囲み、攻めあぐねる彼らを、望楼の屋根の上から少年が見下ろしていた。
「我が名はルア・ネス・セリス・ノルディアス。この地を治めるノルディアス家の末裔、新しき王である。この門より内に攻め込むなら、王自ら刃を交わす覚悟である」
兵を率いていたオブスクラ家の重鎮は、この十代の少年に気圧されたのだという。大人しく兵を引いた。
幼少期は光魔法が使えないと言われていたルア王には、いつも影のように付き従う少女が脇に控えていたと言う。辺境の地故に、二人の関係やルア王のその後については伝わっていないが、以降長くノルディアスの平穏は続いたのだった。




